「坪内高国は勤王の志の厚い人であった」(『岐南町史』)


 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)に基づき、明治維新期の坪内高国の動きを整理しておく。
 高国は、慶応四年(明治元・一八六八)二月七日に、尾張藩主へ勤王の証書を差し出した。内容は以下の通り。
 〈一 岩倉殿並御家ヨリ御達相成居候、朝命之趣附遵奉仕、勤王之志興起仕候上は、仮令徳川庶人之指揮有之候共、御家え伺之上ナラテハ、其指揮ニ応シ中間敷事
浮萍之徒動乱ニ乗シ、紳縉家之命、或は御家之藩士ト偽リ、僈集ニ渡リ候所置有之候上、乱妨之次第ニ及候ハゝ、近傍勤王之諸侯ニ援兵ヲ請鎮静方取計可申候事
一 近隣ニ有之候、土着詰合之有司之領地、互ニ申合勤王可仕候事
 右之条々、誓て遵奉可仕候間、為後日証書如件〉
 高国は、二月十日には、大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 高国は、二月二十日には、名古屋城に登城し、尾張前大納言徳川慶勝に目見えて、この上一層勤王いたすよう励まされ、菓子一包(干菓子五品落雁等)、手綱五筋を与えられ、また元席で料理(酒・膳)にあずかり退出している。この御目見の時、第一番目は、加納城主永井肥前守尚服、第二番目は、表交代寄合の旗本兼尾張藩士四千四百石千村は靭負(可児郡久々利村)であり、第三番目が坪内高国であった。
 『岐南町史』は「坪内高国が尾張前大納言徳川慶勝に重要視されていたことがわかる」と記し
、さらに次のように書いている。
 〈明治元年(一八六八)九月十九日、坪内高国は、京都の非蔵人口へ出頭して、行政官より本領(高五百六十七石余)安堵の朱印状を受領し、上士席になった。明治二年(一八六九)十一月三十日、留守官より上士触頭の任命辞令を受領した。千石以下の上士で上士触頭(配下の上士・下士三十一名)となったのは破格の栄与であった。明治三年(一八七〇)四月、顧に依って致任し、美濃国羽栗郡平嶋村陣屋に住居することになった。致仕に際して格別職務に精励したがどで、京都府よりほう詞とともに金百八十両を下賜された。この間、明治二年(一八六九)十二月九日に采地を奉還している。以上のように、坪内高国は勤王の志の厚い人であった。〉(『岐南町史』271、272頁)

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