シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二十五)立入宗継


立入宗継(たてりむねつぐ)は京都の人で、父祖の時より洛外に住み、皇室の御料所から納められる年貢を預かっておりましたが、永禄年間に禁裏御蔵職に就いて、朝廷に納める酒や御物の管理に当たりました。

ところが、当時は戦乱久しく相継ぎ、皇威衰えておりましたので、宗継は大いにこれを嘆き、ある日、中納言万里小路惟房(これふさ)に説いて、「今の時宜しく天下の英雄を得て、全国の乱を定めるがよい。それには尾張織田信長こそ適任であろう。君乞う、これが綸旨を請わんことを」と勧めました。されど、惟房は内外を憚って決せなかったから、宗継は再び説いて、「この事もし外に漏れて禍を蒙れば、臣独りこれに当たらん」と言い、永禄五年(1562年)十月遂に正親町天皇に奏上しました。

時に天皇も、勅使を派遣して熱田神宮に奉幣する霊夢を見給うたから、ここにおいて吉兆なりと思し召し、宗継をして密旨をもたらして尾張に赴かしめ、信長を「古今無双の名将」とお褒めになると共に、御用の香合(こうごう)を下賜し給い、彼が天下を平定した暁には、戦国大名により押領された各地の皇室御料所を回復するよう命じられたのでした。

この時、宗継は、京師にて交わりを結んだ尾張道家の館に留まり、信長が猟から帰ってくる道に待ち受け、勅を信長に伝えたのでした。そこで信長は沐浴して衣を改め出で、謹んで詔勅を戴き、天皇より使命を辱うした如きは光栄身に余れりとて、直ちに御請を為し、それより宗継を厚く饗応して返しました。

かつて信長は日夜上洛の策を講じておりましたが、十年(1567年)十月、天皇また宗継を使いとして詔を齎し、信長の美濃尾張を平らげたる戦功を賞し、なお一層勇を奮い、威を宣べ、以て朕の望みにそえよとて、ために戦袍(鎧の上に着る衣服)一領を賜いましたから、信長はいよいよ感激し、その袍を拝し受けて曰く、「臣師を督し宮闕に詣るの日、まさにこれを着て賜を拝すべし」と、かくてその言のごとく勤皇の旗を京師に立て、天下一統の基を立てると共に、先の勅命を守って皇室の御料所を復旧し、荒れ果てた京都御所を修復するなどしました。この大事を成せる功勲により立入宗継は従四位下を贈られましたが、明治三十一年四月更に従二位を贈られたのであります。(絵は岐阜城で勅使の立入宗継より綸旨を拝受する織田信長

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