天平宝字5(761)年、道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の看病して以来、その寵を受けるようになった。天平宝字8(764)年には太政大臣禅師に任ぜられ、翌年には法皇となった。やがて、道鏡は天皇の位を狙うのではないかと見られるようになった。九州の大宰府で神事を担当していた習宜阿曽麻呂は、それに乗じて、道鏡に御機嫌を取っておこうと、「八幡の神のお告げがありました、道鏡が天皇の位につけば、天下太平であるとのこです」と言い始めた。
称徳天皇は、心配されて、御信任の深い尼の法均を派遣し、八幡の神のお告げが本当かどうか確かめたいと思召された。ただ、女性の身で九州まで行くことは、容易でない。そこで、法均の代りに派遣されたのが、その弟の和気清麻呂である。以下、平泉澄先生の『物語日本史 上』から引用する。
〈清麻呂は宇佐(大分県)へ参り、八幡の神前にぬかずいて、謹んで神意をうかがいました。忽然として、神が出現せられました。仰せられるには、
我が国は、開闢以来、君臣の分、定まっているのだ。しかるに道鏡、何たる無道であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝、帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統をもって継承されよ、無道の者は、早く取り除くがよい。
清麻呂は奈良へ帰り、ありのままに上奏しました。怒ったのは弓削の道鏡、清麻呂を印旛(鳥取県)へ追放しようとしましたが、また処分をいっそうきびしく変更して、清麻呂を大隅((鹿児島県)へ、姉の法均を備後(広島県)へ流しました。
(中略)
(清麻呂は)宇佐へ向って出発する時、道鏡から、「ちょっと来るように」と言われました。行ってみると、「首尾よく大任を果したならば、大臣にしてやるぞ」と言いました。その誘惑や強迫をしりぞけて、神勅をありのままに報告し、「我が国は開闢以来君臣の分定まれり、無道の者はこれを排除せよ」と言ったのは、実に偉いといわねばなりません。道鏡は大いに腹を立て、大隅へ下る清麻呂を、途中で殺させようとしたが、果さなかったといいます〉
清麻呂が大隅に流された翌年8月、称徳天皇はおかくれになり、光仁天皇が即位された。坂上苅田麻呂が、道鏡の陰謀を朝廷に報告し、道鏡は下野の国(栃木県)の薬師寺に追われた。