アメリカ政府による「失望」声明から約半年後の平成26年3月14日、安倍首相は、参院予算委員会の答弁において以下の様に述べ、「村山・河野談話」を公式に継承した。
「歴史認識については、戦後50周年の機会には村山談話、60周年の機会には小泉談話が出されている。安倍内閣としては、これらの談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる。
慰安婦問題については、筆舌に尽くしがたいつらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む。この点についての思いは、私も歴代総理と変わりはない。
この問題については、いわゆる「河野談話」がある。この談話は官房長官の談話であるが、菅官房長官が記者会見で述べているとおり、安倍内閣でそれを見直すことは考えていない。
さきほど申しあげたとおり、歴史に対して我々は謙虚でなければならないと考える。歴史問題は政治・外交問題化されるべきものではない。歴史の研究は、有識者、そして専門家の手に委ねるべきであると考える。」
そこで今一度、安倍首相が公式に継承した「村山談話」がいかなるものか見てみよう。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
かくのごとく屈辱的な談話を、あろうことか保守政治家を自認する安倍首相が継承したのである。上で見た通り、安倍首相は「歴史問題は政治・外交問題化されるべきものではない。歴史の研究は、有識者、そして専門家の手に委ねるべきであると考える。」と言ったが、そもそも「村上・河野談話」自体が、歴史問題を外交カードにしようとする中韓や、我が国に侵略史観を植え付けるアメリカによる政治・外交的圧力の産物に他ない。また、確かに「歴史研究」は学者の仕事だが、「歴史認識」は事実をどう解釈するかの問題であり、その価値判断を下すのは学者ではなく、政治家の責任である。しかるにその「歴史認識」までも、学者の仕事だと言って避けるのは、政治家として責任放棄であり、結果として従来の侵略史観を追認するのと同じである。特に安倍首相ほ、野党時代、民主党政権の「歴史認識」について、自虐的だといってあれだけ激しく非難しておきながら、一度首相になった途端、歴史認識への価値判断から逃げるのは卑怯な態度である。
尤も、こうした首相の態度は、第二次内閣以降一貫している。今年平成29年2月のアパホテルに対する在日中国人による抗議デモに際しても、安倍首相は、不気味な沈黙を貫いた。事の発端は、アパホテルの客室に、「南京大虐殺」を否定する元谷代表の著書が置かれている事に中国人が抗議したことに発し、中共政府がアパホテルを非難するなど外交問題に発展したが、安倍首相は同問題に対して静観を決め込み、政府は在日中国人による抗議デモを認可した。元谷代表は、安倍首相の後援会の幹部を務める程の同憂同志であり、安倍首相もまた、かねてから「南京大虐殺」は中共政府による捏造であると主張して来たが、中共勢力による攻撃に対して、安倍首相は事実上アパを見殺しにした。
慰安婦合意にしても、政府は韓国との間で「最終かつ不可逆的な解決」がなされたとし、未来にツケを残さないなどと言っているが、それでは何の解決にもならない。飽くまで「従軍慰安婦」の存在を認めて謝罪賠償した上で、合意による解決がなされたと言うのは、「悪い事をしたけどもう謝りました」といって胸を張る様なものである。しかし、そもそも我々の祖先は悪い事などしていない。「従軍慰安婦」も「南京大虐殺」も存在しないときっぱり断言するのが筋である。かくして安倍首相は、歴史戦において完全なる敗北を喫した。