社会の解体と自治のあるべき姿


新自由主義は社会を解体する。マーガレット・サッチャーは「社会なんてものはない」と言い放った。もっともこの発言は当時のイギリスメディアによる単純化が産んだもので、サッチャーの発言そのものではないようだが、新自由主義が結果的に社会の解体に動いてきたことは確かだろう。

われわれの世代には、もはや高度経済成長期のような、経済発展に対する無邪気な期待を抱くことができない。
それはもう劇的な経済発展を達成することはできないという見立てもさることながら、経済発展の負の側面が明らかになってしまったということがある。
イースター島のモアイ像は、引き倒されていたものを観光用に並び替えたものだ。ハワイはマングローブが生い茂りマラリアが発生する土地柄だったものを、観光のために人工的に作り替えた場所だ。フラダンスは現地の躍りを参考に欧米人が考えたものだ。商売は景観や文化さえも偽造する。
かつての村落共同体は精神的絆で固く結ばれていた。仕事はまさしく共同体に「仕える事」であり、共同体はお互いがお互いの面倒を見合い、助け合った。それが資本主義によってバラバラに解体されてしまったのだ。
それが、生きることにどこか本気になれない、ニヒリスティックな消極的自殺願望すら呼び起こす。システムが先行し、人間はそのシステムに従属する存在になったのだ。
「古き良き時代」は遠くに去り、友情よりも仕事の誇りよりも、カネがすべての価値を決める下品な時代が到来した。
元来生産すべきものがまずあって、そのために必要だということで資本が求められていた。だがもはや現代では主従は完全に逆転し、資本があって、この資本を増大するために何が必要かということで生産が後から見出されるようになった。だから資本の増大は相変わらず続いているが、それは生産者には降りて来なくなった。そして生産者の仕事は徹底的に分業され、いくら勤めてもニッチな技能は身に付いても、本当に経済的に自立する技能はまるで身に付かなくなっていった。マクドナルドのバイトを何年勤めても、パティを焼きパンに挟む技術は身に付くかもしれないが、ハンバーガーショップを営むノウハウは永遠に身に付かないのである。
「共同体を作り直す」。このことを目的に見据えなければ、社会はどこまでも解体されていくのではないか。自分の一身を超えた大いなるものへの参与なくして、現代人の持つ虚しさは解決し得ない。「ご先祖様」とは「わたしのおじいちゃんのそのまたおじいちゃんの…」ということではない。ご先祖様とは共同体の先人なのだ。血縁はこの際問題ではないのである。ご先祖様、つまり死者と生者が共同して自治し、そこに地域の自然が織り成す恵みがある。これこそが真の共同体だ。
こうした自治が確立し、その自治体の延長に国がある。それこそがあるべき姿なのだ。そうしたナショナリズムを、近代社会は解体し、政府と国民ののっぺりとした均質な関係に変えていった。
われわれの魂はいつまで資本に翻弄されるのか。ニホンという市場だけが残り、日本国家は消え去るのか。反抗の声が必要だ。

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