小野寺崇良「蒲生君平の対外危機意識とその評価」(『維新と興亜』創刊号、令和元年12月)

小野寺崇良「蒲生君平の対外危機意識とその評価」(『維新と興亜』創刊号、令和元年12月)


 「蒲生君平を研究している」と話すと、相手の顔には疑問符が浮かぶ様子が、ありありとみてとれる…。そうした機会に出くわすことが多い。その際の紹介文言として用いる「前方後円墳の名付け親」は、思ったより有効である。昨年は、生誕二百五十年を迎えた蒲生君平の記念事業として、栃木県の助成を受けた様々な行事が開催されていた。事業内容に、「古墳を巡るウォーキング大会」「埴輪づくり体験」などが並ぶ様子に、その肩書が便利に使いまわされていることがわかる。
かたや、「寛政の三奇人」として、相手が日本史履修者であることを祈りつつ話をすると、「三奇人」としての肩書の君平の印象は、「天皇陵関連の尊王論者」になるかもしれない。それでも、他の二人よりは知名度が低いことは否めない。
寛政の三奇人は「対外的危機、天皇という江戸時代後期のキーワードを一歩早すぎて唱えた人物」(藤田覚『幕末の天皇』)との評価があるが、対外的危機に敏感に反応した人物としての側面で評価すれば、君平は三奇人の中でも目立つ立ち位置に再び位置づけられるのではないだろうか。

蒲生君平

君平の著作「形勢論」
 文化四年(一八〇七)六月の文化露寇(フヴォストフ事件)が発生すると、君平がその際に『不恤緯』を記したことは知られるところだろう。
 井野辺茂雄氏は、「君平は、対外策を完備するには、尊王の実を挙げるのが急務であると論じた」、「尊王思想と対外思想との結合を示したのは、実に君平を以て嚆矢とする」と指摘する(『維新前史の研究』)。
 彼の対外思想をどのようにとらえるべきか。彼の対外論を直接に知る手立ては、三奇人の他の二人よりも少ない。
前述の『不恤緯』の内容紹介は既出が多いであろうから、また別な著作を見てみたい。「形勢論(中興策第五)」を参考にしたい。「形勢論」は約千五百字の短文で、「中興策」という書物の一篇であるとされるが、成立年も不明で、その他の篇は現存が確認できない。「 『不恤緯』では国防に触れてはいるが、具体的な説はない(中略)本論には『不恤緯』では触れていない、具体策が論ぜられている」との雨宮義人氏の解説(『蒲生君平』)の通りで、こちらではさらに具体的な政策を述べている。管見の限りにおいて、現在「形勢論」を取り上げているのは雨宮氏以外に池田泰信氏、野口武彦氏らが見受けられる。しかし、雨宮氏の著作では一部を引用し、紹介しているにすぎない。
 主題として君平の対外観を取り上げたものとしては唯一と思われる池田氏の論文(「対外政策に対する蒲生君平の意見」)では、『不恤緯』と「形勢論」をもとにして、君平の対外論を「外交方針確立のための国内政治の改良」と「相手国たる外国の歴史地理は勿論政治風習に至るまでの状況をよく理解すること」と二つの方向性があることを紹介している。池田氏は君平の主張をもって「換言すれば外でもない国家総動員体制の編成がそれである」など、昭和十四年当時の時局に合わせた論理を展開している点も見受けられる。
 次に野口氏は『江戸の兵学思想』にて、「君平の兵学思考がいちばん要点的にまとめられている」ものとして「形勢論」を挙げ、全体的に解説を加えている。
 興味深い点は、「君平は、兵学上のみごとな一家言を残して」おり、「いわば地政学的なヴィジョンを構成している」と、地政学的な観点を持ったものと評している点だろう。「形勢論」は元は漢文であり、野口氏の書き下しと解説を元にこれを見ていきたいと思う。
まず、全体は三つに分けられる。
 一つ目は「海国形勢論」。「天下を治むるは、先づ其の形勢を知るより要なるは莫し」より始まるこの文章では、
神州、環るに巨海を以てし、西東に長く、南北に短し。海に西南に裨し、東北に山たり。(略)夫れ東西南北、海に岸す。而して千里の地、以て旦に発して夕臻るべし。百万の軍、其の数多しと雖ども、未だ始め隻牛・匹馬を汗せしめず。
と、国家の地形や特徴を知る重要性と、島国日本の特徴を述べる。ここには、林子平からの影響を感じさせていることは言うまでもない。
 第二に「大艦建造論」。
 夫れ海国の用は何をか貴ぶ。曰く、艦を先と為す。今、宇内の大艦製、北慮精と為す。而して、吾邦の製尤も麁悪。(中略)然れば則ち、方今の急務は、宜しく四方の瀕海枢要の地を巡覧し、以て都督府を四辺に置き、天下の諸侯に命じて、法を彼の最も精なる者に取り、以て大いに戦艦を製すべし。
 大船建造禁止の日本の現状は残念ながら「麁悪」であった。だからこそ、対外防衛のための戦艦建設が急務だと言いたかったのだろう。
 ほかに、その国々の大小に合わせて定数を定め、各都督府に所属させることも加えている。また、有事に各戦艦を軍事力として用いるだけでなく、平時の参勤交代や年貢米輸送なども全て海運を用いて、その利益も防衛費に充てるという事も提示している。
 これを野口氏は「諸大名がすべて船会社、回漕業者兼海軍の保有者になるプランにひとし」く、諸大名に権利を集中するため、「一面から言えば、重商主義国家論」でもあるとしている。
 第三に「対露防衛論」。この段階ではロシア来寇の危険性を述べている点からも、文化露寇以前であると考えられる。また、大陸国家ロシアを「水戦に長ず」と評している点での間違いが指摘されるが、
 今や、東南尽く諸蕃を呑み、以て境を 神州に接し、余を以て其の兵勢を度せば、則ち強大、元寇に減ぜざらん。(中略)是れ、其の復た伊勢の神風を怙むべからざること、智者を竢たずして知るべし
と、かなりの強大な軍事力を持つ相手として、現状では「伊勢の神風」に頼むほかない…とも言う。だからこそ、彼の理想は海軍国家として、整備を進めることだった。
 さらに、君平は地政学的な観点からも、対ロシアの利点を考察している。
 地曠く、人稀なり。殻を生ずること固より少し。西南な諸夷に界して、戦艦用ふべからず。且つ、其の東北隅、率ね是れ曠莫不毛の郷。其の精兵独だ西南の間に在りて、其の地諸夷と接す。則ち、其の守禦に徹して、以て力を吾が神州に専らにすべからず
ここで、ロシア極東部の人口の少なさや食料が多く取れない事情を述べ、こちら側の軍事力整備が整うことでの防禦を唱えていた。

君平の評価
 これら、君平の対外危機への敏感な反応は、どのように受け止められたか。
『不恤緯』提出に関して、文化四年七月三日付の書簡にて木村謙次から会沢正志斎へと「蒲生君蔵には御出合被成候事可有之候、此節御なだめ、妄りに諷諫の語をなし、罪せられぬやうにいたし候様、何分致声候様御申聞、御なだめ被下候」と書簡が送られている通り、こうした行動が「犯萬死不暇自顧」(『不恤緯』上書)との言葉に相応しい、危険を伴うものであったということが言えるのだろう。
 君平には数名の門人がいたことが知られるが、その一人である大友直枝は、『不恤緯』に関して、「実に慷概之士ニ御座候、北狄の騒ニも上書して志しを述候、御取揚なく差返され候得共、大ニ流布仕候而其名高く候」と記している。大友は秋田藩の波宇志別神社社家であり、本居大平門の後、君平門人、さらに平田篤胤にも入門している国学者である。彼と君平、篤胤の関係性には未だ考察の余地があろう。
 本題に戻すと、君平の生前に出版された『山陵志』、『職官志』(第一巻のみ)と違い、『不恤緯』は少なくとも君平の歿後五十年は活字化されていない。それでも「大ニ流布」したとの文言を見るにつけ、文化露寇に対しての対外強硬論は、その影響力と君平の知名度向上に大きく貢献したのではないかと考えるところである。その考察を支える一つに、全国各地に写本が伝播している事実がある。現在の筆者の調査では、宇都宮から遠く離れた久留米藩士松岡家、椛島家(久留米市立図書館蔵)など全国に約二十の写本があることが確認できている。中でも注目されるべき写本として、高知城歴史博物館蔵の写本奥書には書写者である徳永千規による天保期の一文が記されている。
 秀實ナンスレモノソ一布衣ノミ其所レ論患ノ大ナルモノニシテ就中羯奴  吾皇国ヲ窺フニイタリテハカゝル所最大ナリ而其取術実ニ千載愉快ノ策トイフヘクシテ所謂先二天下之患一覇府ヲ警ス其才人ニ超越シ其王室ヲ尊ヒ名実ヲ正クシ不虞ノ謀ヲ備フ実ニ忠誼傑出ノ壮士ト可謂矣
 この文章を記している徳永は、文化元年に生まれ鹿持雅澄らに学び、藩校致道館教授を務めた人物である。彼の『靖献遺言』講義は優れていた、と今に伝わるほどであるから、彼の思想は言うまでもない。これまで表に出ていなかった資料だが、土佐藩へも影響を広めていたことを示す点でも、また、対外危機がより一層強まる以前の段階での評価としても貴重である。
君平の著作が幕末でも読まれ、そのうち『不恤緯』は安政五年の写本を元に、明治元年に松下村塾版で出版がなされる。だが、幕末までの影響力という範囲だけではなく、近代以降の影響力も今後検討してゆくべきだろう。
 例えば、先に挙げた『不恤緯』(松下村塾版)と『今書』が収録された明治四十四年の叢書には、その掲載にあたって「是れ、乃木大将の推奨に依る所多し」(『国民道徳叢書』)との有馬祐政氏による一文がある。松下村塾版の『不恤緯』が乃木大将へも繋がってゆくと考えると、彼の影響力のさらにその壮大さを感じさせる。もう少し時間をかけて調べてゆきたい。

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