日本の自立と再生には、日本人が自らの歴史と思想を取り戻すことが不可欠である。その際、GHQによって封印された國體思想を解き放つことが重要な課題だと思われる。
著者の平泉澄博士は、昭和45年に刊行した『少年日本史』の前書きで次のように書いている。
「正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている」
実際、平泉の重要論文「闇斎先生と日本精神」を収めた同名の書籍(昭和七年)は、GHQによって没収された。本書には、この因縁の論文も収められている。
平泉隆房氏が「序」で的確な紹介をされている通り、本書は『平泉澄博士神道論抄』の続編として、平泉の著述の中から、主に神道論に関わる論文を集録したものである。「序論」には、「神道と国家との関係」を、「前篇 神道史上の人物論」には、菅原道真、明恵上人、北畠親房、山崎闇斎、遊佐木斎、谷秦山、佐久良東雄、真木和泉についての論文を収録している。闇斎を論じた論文が「闇斎先生と日本精神」であり、崎門の真髄を次のように描いている。
「君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」(本書125頁)。
「後篇 神道をめぐる諸問題」には、「神社を中心とする自治団体の結合と統制」「歴史を貫く冥々の力」などが収められている。
「神道と国家との関係」において、平泉はGHQによって神道と国家との分離を強要され、日本人が両者の関係を見失ったことを強調し、「神道が国家の大事に際会して、大いなる働きをなし、国家危急の場合に、之を救ひ之を助ける事は当然」(11頁)と書いている。そして、神道が国家を救った事例として、大化の改新、承久の御企、建武の中興などの事例を挙げている。
ここでは、平泉が忠臣・大楠公とともに、至純の忠誠を体現した人物として描いた菅原道真についてふれておきたい。菅公の本質とは何か。平泉は次のように書いている。
「公を詩人として考へ、政治家として考へ、或はまた文化独立の指導者として考へ、その見地に於いて賞賛または非議します事は、いづれにしましても公の本質に於いての批評ではないのであります。…公の本質は実に忠臣たる所に存するのであります」(42~43頁)
菅公の忠誠が最も美しく発露したのは、晩年讒言にあって大宰府に流された時である。菅公は、悲惨な境遇に陥り、体力も衰えていった。しかし、それを深く悲しむことはあっても、決して不平不満を感ずることなく、ただひた向きに君を想い、国を憂えていた。
この菅公の姿は、中国・殷王朝の紂王の暴虐を諌めた結果、その怒りにあって獄舎「羑里」に幽囚された西伯昌(後の文王)の忠を彷彿とさせる。文王は、羑里で悲惨な境遇に陥りながら、王を動かすことができなかった自らを責めるだけで、決して主君を恨もうとはしなかった。
幕末の志士・真木和泉が忠臣の手本として楠公を仰いでいたことはよく知られているが、彼は忠君の純情を菅公に仰いでいたのである。本書に収録された「真木和泉の理想」では、その真髄が見事に表現されている。
真木は尊攘を説いて、久留米藩政の改革を目指したが、嘉永5(1852)年、下妻郡水田村での蟄居を命じられた。水田に移った真木がまず取り掛かったのが、菅公の漢詩文集『菅家文草』13冊の書写であった。50日余りを費やして書写を終えた真木は、それを天満宮に献している。
平泉は、真木の辞世「大山の峰の岩根に埋めにけり我が年月の大和魂」にある「年月の大和魂」は、菅公によって純化されたものであると指摘し、次のように書いている。
「真木和泉守は、二心なく君を慕ひ君を思ふ純情を、菅公によつて養はれ、一身一家を棄てて皇統を護持し奉らんとする熱情を、楠公によつて鍛へられた」(224頁)
易姓革命に陥ることなく皇統を守り抜いてきたわが国の歴史が、ここに凝縮されている。わが国の歴史を貫く國體の真髄を取り戻す上で、本書は格好の手引書となるだろう。
(編集長 坪内隆彦)
*『月刊日本』平成28年10月号に掲載した、『続平泉澄博士神道論抄』(錦正社、平成28年8月)の書評。