山本七平『現人神の創作者たち』が描こうとしたもの
巷間に知れ渡っている書物の中で、崎門について触れているものに山本七平『現人神の創作者たち』がある。この本は「尊皇思想の発端」として崎門学を指摘し、浅見絅斎『靖献遺言』、栗山潜鋒『保建大記』、三宅観瀾『中興鑑言』についてはその内容まで紹介している。
ただし本書は崎門学を戦時中の「呪縛」の発端とみなし「徹底的解明」と「克服」を目論んだものであると宣言していることから、崎門学徒はあまり取り上げて来なかった。
しかし山本は「現人神」の創作者を二十年以上の歳月を費やして探してきたと述べている。単に忌むだけではこれほど長い期間関心が続くものだろうか。また、後述するように、山本七平という一人の人間のルーツを考えたとき、単純に崎門の思想を全否定するためだけに書かれたとは言い切れない所がある。本稿では『現人神の創作者たち』の細かい論旨を紹介しないが、わたしが気になった個所に触れつつ、崎門学について論じてみたい。
幕府正統論の「まやかし」
山本が単純な崎門の全否定ではなく、もう一段深いところで考察しようとしていることは、『現人神の創作者たち』の最初に既に示されている。即ち山本は吉田満を引用しながら、戦中派は自らを戦争に駆り立てた一切のものを抹殺したいと願ったが、一方で戦後の自由、平和、人権、民主主義、友好外交の背後にも「まやかし」があると直感していたと述べたうえで、戦後社会は敗戦の結果「出来てしまった社会」であり、一定の思想のもとに構築した社会ではなく、更にこの「出来てしまった」秩序をそのまま認め、統治権にいかなる正統性があるか問題にしない「まやかし」があるという。そしてそれは承久の変の結果「出来てしまった」幕府体制ときわめて似ているという。北条泰時は承久の変で後鳥羽上皇らを配流しておきながら「天皇尊崇家」である「不思議な存在」であり、「貞永式目(御成敗式目)」には「統治権を幕府が持つ」とは一切書いていない。更に貞永式目はそれまで朝廷で制定された「天皇法」を否定するものではなく、「あたりまえのこと」を取りまとめただけだ、と考えていたことを紹介する。
ここで留意すべきことは山本七平という作家は『日本人とユダヤ人』『空気の研究』などの著作にも共通しているが、こうした曖昧模糊とした体制を、その外にいる者として批判的に見ることを大きな特徴とした作家であるということだ。即ち結論を先取りすることになるが、『現人神の創作者たち』は戦時下を経験したものとして、そこで唱えられた「現人神」の「徹底的解明」と「克服」をせねばすまない自己(=崎門否定)と戦後的、幕藩体制的曖昧模糊とした正統性の不明瞭な社会になじめない自己(=崎門的)の両面が矛盾しながら存在しているのである。
山崎闇斎=内村鑑三
『現人神の創作者たち』では、山崎闇斎を内村鑑三になぞらえている。思想に殉じる態度、批判者への舌鋒鋭い攻撃などからそう例えたのであるが、実は山本は内村鑑三の流れをくむ人間なのである。山本は、内村鑑三の弟子で内村の最晩年に義絶された塚本虎二に聖書を学んでいた。山本は「闇斎の場合、彼とよく資質が似、また彼の後継者ともいえる浅見絅斎もまた彼のもとを去った。だが闇斎の死後、それを悔い、香を焚いてその罪を謝したという。これなどはまさに、内村に最も嘱望され、後継者と目された高弟との関係にそっくりである」という。もってまわったような言い方をしているが、この「後継者と目された高弟」こそ塚本虎二だと推測できる。
また、山本は『靖献遺言』を聖書になぞらえている。聖書も靖献遺言も、ともに残された生者が自分の意志で変更できない絶対的規範として人々に働きかけるものとして解釈している。
繰り返すが山本のこの本は終始崎門を突き放した態度で見ている。その同じ人間が自ら信じる聖書と自ら批判する『靖献遺言』を同じ構造だと論じているのである。ここに山本七平の複雑な心理を見たような気がしたのである。
ちなみに山本は『靖献遺言』に出てくる義士を、「中国人は(中略)政治に救済を求める。それゆえに政治に殉教できる。しかし日本人は決してそうではない」(『静かなる細き声』)と書いている。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。「決して」とまで言い得るかはともかくとして、そもそも政治思想を論じた書物が少ないということはできるだろう。『神皇正統記』をはじめ政治思想を論じたものは大なり小なり絶対的な正義を論じている。政治を論じてもそれがなかなか思想哲学の領域まで昇華しないとは言えるだろう。こうした「日本的」側面になじめないのもまた山本七平の一側面なのである。
湯武放伐論の否定
山崎闇斎を嚆矢とする崎門の思想の一つに湯武放伐論の否定がある。湯武放伐論とは、無能で暗愚な君主を天下のために討ち、次の君主になることである。崎門はこれを否定したと聞くと、「なるほど、どんな暗君でも絶対的に従うことを要求した思想なのだな」とわかった気になってしまう。だが、本当にそうなのだろうか。
よく、「君君たらずとも臣臣たれ」という。「君主は君主らしからずとも臣下は臣下らしくあれ」ということである。この「臣下らしい」とはいったいどういう態度を指すのだろうか。
浅見絅斎は『靖献遺言』で忠誠の模範たる人物を支那の歴史から選び、伝記や遺文などを紹介したが、そこで取り上げられている人物はいずれも悲劇的な状況下におかれても節義を貫いた人物が選ばれている。人物の多くが正統でない王に使えることを拒み、虐殺されたり戦死したりしている。それは「宗教的な心情に通ずる」(尾藤正英)ものであったし、「殉教」(山本七平)的性格を持った。君主個人への忠というよりは、「君臣の忠義」という思想に殉じる態度を求めたのである。つまり「彼(浅見絅斎)は、まず個人の変革をすなわち崎門学という疑似宗教への帰依とそれによる回心を求めた」(山本七平)。その点から見れば「湯武放伐論の否定」はもう少し抽象的な理解ができる。人間が肉体を持ち、欲がある限り、力を持つ者、勢いのあるものへの追従がしたくなる自分が出てくる。そうした人間のエゴイズムを見つめるからこそ、かえってそれに屈せず義を貫いた人間への称揚がある。湯武放伐は歴史の現実である。万世一系のわが国体でさえ、院政期など皇室の秩序が乱れたときにはその存亡を危うくした。そうした歴史の現実を見つめるからこそ、にもかかわらず万世一系を貫いているわが國體への誇りが生まれるのである。
時に崎門は湯武放伐を肯定する儒教にあってそれを否定したところに大きな特色があると言われる。だがそもそも儒教は湯武放伐をどうとらえているのかという問題は複雑である。孟子が「湯武放伐論」を肯定し暴虐の王であれば、これを討伐し徳のあるものが次の王に着くということは決して間違っていないと論じたと言われる。だが孟子は広く人民に放伐を訴えたのではない。自らが使える君主に、人民を第一に重んじる政治をするべく申し上げたのである。孔子は周公旦を夢に見るほど理想とした。周公旦は武王の弟で、武王亡き後その息子の成王を補佐した人物である。孔子、孟子の時代でさえ既に「正統な王」などというのは存在しなくなってしまっていた。だが古くから続く正統な王が徳によって統治することは儒教の道徳において間違いなく善である。『論語』に武王の音楽を評して「美を尽くせり、未だ善を尽くさず」とあるが、これは武王の行いは輝かしくはあるが善くはないと暗に批判したものである。わたしは、儒教は放伐礼賛でないことは明白であると考える。崎門の特徴はそれを思想の中心に位置付け、絶対規範に高めたことであろう。
神儒一致は崎門の特徴か
神儒一致もまた崎門だけの特徴とは言い切れない。林羅山なども儒家神道を奉じている。その起源は藤原惺窩にある。
藤原惺窩の印象といえば、支那朝鮮崇拝の人というものであろう。藤原惺窩は明と朝鮮に日本を占領してほしいと言ったという話もあるくらいの人物だからだ。また、支那朝鮮に渡りたいと願い鹿児島から船に乗り込んだが、渡航がかなわなかった人物でもある。
だがそれとはまったく違う評価をしているのが江藤淳である。江藤は『近代以前』で、「(渡明を断念せざるを得なくなった後の惺窩は)
「聖人常の師なし、吾れ之れを六経に求めて足りなん」と肚を決めて、「戸を杜じ客を謝して」『四書新註』を頼りに独学で儒学を極めようとしたことに変わりはない。(中略)この新註の信頼すべきテクストがあれば師などはいらない、あとは独学で結構だという態度に変って行ったのは、師を求めて東シナ海の荒波をおかして明に渡ろうと考えていたことを思いあわせると、不思議なようにも思われる。おそらく鬼界ヶ島の波をながめ、そのあとで南浦の和訓本を発見したときに、彼の中で何かが変ったのである。つまり、彼は儒学の正統をたずねるために儒学を学ぶわけではない。自分の中の正統性の感覚をたしかめるために儒者になるのだということを、このときはっきりと悟ったに違いない」と論じている。つまり、藤原惺窩はたしかに明に憧れ、渡航も考えるような人物であったが、それに失敗してからのちはそうした明への憧れとは別の思いで儒学を学んだというのだ。
「自分の中の正統性の感覚をたしかめる」とは江藤なりの非常にうまい表現であり、藤原惺窩に限らずあらゆる人文学系の学問に心惹かれる人間ならば通る感覚ではないだろうか。自分の心、そこには私心もあれは公の心もある。その由来を探れば自国の文化、歴史、文学、社会と無縁ではいられないからだ。人は公共心の一点で自国の歴史とつながっている。その感覚をより鮮明に、自覚できるようになりたい。それが学問の始まりではないだろうか。「先儒の成説なり。心と経と同じく処るは、我が心の公なり。同じく処らざるは、我が心の私なり」(『羅山林先生文集』における惺窩の言葉)というわけである。
話がそれてしまったが、これを読んで以降、いったい藤原惺窩とはどういう人物なのだろうかと、考えずにはいられなくなったのだ。
そもそも藤原惺窩は「新古今和歌集」や百人一首で有名な藤原定家の子孫であり、儒教だけでなく仏教や和歌などにも教養のあった人物である。惺窩自身も長く僧籍にあり五山文学の教養の中で育った人物であった。当時の仏僧は仏教だけでなく教養として儒学その他も学んでいた。その中で儒学に興味を持ち、儒学に傾斜していくことになるのである。
そんな中で豊臣秀吉の朝鮮出兵で捕虜となっていた姜沆と親しくなることが惺窩の思想を大きく展開させることになる。もっとも、姜沆と出会う以前に明に渡航しようとして失敗しているので、このころにはすでに儒学に強く魅了されていたと思われる。
惺窩はそれまでの日本で多く伝えられていた儒学とは異なる朱子学を講じた。これは当時にして革新的な新知識であった。しかし、惺窩は単純に朱子学を輸入して述べていただけではなく、陽明学の考えも取り入れていた。翻訳学者にはならなかったのである。これは惺窩と儒学との出会いが出世によるものだけではなく、知的関心にこたえるものだったからに違いない。儒学は共同体と己との関係についての知識である。現世への関心は仏教より強く、それが儒学への関心へとつながったのではないか。
ところで当時知識を有力者に講釈するということは大変な禁忌であった。儒学は公家社会では明経道の清原家が講釈するものだった。惺窩やその弟子林羅山は、こうした清原家の秘伝をも侵す可能性があった。同じように古くから伝わるものには公家社会に伝わる秘伝があり、それを無視することはできなかった。
惺窩や羅山はなぜ儒学の講釈が可能だったかというと、公家社会と全く異なった武家社会の学問を担う必要性があったことと、惺窩や羅山は朱子学を基調として今までの儒学とは一味違うものだったからである。その意味で朱子学という体を装う必要があったのだ。なお朱子学が幕府の官学と言われるのは松平定信の寛政異学の禁以降のことであり、それまで儒者の地位は不安定なものであった。林羅山も家康の秘書として重宝されたに過ぎない。そもそも「儒者」なる職業が全く新しいものであった。
惺窩は幼年より仏門に入り学問もそこで得たが、そこに飽き足らないものを感じて、儒者というそれまでに存在しない学者像を打ち出した。朱子学という外国の学問を借りて、伝統にとらわれない新たなる存在を生み出した。伝統は欠くことのできないほど重要なものだ。しかし伝統は時に利権と結びつき社会を縛る足枷にもなる。その兼ね合いは人類に課せられた永遠の課題かもしれない。
惺窩の朱子学は単純な外来思想の需要ではなかった。古註ではなく新註を用いたが、純然たる朱子の徒ではなく、陽明学の考えも取り入れていた。また、儒学だけではなく、後に国学と呼ばれる日本古来の書に対する学問や和歌に対する関心も持っていた。日本的儒学や国学など、後の日本に大きな影響を与えた江戸の学問は惺窩をもって先駆としなければならない。惺窩が世襲による秘伝を破ったことで、江戸時代は学問の時代となることができた。近き因習を破ることでより古くから続いた正統に近づくことができた。
この話を書いているときに、西洋思想にふれた明治人を思い出す。明治人は西洋思想に影響を受けたが、ほとんどの場合において自らの感覚で思想を選択、変質させ、日本の正統に近づけていった。
惺窩は若いころは確実に支那朝鮮にかぶれていただろう。しかし長じていくにつれて日本の正統に帰って行った。それは福沢諭吉が和歌や儒学など学ぶ価値がないと言っていたにも関わらず、長じると西洋かぶれの人間を「開化先生」と揶揄するようになったことを思い出す。
あるいは耶蘇教や社会主義を信じた者も、日本に道徳や秩序を取り戻すために外来思想の力を借りる必要があると考えたからであった。日本的儒学の広まりがあったからこそ、単純な外来の模倣にならなかったといえるのではないか。ただし単純な模倣に留まらなかったとはいえ、林羅山が天皇は呉の太伯の子孫であるという「天皇中国人説」を称えるなど大いに問題があったことは言うまでもない。
闇斎の学者像
先ほども述べた通り「儒者」という職業は当時初めて生まれた新しい職業で、藤原惺窩から林羅山に至って少しずつ具体化したものだ。
闇斎は羅山の幕府への庇護を頼む姿勢を批判したが、平安時代以来世襲で継承されていた学問の講釈権を公共の場に引きずり出した点では共通していた。
羅山の幕府秘書的儒者像とは異なり、闇斎が体現した学者像はむしろ宗教指導者に近いものであった。闇斎も、また闇斎が学んだ南学の谷時中も(余談ながら惺窩も羅山も)僧侶出身で僧侶時代に儒学を学び還俗した人間である。当時、有力者以外の人間で儒書にふれる可能性があったのは僧侶だけであった。儒教は仏教とともに学ばれていた。後に仏教を否定する闇斎ではあるが、山本七平が吉川幸次郎を引用し指摘したように「三歩下がって師の影を踏まず」的師弟関係は、儒教というよりむしろ仏教的である。
崎門の学風は字句を学ぶというより精神修練を重んじるところがあるが、それは闇斎が描く(羅山とは異なる)学者像と無縁ではないのである。
君臣子弟の関係は絶対か
山崎闇斎は林羅山の、僧体で、有力者の庇護を受けるありかたを厳しく批判している。それは思想の次元にまで及んでいる。先ほど述べた通り惺窩や羅山も単純なシナ模倣ではないとはいえ、大いに問題があったことは言うまでもない。
山崎闇斎は「たとえ敬愛する孔子、孟子が攻めてきたとしても(日本人として)孔孟と戦うべきだ」という教えを説いた。通常この逸話は国家への忠、日本精神の唱道として受け取られてきた。だが違う読み方も可能ではないか。
山崎闇斎は朱子にかぶれて常に赤いものを身に着けていたような人間だった。当然、儒学を篤く信じていた闇斎が「孔孟とも戦え」と述べたのは、「たとえ自らが道を教わった師匠であっても、己の信念に反するならば対峙しなければならない」と説いたとも言える。崎門は君臣師弟親子の上下関係を説いたが、同時に一介の思索者としての矜持を、その生きざまで示していたともいえるのではないか。根拠薄弱と言われてしまうかもしれないが、峻厳で述べて作らずを重んじる崎門の学風から、これほど破門される高弟が出るというのも、上記のようなことではないかと思ったのである。
浅見絅斎と赤穂事件
山本七平が「応用問題」として、崎門の思想が実際の事件に対してどういう反応を示したのか触れた個所に、「忠臣蔵」で有名な赤穂事件に関する記述がある。
赤穂事件については、佐藤直方などが否定的だったのに対し、絅斎は肯定の論陣を張った。
山本七平は、絅斎が赤穂浪士を称揚することにより、暗に義があれば幕府がもたらす秩序に背いても称揚されるべきだと考えていたと論じている。赤穂浪士が浅野内匠頭の遺志を絶対化し、それを実現することは善であるように、歴代天皇の意志を絶対化し、幕府を撃つことは善であるというロジックを立てようとしたのではないかと論じている。そういう志士が現れるのを秘かに期待していたのではないかという。歴代天皇の遺志に則っていると判断すれば幕府の法に背こうがそれは善なのだ。それが明治維新をもたらしたのだと論じている。
明治維新には確かに有効であったが、維新後それを清算せず表から消して「まやかし」を行ったため、戦争期に「猛毒」をもたらすことになったと論じている。
まとめ
山本七平は、明治政府が(「志士たちの聖書」でありながら)崎門の影響を消したことを論じている。そして消してしまったからこそ「呪縛」となったのだと論じている。『現人神の創作者たち』は、「絅斎など崎門の学徒が狂信的な天皇崇拝を唱え、それによって明治維新がなったため日本人はそれに拘束されることとなった」などというつまらなくてくだらないことを書いたと思われる記述も多いのだが、あえて違う解釈を試みたい。
「出来てしまった」秩序をそのまま認め、統治権にいかなる正統性があるか問題にしない「まやかし」は明治時代にも生み出されていたのである。明治時代に、統治権の正統性を問題にせず秩序の変更を許さないために生みだされたのが「現人神」であったとすれば、「現人神の創作者たち」は維新の元勲であり、「現人神」とはそうした元勲の自己保身に皇室が利用された姿であるということも言える。「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代え」とは尾崎行雄が桂内閣を弾劾した有名な一節であるが、まさに真の天皇親政の大理想が忘れられ、皇室の真の姿を示す言葉がその陰にはびこる佞臣をのさばらせる過程は、皇室を崇敬するわれわれにとっても重要な思想的課題を与えられたと言えるのではないだろうか。