「明治四年國體派排除事件」の背景② 士族反対派政権樹立につながる「脱隊騒動」


 石井孝氏は、「脱隊騒動」がはじめから全国的士族反乱の一環として計画されていたと述べ、以下のような事実を指摘する。明治二年十一月、山口藩士三名が熊本藩の飛地、豊後鶴崎に尊皇論者として著名な河上彦斎を訪い、援助を請うている。明治三年一月の常備軍檄文には、脱退の徒が「私かに肥後・久留米・柳川其外へ使者を遣し、国外ニ党を結んで不軌を謀り」とある。
 大楽源太郎は明治三年三月五日、山口へ連行される途中で脱走、一時姫島に潜伏し、九州の同志と連絡をとった。大楽は三月下旬、熊本藩の飛地である豊後鶴崎に赴き、この地で藩の兵学校「有終館」を指導している高田源兵の庇護を受けた。高田は、大楽のかつての同志である。
 ところが、五月には熊本藩で実学党が政権を掌握し、高田ら尊攘派に対する弾圧が強まった。その結果、大楽らは熊本に潜伏することができなくなり、竹田・日田を経て、筑後川を下り、久留米に向かった。このとき大楽が頼ったのが、久留米藩士族・古松簡二である。古松は安井息軒に師事した後、文久二年に池尻岳五郎とともに脱藩して筑波山挙兵に加わった人物である。
 久留米藩の政権は尊攘派が握っていた。久留米藩では明治元年一月に、佐幕派の参政・不破美作が、小河真文ら尊攘派によって暗殺され、同年五月、尊攘派の水野正名の政権が成立していた。久留米藩政権が尊攘派だったからこそ、大楽は庇護を受けることができた。
 大楽は久留米藩で、藩内庄島村庄屋・寺崎三矢吉のもとに潜伏していた。十月、小河真文が大楽を訪れると、大楽は、「当今ハ人心政庁ニ背キ候折柄ニ付、此図ヲ不外、藩力ヲ仮リ天下ニ押出シ恢復ヲ遂、奸徒ヲ掃攘イタシ度」と懇願した。これに対して小河は、武士・町民・農民の混成によって編成された「応変隊」五百人、そのほか指揮に応じる者があるので、「右兵卒ヲ引卒イタシ恢復ノ儀請合可申趣断然議論二渉」つた。
 十月の時点では、大楽は久留米藩の力を借りて「恢復」を志し、小河も大楽の懇願に乗って「宿志」を遂げようとしていた。
 石井孝氏は〈当時、久留米藩は、九州における尊攘派=士族反対派の中核として「恢復」を図ろうとしていたことがわかる〉と書いている。
 ところが、山口藩は大楽らが久留米藩内に潜伏していることを探知した。そして、閏十月、久留米藩は山口藩から逮捕・引き渡しを迫られたので、大楽は逃走、十一月、久留米・柳川両藩の境尾島から小河に文通し、面会を要請した。小河が同地に赴き、大楽と面会すると、大楽は「潜伏中追捕ニ逢ヒ虎口ヲ遁レ候得共、身ノ措処ニ差支」えるので、潜伏の場所だけを斡旋するよう懇願した。そこで小河は、「如何ニモ憫然ノ体ニ付承諾」し、藩内諸所に潜伏させたという。
 一方、石井氏は、反乱計画に参加したかどで捕らえられた高知藩脱藩士族・堀内誠之進の供述書に基づいて、当時の計画を明らかにしている。堀内は、天保十三(一八四二)年十月、土佐郷士・島村文蔵の次男として生まれ、同郷の羽田恭輔らと国事に奔走した。
 明治二年八月中旬、堀内は、旧知の仲にあった兵部省軍曹・伊藤源助と会い、「時勢見込之趣」を論じた。そのとき伊藤は、「朝ニ立候官員之内重官之モノヲ斃シ可申、左候得ハ随而御政体之変革イタシ候場合モ可有之旨」を語った。これに対して、堀内は、そのような暴行によらない方策はあるだろうと答えた。
 八月下旬、堀内は伊藤からの招待で京都二条のある料理屋に行った。すると、伊藤のほか山口藩の神代直人(こうじろなおと)らがいて酒宴を催していた。神代は大楽の西山塾で学び、攘夷論者となった人物である。
 神代は次のように述べて、大村暗殺計画を堀内にもらした。
 「当時西京ニ罷在候大村兵部大輔殿ハ全体洋癖之奸物ニテ、畢寛御維新前後朝廷之御処置反覆イタシ侯ハ悉皆同人之奸策ニ出候儀ニ付、同人ヲ斬戮致侯ハ自ラ変動之道モ相開可申」と。さらに神代は、その計画を実行するには人数も揃っているが、「後ニ相発侯条件モ有之儀ニ付。猶同志ヲ募り尽力イタシ呉候様」依頼した。堀内はこれに同意して別れた。
 その後まもなく堀内は、大村暗殺の報を得た。当局の捜索が厳しくなったので、九月二十四日、京都を脱出し、中国・九州辺りを遊歴し、十二月下旬には熊本を徘徊していた。その頃、堀内は同藩内藤崎の神職・鬼丸壱岐方で、高知藩の岡崎恭助と面会した。岡崎は、奇兵隊が攘夷論を主張しているので、「同志ヲ募リ奇兵隊ヲ助候ハヽ攘夷恢復之期モ可有之」と説いた。堀内は岡崎とともに久留米に赴き、古松簡二を訪れた。
 古松は、奇兵隊を援助するだけでは効果が小さいので、熊本藩の河上彦斎を山口藩に送りこみ、うまく説得して当分、藩兵と奇兵隊を両立させておき、その間、岡崎が尽力して「双方牛角之勢ヒヲ合セ可然」という策を決めた。
 「脱隊騒動」も敗れたため、堀内は久留米を去り、四国・九州諸所を遍歴し、結局、東京に赴き、愛宕通旭(おたぎみちてる)を擁する士族反対派に合流した。
 一方、河上彦斎の陳述によると、堀内・岡崎とともに古松を訪い、「熊本藩ノ使命ヲ請、山口藩ニ趣、説得ヲ以当分休戦為致、奇兵隊ト常備諸隊トノ間、牛角ノ形チヲ為シメ、其隙ニ乗シ諸藩ヲ鼓舞致シ、大ニ兵力ヲ震ヒ天下ニ押出シ、輦轂ノ下ニ於テ曲直ヲ相糺、積年ノ宿志ヲ貫徹可致」と決議したことになっている。石井氏は、これらを踏まえて、次のように書いている。
 〈常備隊と奇兵隊の間に立って「互角の勢」をなさせるというのは、当面の戦術であって、ついには全国の士族反対派を糾合して首都を奪取するという遠大な計画であった。「脱隊騒動」が士族反対派政権樹立へつながることが、いよいよ明らかになるであろう〉

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