今年もまもなく終戦記念日を迎える。「終戦記念日」というと聞こえはいいが、実際は「敗戦記念日」であり、我が国にとっては白村江の戦い以来の大敗北を喫した国辱的な記念日である。周知の様に我が国は国体を護持しうるという条件の下でポツダム宣言を受諾したのであるから決して「無条件降伏」ではなかった。しかるに戦後アメリカによる対日占領政策では、神道指令や天皇の「人間宣言」、主権在民の憲法等、我が国の国体を根本から否定する改革が行われ、我々は戦後から七十年以上を経た現在に於いても、その後遺症に苦しめられているのである。特に、戦後GHQや日教組によって植え付けられた自虐的な進歩史観が我が民族の弱体化に与えた影響は計り知れない。そこでは、先の戦争を引き起こした原因が、明治憲法下における民主主義の不徹底や内閣から独立した軍部の暴走によるものとされ、民主主義や軍の文民統制を正当化する根拠とされたのである。確かに明治憲法では、天皇が統治権を総攬し、軍を統帥するとされた一方で、その存在は神聖不可侵であるから政治的に不問責であると規定されたことから、一面では皇威を傘に着た薩長藩閥の政治的な隠れ蓑にされた嫌いはある。また、明治の元勲亡き後、内閣と軍が割拠し、政軍の意思統一が測り辛くなったのも事実である。しかしその事は、毫も天皇をイギリスの立憲君主の様に、政治権力の埒外に置き、文民統制の名の下に軍を民主主義に従属させる根拠にはならない。むしろ、それらの事実は、本来、建武新政以来の王政復古、天皇親政を実現した明治維新の精神が英国流の立憲君主制の影響によって後退した結果を示すものに他ならない。即ち、「君臨すれども統治せず」とする消極的君主像が理想化されたことが、天皇大権の発動による断固たる政治意思を不在にし、責任の所在を曖昧にし、政軍の割拠を招いた根本の原因なのである。天皇は神聖不可侵であるが、統治権の総攬者である以上、政治的に不問責ではあり得ない。しかしその責任は、国民やその子孫に対してではなく、皇祖皇宗に対するものであり、それなくしてキリスト教的な個人主義道徳に基づかない我が国の政治体制は、茫漠たる「無責任の構造」(丸山)に陥らざるを得ない。戦後民主主義は、軍(自衛隊)は内閣に対して責任を負い、内閣は国会に対して責任を負い、国会は国民に対して責任を負うことになっているが、では国民は何に対して責任を負うのか定かではない。天皇は、皇祖皇宗に対して責任を負い給うのに対して、国民は将来の何者にも責任を負うことはない、いな誰も責任を負うことなど出来ないのである。これこそ、巨大な「無責任の構造」である。この様に、我々が先の敗戦と明治憲法体制の挫折から学ぶべき教訓は、天皇親政ではなくして立憲君主制、責任なき民主主義、議会政治の弊害である。
徳富蘇峰翁は、終戦直後の日記の中で、先の敗戦の原因について考察し、次の様に述べている。「今上陛下に於かせられては、むしろ御自身を戦争の外に超然として、戦争そのものは、その当局者に一任遊ばされることが、立憲君主の本務であると、思し召されたのであろう。しかしこれが全く敗北を招く一大要因となったということについては、恐らくは今日に於てさえも、御気付きないことと思う」と。我が国に於ける天皇の本来的な御姿は、英国流の立憲君主の様な消極的君主ではなく、万機をみそなわし、皇軍を統帥し給う能動的君主としての御姿である。またそのご親政を輔弼し奉ることが臣下たる我々国民の責任であり、この君臣の本然たる姿を取り戻すことが国体の護持にとって何より肝要であって、それなくして我々が先の「敗戦」の教訓に学んで有史以来の国辱を雪ぎ、真の「終戦」を遂げることは出来ないと断じる。