藤原師賢(ふじわらもろかた)は内大臣藤原師信の子で、花園天皇に仕えて参議となり、後醍醐天皇が御即位されてからは正二位大納言にまで昇進した。朝廷では院政が行われ、東では鎌倉幕府が覇権を握る時代において、後醍醐天皇は日本の国を正しい姿にかえすことを御志しになられました。ときに天皇、権力を牛耳る執権、北条高時を討たんとせられましたから、師賢は首としてその謀にあずかりました。然るにその事洩れて高時、天皇を遷さんとしましたから、師賢は藤原藤房と共に天皇を奉じて、夜に禁中を出で三條河原に到りました。そこで師賢、自ら袞龍(こんりゅう)の衣(天皇陛下が御召しになられる服)を着て御輿に乗り、詐りて天皇と称し、身代わりとなりて延暦寺に向かいました。その間に天皇は無事に笠置山に遁れることができたのです。ときに師賢、ついに正体を敵に暴かれ、天皇が御座します笠置山に遁れ入り、万里小路藤房、北畠具行等と共に天皇を扶けて奔りでました。然るに不幸にも路を失い師賢は賊の為に虜となりました。師賢は下総に流され、千葉貞胤の家に囚えられましたが、師賢は夙に学を好み利害の為にその心を動かすことなかったので、かかる時にも晏然として時を待ちました。ただ一念、天皇の事に及ぶ毎に涙を流してその御不運を嘆きました。かくて同年冬、病にかかり三十二歳という若さで薨じました。天皇これを聞いて悼み給い、太政大臣の位を贈り文貞と諡(いみな)せられましたが、明治の御代になって更に位を贈り、その功勲を録し給うたのであります。