合原窓南の門人①


 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。
●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。
●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。
●不破実通
 不破守直の子で、山崎闇斎の垂加神道を奉じ、和歌をよくした。
●尾関正義
 米藩士。名は権平。垂加神道を学びかつ国学に通じた米藩士不破守直に学んだ後ち、本居宣長の声名をきき、伊勢松坂に行って宣長の教を受けた。帰藩後は儒教隆盛の中に、大いに国学を唱え、米藩国学の基を開いた。後世、宮崎信敦・船曳鉄門と併せ、米藩国学の三大家と称せられる。正義の国学は子の真勝が承け、矢野一貞に伝った。七代藩主有馬頼徸の碑文及び石蓋の銘を誌した。寛政十年(一七九八)十一月十六日没。享年四四。墓は京町梅林寺。
●尾関真勝
 尾関権平正義の子で国学者。名は伝次郎で正臣と称する。矢野一貞の国学の師で著書に「みつのはかり」がある。天保十年(一八三九)五月六日没。享年五七。墓は京町梅林寺。
[続く]

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