高圧的な姿勢をとる列強に対して、外務卿副島種臣は決して怯まず、阿らなかった。以下、丸山幹治の『副島種臣伯』に基づいて、英国公使に対する副島の態度を紹介する。
副島が外務卿に就任したのは、明治四(一八七一)年十一月のことである。当時、英国公使パークスは、わが国の大臣、参議等を小児のように扱っていた。パークスは、外務卿に就任した副島に対しても、例の恫喝的な口調で外交上の話を持ち出した。副島は、一言の下にそれを刎ねつけたのだった。
パークスは、血相を変かえて副島に言う。
「それならば戦争に訴えるしかない。従来の国交も最早これまでだ」
副島は一歩も引かない。
「国際の礼儀を弁えない足下のような人は、公使としては待つことができない。貴国政府がそのような態度であるなら、帝国政府も考えなくてはならない。これ以上の談判は無用だ」
そう言って席を立とうとした。
パークスは狼狽した。そして「どうも失言をして申し訳ない。戦争などはもっての外である。どうか今一度懇談して見たい」
と折れたのである。
副島は大いに笑って、「いや、御安心なさい、今言ったのは戯談に過ぎない」と語ったという。後にパークスは「自分は清国の総理衙門に対する筆法で日本に臨んだが、副島には飛んだ失敗をしが。彼はなかなかの人物である」と振り返っている。
副島は、外務卿として、傲慢な外国公使に対して一歩も仮借しなかった。明治五年、新任の英国公使ワトソンが西洋の習慣に沿って立礼によって天皇陛下に謁見を賜りたいと副島に申し出て来た。
これに対して副島は、「外国使臣がその国に入ってその国の礼に従うことは万国公法上当然のことである。日本の皇室は古来、立礼を御用いにならない。立礼でなければ謁見を望まぬというなら、それで宜しからう」と、はっきりと返答した。ワトソンは一言もなく、謁見を見合せた。
まもなく、ロシアとアメリカの公使は立礼、座礼のどちらでも仰せに従うから、謁見したいと申し出てきた。そこで、副島はその手続きを取扱った。
いよいよ謁見となり、座礼にしようとしたところ、陛下には御立礼を遊ばされたのである。両公使は非常に感激して退いた。これを聞いた英国公使は大いに恥じ入ったという。
その年五月、英国はどのような御礼式にも従うとして、改めて謁見を願い出た。その時も陛下には御立礼を遊ばされた。
「副島種臣の外交①─イギリス公使に阿らず」への2件のフィードバック
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興味深いないようですね。この内容の出典を教えて頂けるでしょうか。
丸山幹治の『副島種臣伯』に書かれています。