副島種臣宛て明治天皇御宸翰(明治13年3月31日)


 副島種臣は明治12年から侍講を務めていたが、明治13年に入ると体調を崩し、進講を中絶し辞意を示すようになった。同年3月31日、副島の辞意を知った明治天皇は、その夜宸翰を認め、侍補土方久元に即刻、副島邸にもたせた。
 「卿ハ復古ノ功臣ナルヲ以テ朕今ニ至テ猶其功ヲ忘レス、故ニ卿ヲ侍講ノ職ニ登庸シ以テ朕ノ徳義ヲ磨ク事アラントス、然ルニ卿カ道ヲ講スル日猶浅クシテ朕未タ其教ヲ学フ事能ハス、頃来卿病蓐(びょうじょく)ニ在テ久ク進講ヲ欠ク、仄ニ聞ク、卿侍講ノ職ヲ辞シ去テ山林ニ入ントス、朕之ヲ聞ク驚駭ニ堪ヘス、卿何ヲ以テ此ニ至ルヤ、朕道ヲ聞キ学ヲ勉ム、豈一二年ニ止マランヤ、将ニ畢生ノ力ヲ竭サントス、卿亦宜ク朕ヲ誨ヘテ倦ムコト勿ルヘシ、職ヲ辞シ山ニ入ルカ如キハ朕肯テ許ササル所ナリ、更ニ望ム、時々講説朕ヲ賛ケテ晩成ヲ遂ケシメヨ」
 この御宸翰に感泣した副島は、翌朝参内し、侍講の継続を誓った。以来、明治19年侍講職が廃止されるまで副島は進講を続けた。

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