荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[②より続く]〈田宮、田中の二人を京都の新政府に止め一位老公を擁して帰藩せし以後の丹羽は、概ね田宮の規画に基くとは言ひ乍ら、藩中異論者の排斥処分を始め閣藩刷新のことを実行し、士気を振作し兵制を更め武器を改良して新たに壮兵を募り(新募壮兵隊の名称を磅磚隊、正気隊等と称す)急遽之を訓錬して直に征討軍に送る等一気呵成に之を遂行したるは彼れが断行力に富むの結果であらねばならぬ。
固より上には成瀬の至誠と田宮の善謀とあり下には松本暢の能く新兵編成の事に当るあり、其他各種の便宜輔翼を得たるの致す所なるも、藩情紛糾乱の際兎も角も之を処理したるは丹羽にあらざれば企及し能はざる所である。而かも此時の丹羽は纔に二十三歳の若齢であつた。
兵馬倥偬の間にも丹羽には別に閑日月ありて彼れが得意の風流は之を等閑に附せず詩酒悠々常に朱唱紅歌に親むだ、之れ彼れが英雄的資質の流露するものにあらざる歟而して彼れが此趣味より来れる戯謔(ぎぎゃく)なるや否を知らざる……
丹羽は戊辰の首夏(閏四月二十四日)弁事に任じ東京府判事攝行を命ぜられたるに由り、一旦東京に赴任せしも藩地人才乏しく一位老公の政府に内請する所ありて忽ち藩地に帰り大参事として藩務に鞅掌せるものであつたが、廃藩置県(明治四年十一月十五日)の結果安濃津県参事と為り尋いて三重県権令と為り後ち、幾くもなく又中央政府に入り司法の丞となりたるものである〉