明治4年を境にして、國體派の一部が明治新政府によって排除された背景に何があったのか。
以下、東北大学名誉教授の石井孝氏が平成5年11月に刊行した『明治維新と自由民権』(有隣堂)の記述にしたがいつつ考察してみたい。筆者は、石井氏の幕末攘夷思想の評価については異論があるが、明治4年國體派排除事件の核心に迫る材料を提供してくれていると思われるからである。
明治二年十一月、長州藩は政府の兵制改革に従い、従来の諸隊を解散し、新たに常備軍の編成を決定した。長州藩が選抜を行うこととしたところ、遊撃隊の嚮導三人が、藩に上官の弾劾書を提出、私曲不正の多い上官による選抜に反対した。これに対して、藩はこれを無視して選抜を行った。その結果、不平兵士二千人余は山口から防府方面へ脱走して反乱を起こしたのである。
石井氏は、この脱隊騒動に関する二つの見解を紹介する。一つが、士族の封建的特権の削減に反対する「反動的なもの」、すなわち一種の士族反乱とする遠山茂樹氏の説である。もう一つが、「この反乱は攘夷反動士族が指導したとはいえ、たんなる反動的暴動ではなく、人民一揆の性質を帯びていた」とする井上清氏の説(井上清『日本の軍国主義』Ⅰ)である。さらに、原口清氏・田中彰両氏は、それぞれ井上氏の見解に立って、「脱隊騒動」を具体的に分析しようと試みた(原口清「長州藩諸隊の反乱」(明治史料研究連絡会編『明治政権の確立過程』一九五六年、田中彰「明治絶対主義政権成立の一過程」『歴史評論』七十五号、一九五六年)。そして、石井氏は次のように続ける。
〈いかに人民の蜂起ではあっても、それを指導する勢力の性格いかんによっては、まったく相異なる結果をもたらすものであることに注目しなければならない。この点からすると、「脱隊騒動」を指導するものが「攘夷反動士族」であるとされていることの意味は大きいと思う。谷川健一氏の『最後の攘夷党』(三一書房、一九六六年)は、いくらか小説的な潤色も加えられているようであるが、「脱隊騒動」の政治的性格に新たな照明をあてる手掛りになる。すなわち、この書によって、「脱隊騒動」は士族反対派による政府転覆陰謀の一環であること、この士族反対派は、幕末期尊攘派の嫡出子であること、が明らかにされるであろう。さらに谷川氏は、大村益次郎の暗殺から「脱隊騒動」をへて、久留米藩を中心とする士族反対派の反政府陰謀にいたるまで、その煽動者として幕末期長州尊攘派の流れを引く大楽源太郎(だいらくげんたろう)の姿を大きく浮き上がらせている〉
大楽は天保三(一八三二)年に、長州藩士児玉若狭の家臣山県重安の長男として平安古(萩市)に生まれた。青年期には、僧月性、広瀬淡窓らに学び、勤皇思想を培った。安政四(一八五七)年、月性とともに上京し、以後京都において梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと交流を深めた。安政の大獄を受け急遽帰藩したが、藩命により蟄居を命ぜられた。その後脱藩して水戸に赴き、大老井伊直弼の襲撃を計画したが、未然に発覚して再び禁固に処せられた。赦免の後、久坂玄瑞、高杉晋作らと協力して尊攘運動を展開した。元治元(一八六四)年五月には大和国において画家の冷泉為恭を暗殺している。同年に起こった禁門の変では書記として参陣した。
慶応元(一八六五)年、高杉の下関挙兵に呼応して宮市に忠憤隊を組織した。慶応二(一八六六)年には、故郷台道に私塾敬神堂(別称西山書屋)を開設し、多くの人材を育成した。
脱隊士の嘆願書には以下のように、尊攘固持の意図が示されていた。
「近来御軍政向ニ付而は偏ニ西洋ニ流溺仕候様相成、初メ尊攘と被仰出侯御国是とハ齟齬仕侯廉々不少、徒ニ物数寄之様ニ成行、終ニ西洋と内外之弁別不相立」
また、山口藩当局の討伐檄文を反駁した「照妖鏡」には、「勿体ナクモ幼帝ヲ要シ、先帝ノ遺詔ニ叛キ奉リ、皇祖ノ鴻業ヲ断棄シ、天民ヲシテ夷狄ノ俗ニ化セシメントス」、「皇国固有ノ制度ヲ廃シ、終ニ被髪脱刀ノ議ニ至ル。神州ノ真男子タル者、タレカ切歯奮懣(ママ)セサラン哉」と書かれている。
田中彰氏は、「照妖鏡」の思考論理が民衆的立場に立つと強調する。