シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(三)平重盛


次に平重盛(たいらのしげもり)です。重盛は太政大臣平清盛の長子です。父清盛の暴悪を諌め、朝廷への誠忠を尽くしたことから、和気清麻呂楠木正成と並んで我が国「三忠臣」の一人と称されます。保元・平治の乱で父清盛が政治の実権を朝廷から簒奪し、平家が台頭するにつれて重盛の官位も上昇し、治承元年には左近衛大将、次いで内大臣に進みました。

その頃、平家の専横を憎んでこれを滅ぼそうとする企て多く、藤原成親(なりちか)は先ず党を結んで謀る所がありましたが(鹿ケ谷の陰謀)、直ちに漏れて捕らえられ、特にその企てには後白河法皇も加わり給いていることを聞いた清盛は、法皇を別の宮に押し込めようと思い、子弟一族を召集しました。そこで清盛の親族等は甲冑を着て集まりましたが、少し遅れて来た重盛は烏帽子直垂の恰好をしていたので、これを見た弟の宗盛は「大事のときに、どうしてそんな姿をなさるのか」とたしなめたところ、重盛はかえって宗盛を叱り「大事とは何事か。我が家の事に集まるがごときは私事ではないか。かつ国家の大事なれば不肖ながら我は近衛大将も兼ねておるからお前たちを待たぬのである」と言って座につきました。

これを見た父清盛は深く心に恥じて鎧の上に服を着、重盛に対して「お前はどうして来るのが遅れたのか。今回の謀は全く法皇に出でたのだから、今から法皇を他所に移し、禍の根を断つのだ」と告げました。すると重盛は誠忠の心からはらはらと涙を流し「父上の身は太政大臣の位にありながらも自ら甲冑を付け、また出家されてからも弁えなきは何たることでしょうか。そもそも仏道には四つの恩(父母、国王、衆生三宝)がありますが、その中でも君の恩が最も重視されています。我が一族のごときは、この君(後白河法皇)の御恩を蒙りてこそ今日の権勢を得ておりますのに、それを忘れて皇位を蔑ろにするとは、いかにも心得違いと存じます。いわんや至尊(法皇)に迫り奉るなど、不臣の甚だしい振る舞いです。もし父上にして強いて意のごとくされるおつもりであれば、まず私の首を斬ってから事を挙げて下さい。私は不忠不孝の子となることを欲しませぬ」と言って清盛を諌めました。

さらに重盛は一族の将士を召して父清盛に人をやり「法皇が父上の言動を聞いて大いに怒らせ給い、詔を重盛に下してこれを討たしめようとし給うておりますが、この私がある以上は、父の罪を引き受けて救い参りますので驚き惑い給いますな」と告げしめたので、清盛は大いに狼狽え、予はただ重盛のなす所に任せもはや何事も手出しをせぬとあやまり答えました。後白河法皇このことを遥かに聞かせ給いて、重盛のごときは徳を以て怨みに報う者、真に忠貞の臣であると大いに感謝せられました。

かくて一度は重盛に諫言に従った清盛でしたが、惜しいかな重盛は治承三年病で亡くなると、その暴悪愈々増長し、平家滅亡への道をたどったのでした。

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