小野耕資「天皇親政論」(『崎門学報』第14号、平成30年12月1日)

小野耕資「天皇親政論」(『崎門学報』第14号、平成30年12月1日)


象徴天皇?
 「象徴天皇」なる奇妙な語がいわゆる「日本国憲法」に盛り込まれて以降、日本人の天皇観はおかしくなってしまった。天皇は独裁せず、臣下に実権をゆだね、権力よりも権威の存在であること。それが日本本来の姿であると説かれたのである。このことにより、天皇親政の大理想は忘れ去られ、幕府政治や摂関政治への批判意識が捨てされたのである。
この傾向は「象徴天皇」で決定的となったが、既に明治維新以降の「英国王室風への憧れ」の中で徐々に始まっていた。福沢諭吉の『帝室論』に始まって、津田左右吉や坂本多加雄なども「君臨すれども統治せず」的な皇室論を展開している。男女平等で、(臣下であるはずの)皇后は天皇と対等とされ、宮中では和装は禁止でタキシードでなければならず、国民に向かって手を振られる愛くるしい皇室でなければならない…。余談ながら王室が国民に向かって手を振る慣習は、英国国民にあまりに人気がなく、王室廃絶論まで噴出したので、廃絶派を抑え込むために王室のマスコット化を進めたため登場した風習と言われている。このような風習をそのまま習ってしまった日本人の皇室観のゆがみは深刻である。
 もちろん天皇への独裁権力の付与などは論外である。だが天皇親政論を天皇独裁論と同一視するのは軽率ではないだろうか。天皇親政論を天皇独裁論とはき違える議論は世にあふれているが、それは親政派の議論をきちんと参照していない不誠実な議論ではないだろうか。

國體派の天皇観
 例えば天皇主権説論者である穂積八束は「大権政治は大権専制の政治には非ず。専制ならんには、之を憲法の下に行うことを許さざるなり。君主の大権を以て独り専らに立法行政司法を行うことあらば、即ち専制なり。同一君主の権を以てするも、立法するには議会の協賛を要し、行政するには国務大臣の輔弼に依り、司法は裁判所をして行わしむることあらば、分権の主義は則ち全たし。権力の分立は、意思の分立を意味す。国家意思の絶対の分立は、国家の分裂なり。唯主幹たる意思の全体全体を貫くあり、而して之に副えて、其の或種の行動には、更に或種の機関意思之に加味せらるることあらば、統一を損することなくして専制を防ぐに足らん。之を立憲の本旨とす。大権政治とは大権を以て此の主幹たる意思とする者の謂なり。」(『憲政大意』244頁)即ち穂積は国家意思の分裂を防ぎ、権力の分立を図るためにも天皇大権の確立が必要だと説いているのである。それに対して美濃部は「穂積さんは主権を以って絶対無制限の権力であると言い、その意味においての主権が我が憲法上天皇に属するのであって、即ち天皇の主権は絶対無制限の権力であり、主権を制限する如何なるものも存在しない」と考えていると、全くの無理解を示している(高見勝利編『美濃部達吉著作集』113頁)。もちろん穂積は天皇独裁を主張したのではない。国家意思が天皇にあると述べたのである。主権説における(天皇が持つと考えた)国家意思とは、「これからは立憲制を採用する」という類の国家の大方針であって、当然細部は輔弼者が上奏し責任を負うものだと考えていた。

穂積八束

 上杉愼吉は「国体に関する異説」で「仮令心に君主々義を持すると雖も、天皇を排し人民の団体を以て統治権の主体なりと為すは、我が帝国を以て民主国なりと為すものにして、事物の真を語るものに非ずと為すのみ」(『近代日本思想体系33大正思想集Ⅰ』6頁)と言う。あるいは蓑田胸喜は「帝国憲法第十条に曰く『天皇ハ行政各部ノ官制及文武官の俸給ヲ定メ及文武官を任免ス』と。(中略)行政法を講ずるもの、その直接の第一依拠を本条に求めざるもの一人としてなきにも拘らず、美濃部氏を始め従来殆どすべての行政法学者は異口同音に『行政権の主体は本来国家である。』の語を以てその論理を進むるのである。これいふまでもなく憲法論上に於ける『国家主体・天皇機関説』の行政法論へのそのままの適用である。即ち、『統治権の主体』を以て国家となすの結果、その統治権の一成素たる『行政権の主体』も亦国家なりとするのである」(「行政法の天皇機関説」『蓑田胸喜全集 第六巻』230~231頁)という。

上杉愼吉

 両者がここでこだわっていることが『統治権の主体』という言葉であることに注目したい。「統治権の主体」即ち「主権」なのだが、現代風に言い換えれば、政治の正当性あるいは正統性の所以ということではないだろうか。なぜ政府は行政的命令を国民に発する権限があるのか、その由来は天皇ではないのか、単に国民としてしまってよいのかと問うたのである。あるいは、行政官は天皇に任命されるが、それは天皇が大権を持っているからではないのか。大権を持っていないものがどうして任命できるのかと問うたのである。
 蓑田胸喜は「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」という。天照大御神も八百万の神の意向を確認し、孝徳天皇は臣下と共に治めたいと欲せられ、明治維新の際には万機公論に決すとされた。独裁は天皇みずから取られなかっただけではなく、国家機関(=政府)にも許さなかったことを強調した(「天皇親政と輔弼機関の分化重層」『蓑田胸喜全集 第六巻』964~965頁)。蓑田は決して議会が存在することを否定していない。議会が政党に私物化され浅はかな民意が大手を振うことに嫌悪感を示したのである。
 また、蓑田は昭和研究会を批判する文章の中で、「独裁主義政治体制や独善的民族主義の弊を排する点は筆者も同感」であるが、昭和研究会が「天皇親政・臣道実践」の君臣の大義を表明しないと批判している。蓑田にとっては「一君万民」と「万民輔翼」は「天皇親政」に対する従属的補足関係の表現なのであって、それを表明しない昭和研究会の「協同主義」は支持できるものではなかった(『蓑田胸喜全集 第四巻』85~132頁)。
 戦前の國體派の見解においても、天皇を支配者として捉えず、国の精神的中心と捉えたことは共通している。これは戦後の実権のない(とみなす)いわゆる「象徴天皇」論と、「強権的支配者であるということが天皇のあるべき姿ではない」という点で共通している。例えば保田與重郎や権藤成卿の天皇観がそれである(『大亜細亜』第六号拙稿参照)。だが、「象徴天皇論」が政治的実権を臣下が簒奪することを正当化するところがあるのに対して、國體派の天皇観は、主権概念や所有権といった概念を克服し、国全体で神々に祈る生活に立ち返り、その中心として天皇を戴くことを理想としている点で全く異なっている。

宇多天皇、醍醐天皇の時代
 天皇親政の時代の一つの理想とされたのが、宇多天皇、醍醐天皇の御代であった。宇多天皇、醍醐天皇の御代を考えるうえで一つ参考になる本が、井尻千男『歴史にとって美とは何か』である。井尻は、宇多天皇、醍醐天皇の時代を「シナ文化への憧憬」から「天皇親政」「自国文化への確信」への大転換期と位置づけ、摂政・関白の廃止、遣唐使の廃止、古今和歌集の編纂をその時代精神の表れであるとみた。単に過去の歴史を描いたのではなく、過去を通して國體の大理想を強く訴えかけているのである。
 当時の宇多天皇と菅原道真は、衰亡の兆しがあったとはいえ、当時の世界大国唐と国交を断った。それは果断なる政治的決断であった。遣唐使は、菅原道真が廃止を建議した時点で既に六十年も派発しておらず、自然消滅させることもできた。しかしあえて途絶を宣言したことは強い意志があったからに他ならない。菅原道真が廃止を建議する六十年前の遣唐使では、副使の小野篁が派遣命令を拒否し流罪になっている。唐の衰亡に促されただけではなく、遣唐使によってもたらされた唐の実態への失望が、唐文化との訣別と国風文化の発揚を決意させたのだ。
 宇多天皇の後を継いだ醍醐天皇はわが国をいかなる国にしていくかという重大な使命を背負っていた。醍醐天皇が出した答えこそ、最初の勅撰和歌集である古今和歌集の編纂であった。当時は仮名文字が発明されて八十年ほどしか経っていない。漢字仮名交じり文が発明された創初期にあって、わが国の文学をわが国の言葉で残すことは万葉集や記紀の編纂にも匹敵する畏るべき大事業であった。唐の傘下から離脱したことで自国への意識が高まり、国風文化が興隆し、古今和歌集の編纂に繋がったのである。
 醍醐天皇が行った偉大な事業はそれだけではない。宇多天皇と醍醐天皇の治世は後世天皇親政の模範とされた。それまでわが国の官僚制度は唐に倣って形作られていたが、遣唐使の廃止は、わが国固有の新しい政治体制を模索させた。菅原道真の登用からして、藤原氏等の名門貴族を避けた天皇親政の実践の一過程であった。それを引き継いだ醍醐天皇も摂政関白を置かない政治を実践した。さらに醍醐天皇は土地制度改革にも着手している。形骸化した土地制度を、土地を通じて天皇と国民が繋がる大化改新の理想に復元させたのである。
 遣唐使廃止による日本の自立、摂政関白を置かない天皇親政、土地制度改革、そして国風文化の結晶たる古今和歌集。それらはすべて國體に基づく統治という大理想のもとで繋がっている。井尻は、当時國體に基づく統治が目指されたことを繰り返し語り、政治、外交の次元にとどまらず、文化、美意識に至るまでわが国独自の在り方が模索されていたことを強調する。それは軍事に依らない「たたかい」であった。元寇の際に亀山天皇が祈願したことで有名な「敵國降伏」の勅願は、その三百年以上前の醍醐天皇の時代に始まったものなのである。
 実証史学では醍醐天皇の治世は後世理想化されたような政治ではなかったとみなしている。しかし、井尻はそうした実証史学の見解を「なにもかもが出世欲、権力闘争、閨閥同士の勢力争い……まことに唯物論的というか素朴実在論的というべきか、人間観としてはきわめて貧しいというほかない。戦後の国史が陥った惨状というものである」と一蹴している。先人の精神の働きは実証的なだけの歴史学では到底描き得ない。井尻は「日本人が肇国の太古から試みてきた国づくりの精神史をいまこそ再点検せねばならない」と述べ、先人が国づくりに懸けた精神を鮮やかに描き出したのである。

いわゆる「日本国憲法」における天皇条項の欺瞞
 いわゆる「日本国憲法」における天皇に関する条項は、欺瞞に満ちている。この文書が出来上がるとき、ソ連や中華民国が一番こだわったのが「国民主権」である。国民主権でなければならない、と強く主張し、「輔弼」等、天皇に権威、権力を与えるものを徹底的に嫌った。彼らの意見に配慮した結果できたのが、いわゆる「日本国憲法」である。
前文を引用する。

ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

読者の方は、これがいかにおかしいかわかるだろうか。そう、この前文を読む限り、これは共和制国家の憲法なのである。国政における天皇の存在は前文にはどこにも明記されていない。権威も、権力も、福利も、すべて国民にあるからだ。にもかかわらず、第一章で「国民統合の象徴」であり「世襲」の存在である「天皇」が突然出てきて、国会の指名に沿って総理大臣や最高裁判事を任命してしまうのである。ここでは前文と違って、「権威」の面で天皇に国政の位置づけが求められている。
 つまり、いわゆる「日本国憲法」下においては立憲君主制の国という要素と、共和制の国という要素がめちゃくちゃに入り混じっているのだ。全くわからぬ「憲法」の名に値しない文書である。「象徴君主制」なる学説も存在するらしい。日本とスウェーデンがそれに当たるそうだ。だが、君主が国民統合の象徴であることは立憲君主国においても当然その役目は果たされるはずである。そもそも立憲君主国において「君臨すれども統治せず」というのはウソである。君主及び皇族は、形式化されている場合もあるが、それでも国政においてそれなりの役割を担うのが普通なのである。その意味でいわゆる「日本国憲法」下の天皇という存在は、なんともよくわからない「象徴君主制」なるものに押し込められてしまったというべきであろう。いわゆる「日本国憲法」をいくら読んでも天皇が如何なる存在であるかは全くわからない。このような駄文は破棄されるのが至当であると考える。
国家は歴史と伝統なしで語ることはできない。国政は過去からの連続態であり、国民の慣習、歴史、伝統がそもそも政治制度を形作っているからである。それを保障するには、本来共和制より、君主制のほうが自然なのである。君主は国民の象徴であると同時に歴史、伝統の象徴だからだ。民主主義は衆愚になる要素を元から孕んでいる。その原因は政権の正当性及び正統性の由来を「国民多数の支持」に求めているからである。
 明治時代に天皇親政論というものがあった。これは「天皇は国民のことを思い政治を行うのだから、天皇の意思を重んじることは国民の意思を重んじることである」と言う理屈だ。これは山県有朋ら薩長藩閥の権力を抑制したい非藩閥の論客たちによって唱えられた。例えば元田永孚は天皇親政論を述べたが、それも薩長の専制を抑止するために唱えられたものであった。天皇主権論はむしろ政治実務担当者の私物化を妨げる目的で唱えられていたと言ってもよい。そう考えたとき、天皇主権説の問題は、天皇独裁か、民本主義かと言ったような単純な二者択一の問題ではなく、日本という国の公的意志はどこにあるのか、どうやって実現するのかという問題として現れるのである。天皇は無私の存在でなければならず、純粋に公的側面から国政において主導権を発揮されなければならないのだ。そのとき、彼らが天皇は国民の天皇であることを強調し、民意を国政に反映させようと言う試みであったと言うことも忘れてはならない。その点で天皇親政論と天皇独裁論は全く違うのである。
 民意を無視する政治が行われることがあってはいけない。しかし、その民意を得る手段が衆愚になってもいけない。この矛盾する両者を同時に達成するためには、この天皇親政論くらい奇抜な発想の転換が求められている。繰り返すが、いわゆる「日本国憲法」第一章は、衆愚の歯止めにもならず、かといって政権の正統性の担保にもならない、矛盾だらけの百害あって一利なしの唾棄すべきものである。

歴史と伝統と信仰の中にある天皇
 戦後保守は、天皇は現実政治から超然としているべきだし、それこそが天皇が長年続いた所以なのだと強調する。だがそれは天皇という存在に潜む重層性をまるで見ていない。
日本人にとって、天皇が公共のために存在し、国民のために祈り、歴史と伝統を体現する存在だということは、自明のことである。したがって仮にそれを拒否しようとする人がいたとしても、それは信仰を拒否しようとする段階で必ず信仰に囚われることになる。皇室に関するあらゆる論争が神学論争になっていくのはそのためだ。
 改めて考えれば、日本人にとって、天皇陛下が日々国民の安寧を祈られているということはとても大事なことであり、かつとても不思議なことだ。アメリカ大統領も支那の国家主席も、北朝鮮の将軍様も欧州の王室もおそらく国民の安寧を祈らないだろう。バチカン市国のローマ教皇は祈るかもしれないが、バチカンの市民というよりはキリストの為に祈るのであり、カトリック教徒の為に発言するのである。天皇陛下が祭祀をされるということは、日本の共同性の証であり、得難い行為であろう。しつこいが、この明らかに公共的である祭祀を天皇の「私事」と見なしたのが駄文「日本国憲法」である。
 天皇はその歴史の早い時期に臣下に世俗的権力を譲り、無私の民族を結びつける存在となった。天皇は民族を結びつけると同時に、神道と仏教、儒教を結びつける鍵ともなった。これをもって、「権威と権力の分立」などという、わかったような言葉で天皇を語るわけにはいかない。建武中興の時など、有事の際には天皇が権力的存在になることもまた、日本の歴史に見られたからである。天皇を失えば、日本は全体としての個性を失い、世界文明に貢献する根幹が荒廃してしまう。天皇は日本のいのちであり、「日本」という信仰の祭主と言えるのではないか。

日本人として天皇観を紡いでいこう
 天皇親政とは、西洋の絶対君主や、革命家による独裁国家とは違い、公義輿論と歴史と伝統の尊重による統治である。あらゆる場面における日本人の意思決定は、良くも悪くも独裁性に欠ける。天皇親政とは祭主による広い意味での祭政一致の統治のことだ。ここでいう祭りごととは、単純な宗教儀式であることもあれば、日本人が皇室という中心を奉じるこころのことでもある。
 二七〇〇年近くある皇室の歴史の中で、立憲君主であった時期はそのごく一部にすぎない。したがって、「立憲君主としての天皇」は天皇という存在の一面ではあるが、天皇という存在のすべてではない。ところが、成文憲法なるものができて以降、天皇は立憲君主としての存在がすべてであるかのような誤解が広まってしまった。問題はそれだけでなく、「成文憲法」という考え方を編み出した海の向こうの言葉でしか、天皇を語れない人間が出てくることになった。我々は海の向こうの言葉ではなく、我々自身の言葉で、「天皇」という存在を語っていかなければならないのではないか。   

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