「田舎先生」・堀尾秀斎(春芳)の垂加神道


 堀尾秀斎(春芳)は、延享三(一七四六)年、仙台藩の家臣の谷田作兵衛に招かれて江戸に下向することになった。この年、堀尾は師の須賀精斎から「共に語て道を弘るは此人に有ん」として、「弘斎」の号を与えられた。
 寛延二(一七四九)年、堀尾は知多から再び招かれ、名古屋側の隣村、大里村に移った。この時代にも、堀尾は医業に従事しつつ、周辺の門人たちに神道などの講義をしていた。養子の有秋が残した以下の記録からは、堀尾の講義が垂加派正統の講義だったことが窺える。
 「常にいふ。我は日本人なり、我神道を主とし其余漢字を羽翼とす。人は土金の道を守り、道は日神の道、教は猿田彦の教を守べし。西土にも文王、孔子、朱子など皆我ひもろぎの道に叶ふ人なりと物語有し」
 ここで、注目したいのが、民衆的な習俗に対する堀尾の関心である。寛延三(一七五〇)年に堀尾を訪れた庵原守富の『友千鳥』には次のように書かれている。
 「大里村堀尾氏を尋る事ありて、……堀尾氏にて色々珎敷物語あり。まづ英比庄十六ヶ村にめぐり地蔵の祭並むしくやうの事あり」
 また有秋の記録には、堀尾が外出して深夜帰宅した時、門のほとりで、まむしにさされた話や、毎夜の講義を外で聞いていた狐が、謝恩のためロウソクと小鯔(ボラ)を庭に置いていた話が紹介されている。
 さらに、岸野氏は、民衆的な習俗との接点を求めた堀尾の事例を挙げている。
 「先生知多に在し頃、一とせ近き村里蝗(いなむし)多く田穀を害す。農民これを憂ひ所謂、虫おくりなどし、巫祝を頼みさまざま祈祷など有しかど、しるし無し。先生因て教て白豕(しらい)・白鶏(しらにわとり)等作らしめ、松明をかがやかし蝗を除の法を行はしむるに一夜に蝗尽く去尽て、年穀甚実のりよく里民甚勧びしなり」
 「ひととせ大旱(ひでり)ありし年、京都の人和歌修行とて諸国を遍歴し知多先生の宅へ訪来しが、先生は此年病客多く治療甚いそがしかりしに、彼人に対していえらく、昔し小野の小町は祈両の為に神泉苑に歌よみて忽雨をふらしけると聞。貴兄、和歌修行する程ならば、祈雨の歌よみて雨を降し万民の難を救てこそ和歌の益も侍るべし。然るを一己の楽しみに歌よみて諸国を遊歴すること誠に詮なきわざなるはいかにと問ふ」
 この記録について、岸野氏は以下のように書いている。
〈「田舎先生」春芳にとって、神道も和歌も民衆的願望と習俗と結びついた「実学」であることが重視されていることが理解しうるであろう。この立場は、長期にわたる在村医・在村神道者としての春芳が、書物中心の都市的専門家に対する時の最大の武器となっている………目的の為にする春芳の神道や和歌の方法は、文学を道徳的、宗教的その他諸々の外的要因から解放して、それ自身の価値を主張しようとする、本居宣長の文学論やそこから展開した神道論とは、本質的に立脚点を異にしていたといえる〉
 さらに、岸野氏は堀尾の思考と陰陽師との結びつきについても指摘している。

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