兒島高徳(こじまたかのり)は、備前の人で、幼い頃より読書を好み、それによって大いに尊皇の大義を弁え、一日兵を集めて勤皇の旗を挙げました。時に後醍醐天皇は笠置山に御在し、高徳に錦旗を賜いました。
ところが幾ばくもなく、笠置山は陥り、天皇は賊のために隠岐に流され給うこととなりました。これを聞きて高徳は憤慨し、志士の起つべきはこの時なりと、車駕を隠岐に行く途中で奪わんと企て、舟坂山に上り、車駕の通過するのを待っておりました。そして、車駕が山陰道に向かうのを確認するや、高徳は賤しい服を着て抜け道を通り、車駕の後を追いかけました。遂に隠岐に入り、行在所の庭に忍び込み、桜の木を切って、これに次の二句を書き付けて去りました。
天莫空勾践(天、勾践を空しくする莫れ)
時非無范蠡(時に范蠡、無きにしも非ず)
これはシナの故事を引き、越王勾践(こうせん)が范蠡(はんれい)の力を借りてその国を回復したように、天皇にも今に味方して車駕を迎え出る范蠡があるとの意を示したものであります。衛士はこれを見てもその意を知らず、天皇に申し上げたところ、天皇これを御覧じて心ひそかに喜び給うたのであります。
かくして後、天皇舟坂に在わす時、高徳はその父と共に一族を率いてこれに詣で、千種忠顯に属して六波羅を攻めましたが、忠顯の卑怯なるために戦い敗れました。その後も賊と各所にて戦い、勤皇の志士として奮戦しました。
足利高氏が反逆するや、高徳は義兵を募りて千余人を得て、これを近郊に分かち置きて、高氏を狙撃せしめんと企てました。ところが高氏これを察し、兵を遣わして兵の隠れたる壬生を攻めましたから、高徳は信濃に奔り、髪を剃り、志純と号しました。
時に天皇、男山に還り、京師を復さんと謀り給うや、高徳は勅を奉じて東北に赴き、諸国に諭して行在の急なることを告げました。そこで各将軍ら兵を発して救わんとしましたが、その軍達せぬ先に男山は陥落してしまったのです。
かくして後、高徳の行方は分からぬこととなりましたから、世の人の中には、かかる人物(高徳のこと)は存在せずと説く学者もありますが、それは余りにも速断であります。しかし一方で、世に有名なる『太平記』の書は兒島法師の作とも言われ、即ち高徳が法体になってよりの著述であろうという説もあります。これは学問が深く、勤皇の志士であった兒島高徳であれば、無きにしもあらずではないでしょうか。