もはや我が国は、戦後の経済成長至上主義の限界に直面している。本来ならば、その転換期は、東西冷戦の終結、そしてバブル崩壊によって訪れる筈であったが、我が国の政策当事者は、成長主義や利益至上主義への反省よりも、経済停滞の原因を我が国特有の社会経済システムそれ自体の非競争的な「構造」に求め、新自由主義的構造改革論に傾斜することによって、資本主義の制度的抑制ではなく、むしろ剥き出しの資本主義であるところの市場原理主義に突き進んでいった。そのなりの果てが、もはや事実上の移民大国と化した今日の日本である。資本主義を延命する為に消費需要を外国人頼みにし、生産においても、もはや技能実習生や留学生無しには成り立たなくなってしまった。
今日における経済のデフレ収縮は、景気循環の問題ではなくて、根本的に消費社会や近代資本主義そのものの限界による生産と消費の行き詰まりを意味しているのであって、これを第4次産業革命だの空虚なスローガンで糊塗し、外国人やAIで弥縫した所で何の解決にもならない。まるでガンの進行を放射線治療で遅らせているだけだ。いま我々がしなければならないのは、戦後の成長至上主義の延命弥縫ではなくて、成長至上主義そのものからの脱却であり、資本主義への制度的統制による文化的生活の防衛である。人は朝起きて夜寝る。この最低限の生活すらままならない社会を変えなければならない。贅沢は申すまい。ただせめて紀元節と天長節くらいは全ての労働者が働くのを止めて、皇室の弥栄を祈願しようではないか。我々日本国民は天皇の民として、国体を謳歌し、文化的生活を営む権利があるのだから。