シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(七)楠正成


   楠正成(くすのきまさしげ)は、河内の人で、先祖は橘諸兄公(聖武天皇の御代の左大臣)で有名な橘氏であります。父の正康がその妻と共に志貴山の多聞天に祈って、正成を授かりましたので、幼名を多聞丸といいました。出生この様に奇しく、つとに将略の才に長じ、人に優れておりました。しかし河内に土着しておりましたので、あまり世に知られずにいました。
 時に元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は、鎌倉の執権北条高時が大兵を差し向けて都を攻めたので、それを避け給いて大和の笠置寺行幸されました。然るにその頃、天皇の為に力を尽して御難を救わんとする者がありませんでした。天皇大いに憂慮し給うておりました、そんなある夜に、まどろまれた天皇は一つの不思議な夢を御覧になりました。
 その夢というのは、紫宸殿の前に一つの大なる樹があって、その南方に当る枝が最も栄えておりましたから、天皇はやがてその枝の下に玉座を設けて百官を召集えられました。然るに忽ち、童子が何処ともなく御前に来り跪いて、玉座を指さして泣きながら奏しあげて曰く、今や天下はどこにも陛下を容れ給うところはないが、ただこの座ばかりが御安泰に在らせ給うことができるのみ、と。
 こういう夢を見給うて御目が覚めたのであります。そこでいかなる夢告(しらせ)かと親しくこれを占い給うたところ、まず木の偏に南というは楠である、されば楠を以て氏とする者があって、朕を助け目下の危難を救うであろうということが分かりました。天皇はすぐに寺の僧快元を召し給い、この辺に楠を以て氏とせるものがあるか問わせられました。快元はこの辺に楠正成と申すものがありまして、武略大に優れたる名将でありますと御答え申した。これを聴き給うたる天皇は大いに悦ばせ給い、すぐに藤原藤房を使として送らせられました。
藤房、河内の金剛山にいます正成を訪ね、御前へ出るように御命じになりました。正成は悦び勇み、藤房に伴われて行在所へ詣でましたところ、天皇は万事を汝に託すぞと宣べ、且つ賊兵を防ぐための謀を問わせ給いました。そこで正成は感泣して、一々これに御答えを申し上げ、成敗は兵家の常であれば僅少の敗軍のために聖慮を煩わすこと勿れ、臣(私)の存する限りは必ず敵を討ち平らげて御覧に入れましょうと誓われました。行在所を去りて、帰って赤坂城を築いて戦い、後には金剛山に立てこもりました。常に鎌倉方の百万もの兵に対して、わずか千余人の兵を以て敵を悩まし、北条氏をして奔走に疲れしめたので、その隙に新田義貞が鎌倉へ攻め入り、難なく北条氏を滅ぼすことができたのであります。ここに車駕(天皇が乗られる車)はめでたく京師へ還り給うこととなったのです。世にこれをもって、建武中興の大業と申すのであります。
然るにその後、足利高氏が朝廷に背きました。楠正成等のために一度は破られて九州へ逃げましたが、再び五十万からの大軍を率いて攻め上ってきました。正成は七百の兵を以て湊川に陣して好戦しましたが、衆寡敵せず、前後より敵を受けて遂に戦死したのであります。享年四十三でありました。天皇大いにこれを悼み給い、正三位左近衛中将を贈られましたが、明治に至りて更に位を贈られました。これ皆その精忠を誉めさせられたのであります。
   ここに正成が湊川に陣するに至った有名な話があります。正成が湊川に陣したのはその本意ではありませんでした。正成は一度京師を離れ、高氏を京師に誘い入れ、新田義貞と共に挟み撃ちにすることを謀り、進言致しましたが、他の公家たちに退けられ、用いられなかったのです。然るに正成は勅命を畏み、死して後已むの精神を以て、その尽くすべきところを十分に尽くしました。その間に一点の曇れる所のなきが、即ちその正成の至誠の致すところであります。
   されば討死の時に、弟正季と刺し違えて死にましたが、その際、正成が弟に向かい、汝は死して如何にするかと問われました。すると正季、願わくば七たび人間に生れて国賊を鏖(みなごろし)にせんと答えましたところ、正成は欣然として、それこそ我が思うところであると言って自決しました。生き残る一族十六人、従士五十余人、悉くその主正成に殉し自決して相果てたのであります。これ実に団結の強固なるを示せるもので、また以て、正成平生の撫育の一方ならぬを察することができます。
   後世、勤皇家といい尊皇愛国の精神に富める人といえば、直ちに正成を第一に挙げますのは全くかかる危難の際に当り、その純潔至誠の行動を為したからであります。

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