金子宗徳「金子彌平―興亜の先駆者④」(『維新と興亜』第2号)


シティ・オブ・トウキョー号
 シティ・オブ・トウキョー号に乗り込んだ彌平(二十九歳)の傍らには、弟・謹三(十八歳)の姿もあった。謹三は元治元(一八六五)年十月十日生まれ。明治九年(一八七六)六月、東北地方御巡幸中の明治天皇が花巻に立ち寄られた折、里川口金城小学校を代表して天覧授業に出席する栄に浴する〔『花巻市史(近代編)』102~105頁〕など、幼い時から優秀であったようだ。その後、彌平を頼って上京し、明治十五年十二月五日付で兄と同じく慶應義塾に入社した〔『慶應義塾入社帳(第二巻)』537頁〕謹三は、米国への留学を志したのだろう。
 シティ・オブ・トウキョー号には、彌平・謹三兄弟のほか、フランス・リヨンに総領事として赴任する藤島正健のほか、大倉喜八郎や濱口梧陵など数名の日本人が乗船していた。
越後国蒲原郡出身の大倉(四十六歳)は、大倉土木組(現・大成建設)、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)、日清豆粕製造(現・日清オイリオ)、札幌麦酒(現・サッポロビール)などを創業し、大倉財閥を築き上げたことで知られる。また、自邸の敷地内に大倉商業学校(後に大倉高等商業学校)や大倉集古館を設けた。このうち同校は大東亜戦争における空襲で被災して国分寺に移転し、敗戦後の学制改革で東京経済大学となる。現在、虎ノ門の旧跡地にはホテルオークラが建つ。
 彌平との関わりで特筆すべきは濱口(六十四歳)である。紀伊国有田郡出身の濱口は安政南海地震における「稲むらの火」の逸話で知られるが、ヤマサ醤油の前身である濱口儀兵衛家の当主として醤油醸造業を行う事業家、和歌山県会の初代議長を務める政治家としての一面も有する人物だ。
 彌平が濱口と同船したのは偶然でなく、示し合わせてのことであった。後年、彌平は次のように振り返っている。
濱口梧陵

  明治十六年私が外国へ行く少し前の事でした。京橋區金六町の自宅に居りますと、福澤先生から御手紙で、直ぐに來て呉れとの事でありましたから、早速お宅へ參上したのであります。先生がお前は今度米國へ行くさうだが、もう定まつたかと云はれるので、決定した旨を申し上げると、それなら相談したい事がある。實は自分の友人の濱口君も米國へ行く計畫をして居るのだがと云つて、種々濱口さんに關する話を聞いたのです。濱口さんの事は此の時初めて聞いたのですが、若い時分の事業、官歴、それから栖原角兵衛を助けた話なども詳しく聞いて、隠れたる偉人だと思ひました。
  此の時分濱口さんの渡米するに就て、陸奥宗光も一緒に行かうとの話があつたやうですが、先生は君が行くなら陸奥の方は斷つて君に同行して貰ひたいといふのでした。何でも陸奥さんは私共よりも一船さきに出發された樣に覺えています。
〔杉村『濱口梧陵傳』241頁〕

 「福澤先生」とは、云うまでもなく福澤諭吉のこと。諭吉と濱口が初めて顔を合わせたのは、福澤が二度目の渡米から帰国した慶應四年(一八六八)夏頃のようだ。同じく慶應義塾で蘭学を学んでいた紀州藩士・松山棟庵の紹介による。以来、両者は深い親交を保っていた。なお、『福沢諭吉書簡集』(第九巻)には、諭吉から彌平に宛てた書簡〔五月四日〕が収録されている。内容からして、前述の「お手紙」ではなかろうか。

  [前略]過日も一寸申上置候通り、御出発も迫り候義に付ては、本月七日態ト御来光を願度。客は小幡、森村、浜口等、六、七名之小集に御座候。何卒御繰合御来車奉願候。右御案内申上、御差支之有無、乍御面倒御一報奉願候。
〔『福沢諭吉書簡集』(第九巻)266頁〕

 書簡にある小幡は諭吉の側近であった小幡篤次郎、森村は森村組(現・森村商事)創業者の森村市太郎のこと。
また、彌平の談話に登場する栖原角兵衛は紀伊国出身の商人で、千島列島や樺太における漁業にも従事していた。
同じく名の見える陸奥宗光も紀州藩出身である。濱口は藩の財政改革を進める紀州藩に抜擢されて勘定奉行や権大参事を歴任しており、陸奥とは長い付き合いだったのだろう。なお、土佐立志社の林有造・大江卓らと共に西南戦争に呼応して政府転覆を企てた陸奥は長らく獄中にあり、前年に出獄したばかりであった。彌平らの一便前の船でアメリカに発った陸奥はイギリスに移って勉学を重ね、明治十九年(一八八六)二月に帰国する。その後、外務省に入省して外務省に奉職。外交官としての活躍ぶりは、ここに記すまでもないだろう。
  船上において、彌平は濱口と親交を深めた。
金子彌平
   横濱出帆後二三日の間は皆寄つて賑かに會談などしましたが、暫くすると何れも船暈の爲に船室から出て來る者が少くなつて、大勢寄る事もありませんでした。大倉さんは頻りにトランプなどして遊んで居た樣です。翁は外の人達とは餘り話が合はない樣子でしたから、いつも私ばかりが相手をして居ました。
   或日私は船の中で讀まうと思つて持つて行つた英文支那總論六冊を翁に見せて、自分の支那に關する意見をお話しすると、翁は非常に喜んで『私も支那大陸に關しては前から調べても居るし、種々の意見を持つて居る。今度の旅行も唯遊覧して廻るのが目的ではない。老體を危んで止める者も大分あつたけれど、どうしても西洋文明の實際を見て來なければ氣が濟まない。そして歸りには是非印度から支那を経て、十分研究して來たいと思つてゐる』と云はれました。それから時々支那に關する議論が出ましたが、翁は地理なども随分精しく調べてゐて、議論に根據があるのと、いろんな事を知つてゐるのには驚きました。
〔杉村『濱口傳』242~243頁〕

 文中の「英文支那總論六冊」とは、米国人ウィリアム・サミュエル・ウェルズ〔Williams, Samuel, Wells〕が著した“The middle kingdom(真ん中の王国)”(一八四八)のことであろう。同書は、“a survey of the geography, government, education, social life, arts, religion, etc. of the Chinese empire and its inhabitants(地理・統治・教育・社会・生活・芸術・宗教など中華帝国及び住人たちに関する概観)”と副題にある通り、支那に関する百科全書とも評すべき著作だ。因みに、著者のウィリアムはプロテスタント宣教師で、一八三三年から禁教下の清国において伝道を開始した。また、天保八年(一八三七)には日本人漂流民送還を主目的としたモリソン号に博物学者として乗船したが、異国船打払令に阻まれる。その後、ペリー艦隊の通訳官として日米交渉の場で活躍したり、一八五八年の天津条約締結に際しては清朝にキリスト教伝道を公認させたりなど外交官としても活躍した。衛三畏という支那名を名乗る彼は、“The middle kingdom”を執筆したほか、英華辞書である『英華韻府歴階』(一八四四)の編纂、さらには、マタイ伝や創世記の和訳も行っている。
 明治十七年(一八八四)六月十六日、彌平らを乗せたシティ・オブ・トウキョー号はサンフランシスコに到着した。

大蔵省の俸給不払いに苦しむ
 サンフランシスコに上陸した彌平と謹三は、サンフランシスコに二日ばかり滞在した後、大陸横断鉄道でニューヨークに向かった。
 ニューヨークでの仕事ぶりについては今のところ不明であるが、生活が落ち着いた彌平は諭吉に書状を送ったのであろう。諭吉からの返信〔明治十七年十一月十五日〕が残っている。

十月十日之郵書相達し拝見仕候。[中略]御出発後も日〻耳ニするハ唯不景気之声而已。加之先般ハ茨城之暴徒、本月初旬ゟ埼玉之一揆。追〳〵鎮定ニ帰し候得共、全国農民之困難ハ実ニ名状すへからず。田地を所有するハ恰も病人を抱くが如く、既に東国之某県(旧会津領)ニては、十余ヶ村申合せ、地主が地券を官へ返上いたし候事あり。全国之地価十六億円、都会最上の地面を除く之外、今日地券を抵当するも一銭之借用出来不申、未曾有之奇観と申すべし。
商社にて、三菱と運輸会社ニて競争するよしなれ共、唯寥々たる商売を争ふ而已にて、何れ双方共に潰るゝ事と存候。何れが先キニ亡るか傍観いたし居候。
生糸之価ハ頓ト騰貴之色を見ず、直輸会社も如何可相成哉、気之毒なる事ニ候。
右等之事態にて、政府ニ進て事を為さん抔とハ思ひも寄らず、辛ふして十七年来之旧套を保守すれば、之ニ満足する而已。
在野後進之学者有志者輩も、次第ニ困迫、実に気之毒千万。役人ニならんと煩悶する者もあれ共、一ツ穴を見付れバ、之を窺ふ者十人も二十人も、皇々如として、喪家之狗之如しとハ此事ならん。
此有様ニて進行すれば、政府ハ至テ無事、民権家も飢て痕なく、大蔵省之財政も、倹約すれバ立行き可申。目出度次第なれ共、日本国之財政ハ殖産日ニ衰へ、職工之輩ハ唯手を空ふして力を用る所なし。是亦気之毒千万なる有様御座候。
〔『福沢諭吉書簡集』(第四巻)278頁〕

 彌平の上司である松方正義が推進した財政再建と通貨制度改革がもたらしたデフレの惨状を諭吉は事細かに記しているが、デフレの悪影響は大蔵省の官吏である彌平の俸給にも及んでいた。諭吉は、同書簡の追伸に「十二月ニは月俸五ヶ月分四百八十円請取候よし、牛場氏へ頼置候得共、未タ其沙汰無之、何れ近日之事ト存し候」と記している。「牛場氏」は、牛場卓蔵のこと。もと陸奥宗光の書生で、官界入りするも明治十四年の政変で罷免される。その後、福澤が創刊した『時事新報』に参画。その後、金玉均の求めにより朝鮮に渡るも程なく帰国し、大蔵省に奉職していた。
 だが、諭吉の懇請にも拘わらず、彌平への俸給支払いは遅延したようだ。業を煮やした諭吉は、強硬策に出る。

〔前略〕金子弥平事、出立前少〻金子を以て拙者へ預ケ、米国在留中毎月百弗ツヽ森村ヘ為替取組、此方にて森村本店へ払込、不足之分ハ、本年五月大蔵省より三千円請取候金子有之候間、夫レを当テにして暫取替候様依頼ニ付、其通ニ請合、時〻為替金引受、森村本店へ払込ミ、又同人留守之諸弟へも毎月二十五円ツヽ貸遣し、今日之処ニテ、千百五十円斗貸越し相成候ニ付、五月中に右三千円を、牛場氏之取次ニテ請取らんとせしニ、豈図ラン、金子氏ハ近〻帰朝するニ付き、大蔵省ニテハ一切不相渡との義、誠ニ入候次第。就ては今後ハ為替之引請ハ一切断り申遣し候ニ付、或ハ貴様方之名義ニテ、暫時金子を振替呉候抔、所望あるやも計るべからず候得共、兼て申聞置候通り、如何なる人へも、金の貸借ハ禁制之義ニ付、弥平氏たりとも同様。金策之相談には断して関係不致様、急度拙者之言を守りて謝絶可被致。念之為メ内〻申入置候。〔『福沢諭吉書簡集』(第四巻)275頁〕
  
 右の書簡は、諭吉がニューヨーク滞在中の子息・一太郎・捨次郎に宛てたもの〔明治十八年六月四日〕である。これによれば、諭吉は日本における彌平の代理人として大蔵省から俸給を受け取る約束に従い、ニューヨーク滞在中の彌平に森村組を介して送金したり、また留守を預かっている弟たちにも仕送りをしたりもしたが、彌平の帰国が近づいていることを理由に大蔵省は約束を履行しない。これまで相当の額を立て替えてもいるので、これ以上は彌平に送金しない。収入の道が途絶えた彌平は少年時代からの知友である一太郎らに借金を請うかもしれぬが、応じてはならぬという内容だ。松方デフレがもたらした社会の混乱ぶりと、「一身独立して一国独立す」をモットーとする諭吉の振舞いが窺える。

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