山本直人「首里城の夢の跡」(『維新と興亜』第2号)


 沖繩を訪ねたのはもう六年も前の話だ。首里城については那覇空港に着いた後、ゆいレールに乘つて眞つ先に足を運んだ場所である。本州から滅多に出る機會のなかつた自分にとつて、まるで海外にでも出向いてゐるやうな昂揚感があつた。
 首里驛から城のある首里城公園までは、最寄り驛と云ふにはそれなりに距離がある。しかし二十分近く歩いた末に、遠方から見渡せる城郭の遠望は壯觀である。
 そこからまた暫く城内を散策すると、二千圓札でお馴染みの守禮門が迎へてくれる。その創建は明確ではないが、中國がまだ明の時代だつた十六世紀半ばの第四代の尚清王の時代には既に存在してゐたとされる。
 當初は「待賢門」とよばれ、「首里」の額が掲げられてゐた。その後、第六代尚永王の時代に明から册封使が派遣される際には「守禮之邦」の額が掲げられるやうになるが、十七世紀半ばの第十代の尚質王の時代にそれが常掲となり、現在の「守禮門」として定着するやうになつたといふ。沖繩戰の首里城燒失後、昭和三十三年に眞つ先に再建されたのが、この守禮門だつた。以來、沖繩觀光の象徴的存在となつた。
 そこから城壁を拔け、首里城正殿に向かふわけだが、國内で目にすることができる通常の城郭建築とは大きく異なるその壯大な姿から、映畫『ラストエンペラー』で大冩しにされた紫禁城を想ひ起こす人も少なくあるまい。しかしながら、實際はその中心部には、唐破風とよばれる日本の城郭建築特有の意匠が施され、この正殿だけでも東アジアの傳統建築の樣々な要素がふんだんに織り込まれてゐることに氣づく。
 廣場の南殿は主に薩摩の使節を受け容れ、疉敷きの和風樣式となつてゐる。一見、大陸風の外観に、日本國民にとつて馴染み深い畳敷きの部屋があるのには、何とも親近感を覺えずにはゐられない。一方、明朝以來、清國とも外交儀礼上、朝貢關係を結んでをり、册封使を迎へ入れる北殿は、南殿とはおよそ対照的な中華風の建物となつてゐる。
 正殿内部は博物館となつてをり、元は「京の内」とよばれる古神道の樣な祈祷場の他、政治外交を司る「表」、更には江戸城大奧のやうな「御内原」とよばれる施設もあつた。中世から近世の城郭建築のみならず、京都御所で云へば政廳の場だつた紫宸殿、日常生活の間の清涼殿を併せ持つ施設でもあつたやうだ。

 この宏大な城郭の敷地は、元をたどれば十箇所もの御嶽もある聖地である。つまり琉球古來の民間信仰の場でもあつたのだ。更に通常のガイドブックやパンフレットでは殆ど觸れられてゐないが、大正末期から空襲で燒失するまでは、沖繩神社の拜殿として崇敬された時代もあつたさうだ。明治以降の近代社格制度に基づく「縣社」の創建は、大正十四年になるが、祭神には歴代琉球王の他、意外にも王祖・舜天の父とされる源爲朝も祀られてゐた。この沖繩神社だが、敗戦後の昭和三十五年に再建運動が起こり、沖縄返還後の昭和四十八年に宗教法人資格を取得。現在では正殿から一キロほど東方の辯ケ嶽に祠が再建されてゐる。
 首里城内には沖繩戰では陸軍總司令部が地下壕に置かれ、大東亞戰爭末期に想定された本土決戰の前線基地ともなつた。そして敗戰。米軍爆撃による首里城燒失後、戰後は一時期、琉球大學の敷地となつたこともある。
首里城
 このやうに首里城は琉球そのものを象徴する城郭建築に留まらず、古來のアニミズムから佛教・道教・神道と…東アジアに於るあらゆる宗教が融合した類例のない文化遺産であることが汲み取れる。その復元計劃は沖繩本土返還以前から長い歳月をかけられてゐたが、本格的に着工されたのは意外に新しく、平成改元以降のことである。しかも首里城全域の完全な仕上がりまでには、平成三十一年二月まで續いてゐたといふ。つまり、この平成の三十年間の間、長期的な計劃によつて再建され、その間、平成十三年十二月に、「琉球王國のグスク及び關聯遺産群」として世界遺産に登録。既に昭和四十七年五月には、國指定史蹟に認定されてはゐたが、まさに沖繩縣民にとつて戰後復興の悲願であり、縣民のアイデンティティーを示す象徴そのものでもあつた。
 令和元年十月三十一日の首里城燒失は、沖繩縣民にとつて忘れがたい日となるだらう。これまで首里城は今囘も含めると四囘も燒失してゐるが、これまでの復元までの氣の遠くなるやうな長い歳月を鑑みても、その喪失感・失望は想像を絶するものがある。

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