坪内隆彦「笠木良明と『大亜細亜』」(『大亜細亜』創刊号、平成28年6月30日)

坪内隆彦「笠木良明と『大亜細亜』」(『大亜細亜』創刊号、平成28年6月30日)


わが国の近代化を再検証すべき
 今から八十三年前の昭和八年四月、大亜細亜建設協会(後に大亜細亜建設社)の機関誌として『大亜細亜』が発刊された。それを主導したのが、満州に王道楽土の理想を掲げた笠木良明である。
 笠木の理想が、欧米列強の帝国主義に象徴される西洋覇道に対する東洋王道の理想の堅持であったことが最も重要である。私たちはいま、アジアと向き合うに当たり、西郷南州の精神敗北後の近代化路線、その路線によっ
て推進された日清戦争にまで遡って、わが国の近代史を再検証する必要があるのではなか
ろうか。

笠木良明

 笠木は、明治二十五(一八九二)年七月二十二日、栃木県足尾町松原で生まれた。栃木県立宇都宮中学校、仙台第二高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学、大正八年七月に卒業すると、満鉄に入社、在東京東亜経済調査局に配属された。当時調査局にいた大川周明らとの出会いによって興亜思想に目覚めた笠木は、猶存社に参加する。ここで笠木は、大川のみならず、北一輝、満川亀太郎らから強い影響を受けたと考えられる。
 笠木の普遍的思想の萌芽を確認する上で、大正十四年八月『日本』に発表された「愛国の唯一路」は格好の材料である。ここで笠木は頑迷な愛国者を批判し、「我等の愛国心は厳正雄渾なると共に聡明なるを要す。我等の愛国心は栄螺固陋ではなく、祖国より始めて全世界を真正調和裡に導く所の一切を包括し解決する魂」だと書いている。満川と同様に、彼は興亜の前提としての日本改造を重く見て、日本は「まづ第一に道義的に資格ある自国自身の正義化を大眼目として活動すべき」と説いていた。
 さて、笠木は昭和四年四月に東亜経済調査局から大連の満鉄本社に転勤することになった。笠木は満州情勢が動き出す中で、大連を中心とする同志を集めて議論を開始した。
 一方、笠木と盟友関係を築くことになる中野琥逸は、京大時代に猶存社に参加し、行地社時代には関西行地社を結成、さらに猶興学会を結成して同志の輪を広げていた。昭和二年に奉天で弁護士を開業、やがてここは満州を志す青年たちの拠点となった。中野は、同志の庭川辰雄、江藤夏雄らとともに、満蒙に道義国家を建設する構想を抱き、奉天特務機関や関東軍と連絡をとるようになっていた。
 もともと中野と面識のあった笠木は両グループの交流を進め、昭和五年秋一大結集へと向かう。十一月のある日、大連の笠木仮寓の床の間に飾ってあった書幅「独座大雄峯」に注目が集まった。「独座大雄峯」は、唐代の禅師百丈壊海が、「有り難いこととはどういうことですか」と問われた際に発した言葉で、「自分が一人、この山に座っている事ほどありがたい事はない」ほどの意味である。この書に因んで、笠木・中野連合は「大雄峯会」と名付けられた。
 昭和六年九月十八日に満州事変が勃発すると、大雄峯会周辺は緊迫度を増していく。事変からちょうど一カ月後の十月十八日、大雄峯会は奉天の妙心寺で総会を開き、板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍幕僚らと対面する。石原は「満蒙問題の解決はもはや言論や外交では不可能であるから、満鉄沿線を対象として理想境域を建設することによって実績で証明するよりほかにとるべき方法はない」と語り、大雄峯会に協力を求めてきた。笠木らは石原の提案に賛同し、自治指導部設置に向けた方針策定を急いだ。そして、大雄峯会と満州青年連盟の案を統合した「地方自治指導部設置要項」が決定され、十一月一日自治指導部が発足した。大雄峯会、満州青年連盟からそれぞれ七名ずつが参加し、笠木は連絡課長に、中野は顧問に就任した。

稀有の大文章「自治指導部布告第一号」
 いよいよ、笠木がその理想を体現するときが来たかに見えた。まず彼は、全身全霊で「自治指導部布告第一号」を起草した。
 「自治指導部の真精神は天日の下に過去一切の苛政、誤解、迷想、紛糾等を掃蕩し竭して極楽土の建立を志すに在り、茲に盗吏あるべからず、民心の離叛又は反感不信等固より在らしむべからず。住民の何国人たるを問はず胸奥の大慈悲心を喚発せしめて信義を重んじ、共敬相愛以て此の画時代的天業を完成すべく至誠事に当るの襟懐と覚悟あるべし。謂ふ所の亜細亜不安は軈て東亜の光となり、全世界を光被し全人類間に真誠の大調和を齎すべき瑞兆なり。此処大乗相応の地に史上未だ見ざる理想境を創建すべく全努力を傾くるは、即ち興亜の大濤となりて人種的偏見を是正し、中外に悖らざる世界正義の確立を目指す」
 「世界史の実践課題に向って巨歩を印した稀有の大文章」(井上実)と評された通り、笠木の崇高な理想が余すところなく示されている。
 十一月半ば過ぎから、自治指導員たちは二名一組となり、奉天省内の二十一県に入っていった。どの県でも張学良に任命された地方官吏が逃亡してしまい、無政府状態に陥っていた。指導員たちは、匪賊討伐、窮民の救済、借金の世話、学校開設、不良日本人の摘発など、あらゆる問題に対処しなければならなかった。
 しかも、任地に赴く際、軍隊や警察の保護などなかった。彼らは、一切武器も持たず、果敢に住民の中に入っていったのである。指導員のほとんどが、笠木の説く理念に殉ずる覚悟を持った者たちだったのだろう。
 昭和七年三月一日の満州国建国に伴い、自治指導員は県参事官に再編された。このとき、笠木は独自の構想を描いていた。新たに資政院を設け、県参事官の人事を司掌するとともに、建国理想の原理的究明のため研究部を設置するというものだ。笠木が研究部に渡辺海旭、田崎仁義らとともに招こうとしたのが、宮島大八であった。

勝海舟─西郷南州─宮島大八の文明観
 笠木は、「覇道あることを許さぬ真人」としての宮島大八の生き様に強く惹かれていたのである。大八の魂は、勝海舟の魂であり、あるいは西郷南州の魂でもあったかもしれない。
 大八の父宮島誠一郎は、南州、海舟と極めて緊密な関係にあり、西洋近代の覇道主義とは異なるアジアの道義を追い求めた人物である。明治十一年九月二十四日、南洲の「逆賊」の汚名が未だ晴れぬ中、誠一郎は副島種臣らと密かに西郷一周忌を開いている。翌明治十二年に東亜振興を目的に設立された「振亜会」(翌年「興亜会」と改称)の中心人物として運営に当たった。
 慶應三(一八六七)年十月二十日に生まれた大八は、興亜会の「興亜学校」で中国語を学び清国に留学、日清戦争勃発に直面し、明治二十七年悲嘆のうちに帰国した。彼が真っ先に訪ねたのが海舟だった。そして大八は、日清和親の重要性を説く海舟の考え方に傾倒していったのである。
 松浦玲氏が『明治の海舟とアジア』で指摘しているように、海舟は、南州が江華島事件を批判した篠原国幹宛書簡(明治八年十月)に基づいて、南州は征韓論者ではなかったと主張するようになる。海舟は、南州に独自の文明観を仮託し、伊藤博文らが進める欧米型近代化路線に抵抗し、同時に日清戦争にも反対の姿勢を鮮明にしたのだった。それにぴたりと歩調を合わせていたのが誠一郎であった。
 海舟は、日清戦争の講和においては、領土割譲に反対し、独自の中国論を展開している。「支那人は治者が誰であろうと頓着しない」「支那は国家ではない。ただ人民の社会だ」と述べる一方、次のように中国との連携を説いている。
 「支那の実力が分かつたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとつて最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ」
 注目すべきは、笠木が明治政府の政策に抵抗する海舟の主張に思いを寄せていたことである。『大亜細亜』には、海舟のアジア外交論が掲載されていたのである。昭和十一年七月には、宇佐彦麿が「海舟先生の対支意見」を寄せ、「今や我国は国際政局上危機に際会し、殊に対支問題が最重大化してゐる時、先生の対支意見を紹介して先人の見識を回顧玩味するのも意味多いことゝ思はれる」と述べて、日清韓三国の連合策、日清戦争後の講和における領土割譲に対する反対論、対支優越感への批判等、海舟の主張を整理した。さらに、昭和十二年二月には角田貫次が「海舟先生東方意見抄」と題して、再び海舟のアジア外交論を紹介している。
 支那事変の拡大に直面し、海舟の議論を見直そうという機運があったとも推測されるが、笠木は二人の人物から直接海舟の思想を継承していたと考えられる。一人が、海舟の直弟子であった、笠木の友人松崎鶴雄であり、もう一人がほかならぬ師大八であった。

国家運営の論理の壁
 資政院を設け、宮島大八らを配して研究部を設置するという笠木の構想は、国務院法制局長代理の松木侠らが強く反対し、頓挫した。結局、国務院の一局として資政局が設けられることになり、参事官人事は国務院民政部総長の所管となった。資政局と県参事官の制度上のつながりを断ち切られたのである。研究部構想も実現しなかった。
 それでも、笠木は資政局訓練所の所長となり、参事官たちを大亜細亜建設の使徒となるべく鍛えあげていった。彼は、参事官が日本改革の先駆者となり、やがては大亜細亜建設の中心的使徒となることを期待していた。彼は満州建国の根底を宗教的な基盤に置き、そこに働く者が伝道布教をなすような大導師たることを求めていた。それは、皇道精神の体現でもあった。
 笠木は、参事官の大使命とは、明治天皇の御製「よきたねをえらびえらびて教草うゑひろめなむのにもやまにも」に示された大精神を奉持して、これを実践することだと信じていたのである。
 笠木のもとに参じた大雄峯会の坂田修一は、笠木は「名も要らず、命も要らず、ひたすら国のため、道のために挺身し得る青年が全満州の隅々に配置せられて、これらの青年が明治天皇の御遺徳を奉戴し、原住民と心から相結んで、道義社会の建設に精進するならば、大乗相応の極楽土建設は必ず出来る」と信じていたと振り返る。
 だが、建国からわずか四カ月後の七月五日、突如資政局は廃止され、笠木ら十数名の幹部はいっせいに罷免されたのである。井上実は「これは一種のクーデターであった」と振り返る。
 作家の立野信之は『洛陽』で、笠木一派が一大官僚閥を形成し弊害が起こるから、資政局を解散させたと書いた。しかし、それは事実とは全く逆である。機構制度上、参事官の総元締めだった駒井徳三との対立が引き金になっていたことは、ほぼ間違いない。参事官たちは、駒井のところには寄り付かず、笠木精神になびいていたのである。だが、事の本質は、笠木のあまりにも崇高な理想が関東軍には邪魔だったことである。奥野彦六は、「君(笠木)の志した満州建国の理想は武力と覇道の行使を排し、純然たる王道主義を行ふことであったのである。心より弱者の友となり、覇道・権道を打破せんとする戦を挑んだものこそ君なのである」と振り返った(『笠木良明遺芳録』二百五十四頁)。
 資政局で弘法(広報)に従事した石原厳徹は、「笠木派の人物は、純情熱血漢が多く、文字どおりの〝王道楽土〟建設を念願して、地方の県参事官になった者は、なにごとも人民(いわゆる満人)の利益を第一に考えて、軍の無理な要求には強く抵抗した。軍の立場は〝王道楽土〟は看板だけで、対ソ戦略のために満州を強力な軍の基地にすることが目的であるから、その目的のために、人民の利益などにはかまっていられない」と書いている。笠木の理想は国家運営の論理の前に敗北したとも言える。それは南州の敗北を髣髴とさせる。
 在野の立場から死守しようとした参事官精神 資政局廃止が決まった日、笠木派の沢井鉄馬宅に二十数名が集まっていた。玉砕を期して関東軍の反省を求めるということでほぼ話がまとまりそうだった。この話合いを、東亜同文書院を経て大雄峯会に参加した蛸井元義は終始沈黙して聞いていたが、最後に発言し、玉砕を期して飛び込むことは軍の思う壷だと主張し、「もしそうなった時に、一体誰がこの精神を継ぐのか」と問いかけた。そして、隠忍自重して、建国の大精神を護持発揮してほしいと語った(『遺芳録』三百三十七)。参加者たちは蛸井の提案を受け入れ、まずは自重し再起を期すことにした。
 この間、笠木は自らの処遇は問題ではなく、天業成就に尽くすのみとして、在野の立場で参事官精神の維持に取り組むことを決意していた。日本に戻った笠木が昭和八年四月に設立したのが大亜細亜建設協会である。そして、機関誌として『大亜細亜』が創刊されたのである。同月二十日、同誌発刊祝賀会を兼ね、日比谷山水楼で催された笠木良明慰労会には、宮島大八、五百木良三、満川亀太郎、中山優、綾川武治、永井了吉、高村光次ら百八十名が参加した。
 いったん野に下った参事官たちの大半は官に服し、笠木精神を再び掲げようとした。参事官たちは上京するたびに、笠木を訪ね薫陶を受けていたのである。
 昭和九年一月、関東軍を揺るがす土龍山事件が発生する。関東軍は、吉林省東北地区で大規模な移民用地買収工作に着手し、現地人の土地を不当に安い価格で買い上げ始めていた。ところが、三月九日、これに反発した住民約一万人が武装蜂起、日本軍連隊長以下二十一名が犠牲となったのある。このとき、笠木派の参事官たちは現地農民と連携し、軍、政府の反省を促している。
 同月二十三日に開催された第一回全満県参事官会議は、この事件の直後とあって、大荒れとなった。雙城県参事官の任にあった蛸井元義は、「速やかに王道研究所を設け、建国理念の根本を確立せよ」と迫った。大雄峯会出身の副島種参事官は、仁徳天皇の〝民のかまどの煙〟を引用して、政府に仁政の心構えを説き、ついには激して遠藤柳作総務庁長を叱咤したという(藤川宥二『実録・満州国県参事官 : 大アジア主義実践の使徒』九十一頁)。そして、甲斐政治参事官が、土龍山事件に言及し、軍、政府の責任を追及するや、場内の空気は緊迫、殺気さえ感じられるほどであったという。捨て身で笠木精神を守り抜こうとする参事官たちの熱意が伝わってくる。
 ちょうど同時期、笠木精神を体現すべく、蛸井は坂田修一らとともに、参事官自治会(後の興亜自治会)を設置、その道場として、各省公署所在地に自治会館(後の興亜会館)、各県に興亜塾を設けることを決めた。参事官が相互に経験を交換し、自ら修養しようとしたのである。塾には必ず神明の間または祭壇を設け、興亜の理想の下に他界した同志の英霊を祀った。昭和十四年四月には、小石川区水道端町に「皇都興亜塾」が開塾されている。御鏡の上段中央に「東亜先覚志士霊位」の位牌を安置し、その右に「満州建国殉道者霊位」を、左に「支那事変殉道者霊位」の位牌を安置し、それに満州国参事官犠牲者三十二名の写真を並べ祀った。
 この間、石原莞爾は、昭和十二年に支那事変が起こると不拡大方針を唱え、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、同年九月に参謀本部から関東軍参謀副長に左遷され、再び新京に着任してきた。
 中央集権的行政機構の強化という目的で、昭和十二年十二月一日に県参事官が副県長と改称されると、石原は「関東軍内面指導の撤廃」の意見書を関東軍司令官につきつけた。東條との対立は決定的となり、翌年参謀副長を罷免される。笠木は、資政局解散時に関東軍にいた石原に批判的だったが、両者の思想は王道楽土を目指すという点で収斂していたのである。笠木の同志、片岡駿は、もっと早く二人を結びつけられていたなら日本の歴史は違ったものになっていたと悔んだ(『遺芳録』四百三十八頁)。
 結局、笠木や石原の抵抗も空しく、王道楽土建設の理想は押しつぶされていったのである。笠木は敗戦による満州国崩壊をどのような思いで見たのだろうか。
 笠木精神が貫徹されれば、満州国は理想郷として発展したかもしれない。笠木精神を信じて行動した斎藤進次郎は、笠木精神を体現した資政局が健在だったならば、満州国の歴史的運命は、日本の運命と同様に別個のものとなっただろうし、不幸な日支事変、大東亜戦争も回避できたと言う(同三百四十一頁)。同志の雨谷菊夫も、五・一五事件の橘孝三郎や笠木の理想が実現していたら、大東亜戦争が起こったとしても全く別の様相を呈していたと主張する(同三百三十六頁)。さらに、渤利県参事官を務めた明石勝利は、日本軍首脳に笠木のような宗教的哲学的情操があれば、敗戦の悲運は避けられたと明言する。
 戦後、笠木は極東国際軍事裁判に証人として喚問された。そのとき彼は、「王道理想郷を建設するため不惜身命の菩薩行を行ぜんとしたのが同志一統の志願だった」と、誰よりも堂々と陳述することができた。彼は、戦後も日本の維新と興亜の理想を失うことはなかった。
 昭和二十八年五月十三日、紫山塾の本間憲一郎らの呼びかけで、愛国運動の大同団結を目指した救国懇談会が水戸弘道館で開催された。笠木は、この会合に大川周明、三上卓、中村武彦、片岡駿らともに参加し、持論を説いた。このとき笠木の情熱に胸を打たれた片岡は、笠木との連絡を重ね、笠木を最高指導者として運動を展開しようとした。だが、「既存の愛国団体を中心とする運動によって日本を再建することはできない」として笠木は固辞したという。
 笠木は、「祖国日本を憂うる無数無名の国民がいる」という確信に基づいて、未知の同志大衆の結集こそが日本再建の早道と考えたのである。昭和三十年一月に笠木は「国民同志社」を結成し、地方の同志獲得に奔走した。だが、同年九月二十二日、ついに力尽き、六十三年の生涯を閉じた。「国民同志社」に協力した中村武彦は、次のように書き残している。
 「清高酒脱の風格の奥に日本の維新と興亜の理想を抱きつづけ、日本の現状に対する義憤は止む時がなかった。ただ、それは右翼者流の単なるかけ声や空騒ぎだけの愛国運動反共運動の類に発散して快しとする底の浅薄なものでなく、その理想を同じくする人材を求めて固く広くむすびを作りたい、その情熱を若い世代にひき継がせたいという念願に、『老いのまさに至らむとするを知らぬ』切々たる努力を続けられたのである」

コメントを残す