浦辺登「歴史から消された久留米藩難事件」(『維新と興亜』第2号)


はじめに
 日本史年表では、明治七年(一八七四)の「佐賀の乱」。明治九年(一八七六)の「熊本神風連の乱」「萩の乱」「秋月の乱」。明治十年(一八七七)の「西南の役(西南戦争)」の文字を見て取ることができる。これらは、明治新政府に不満を抱く旧士族等の反乱として片付けられる。しかし、不思議なことに、明治四年(一八七一)の「久留米藩難事件」の記述はない。
 一般に、この「久留米藩難事件」は長州の大楽源太郎が久留米藩の同志を頼り、その大楽を久留米藩士が殺害した事件と見られる。実際に、大楽が久留米藩に逃げ、殺害されたことが引き金になっているが、当時の状況が詳細に検証された風はない。
 そこで、この久留米藩難事件の流れを辿ることで、事件の真相を検証してみたい。そこから、明治新政府が歴史から抹消した真実が浮かび上がるのではと考えている。この「久留米藩難事件」においては、大楽源太郎を殺害した川島澄之介が『久留米藩難記』という
一書を遺しており、これを中心に読み解いていきたい。
 もしかして、この「久留米藩難事件」とは、あの真木和泉守の意思を尊重しての、新政府を糺す事件ではなかったかとさえ思える。ゆえに、新政府は、歴史から抹消してしまったのではとさえ、訝りたくなる。
 回りくどい話の展開になると思うが、事件の中心人物である川島澄之介の人物像を知るためにも、お付き合いいただきたい。

一、「光の道」
 北部九州の神社には、参道が直接、海に繋がっているところが多い。これは、古くから北部九州が外海と結びついていた証拠と考える。福岡県福津市にある宮地嶽神社もその一つだ。その宮地嶽神社では、二月と十月、ダイナミックな「光の道」が出現するが、自然が織りなす雄大な光景に、人々は声を失う。
参道からの光の道
 その宮地嶽神社の日常は、どこにでもある神社仏閣と何ら変わりがない。参道には土産物店が並び、名物の「松ヶ枝餅」(太宰府天満宮の「梅が枝餅」に似ている)を焼く香ばしさに包まれる。ゆるゆると、その石畳を進むと、行く手を阻むかのように石段がそそり立つ。脇には「女坂」と呼ばれる坂道が備わっているが、あえて、「光の道」を体感するために石段を昇ってみたい。

 その石段には大きな鳥居が聳え立つ。これは、あの伊藤伝右衛門が寄進したものだ。二〇一四年(平成二十六)NHKの朝の連続テレビ・ドラマ「花子とアン」で、石炭王・伊藤伝右衛門の名前は全国に知れ渡った。ゆえに、「あの」という冠を付けただけで伊藤伝右衛門という人物をいちいち説明しなくても良くなった。
 そして、その石段の左手にも注目したい。大正五年(一九一六)三月、伊藤伝右衛門が左右の石垣を寄付したことを示す板碑が嵌め込まれている。「光の道」が出現する宮地嶽神社を訪れた方々は、この鳥居や石垣にまで関心を向けない。しかし、宮地嶽神社の「光の道」が全国的に有名になった陰に、「あの」伊藤伝右衛門が関係していたと知ると、また、一味、感動が異なるのではないだろうか。
 この「光の道」を楽しむ事ができる石段の最上段に立つ。参道は一直線に海にまで伸びている。正確に直線を引く定規もない時代、どれほど遠くにあっても正確無比の直線を引けるのは、やはり、光しかない。古人の、その発想というか、着想には感心するしかない。
参道は海岸に到達するが、海を越えた先には相島(福岡県粕屋郡新宮町)を望む事ができる。この相島は、いまやネコの島として世界中に知られるが、実は、歴史の宝庫でもある。江戸時代、この島は朝鮮通信使が江戸参府の途中で立ち寄る島だった。さらに、近年、積石塚古墳群という安曇族のものではといわれる墳墓が見つかり話題になった。日本でも二番目の規模を誇る積石塚の墳墓という。
 もしかして、この宮地嶽神社の「光の道」は相島の古墳群を遥拝するための目印だったのではと考える。宮地嶽神社後背地には、やはり、古代人の墳墓があるからだ。そう考えると、まだまだ、隠れた歴史がここ宮地嶽神社には潜んでいるのではと思えてならない。

二、鳥居を寄進する炭鉱王たち
 炭鉱王・伊藤伝右衛門(一八六一~一九四七)は大正五年(一九一六)三月、宮地嶽神社に石垣、鳥居を寄付した。それが、まさか、百年後の二〇一六年(平成二十八年)、人気ボーカル・グループ「嵐」のテレビコマーシャルで「光の道」として全国に知れ渡るなど、想像していただろうか。カネは出すが口は出さない主義の伊藤伝右衛門からすれば、「そげなこと、知らん」、なのだろう。
 宮地嶽神社に限ったことだけでなく、伊藤伝右衛門は太宰府天満宮(福岡県太宰府市)にも鳥居を寄進している。参道の中間地点にあるが、参道を登り切ったところには、やはり伊藤伝右衛門寄進の社標もある。他の神社仏閣を探せば、伊藤伝右衛門の名を刻む鳥居などが幾つも見つかるのは間違いない。
 この宮地嶽神社では、もう一人の炭鉱王・中島徳松(一八七五~一九五一)の名前を見つけた。石段を昇り切り、拝殿に向かう途中の鳥居だ。「福岡市 中島徳松」大正七年六月と彫られている。この中島徳松の名前は、住吉神社(福岡市博多区)の一の鳥居にもある。伊藤伝右衛門、中島徳松に限った事ではないが、麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎という「筑豊御三家」と呼ばれた炭鉱王たちも、神社仏閣に鳥居や灯籠、狛犬などの寄進をしている。炭鉱主にとって、新しい炭層に遭遇することは収入増につながり、落盤事故は損失につながる。科学が発達しても、人知の及ばない事々は多い。炭鉱主が神仏に縋り付きたくなるのも、分からないでもない。
 栄華を誇った炭鉱主が関係したからか、この宮地嶽神社には日本一がいくつもある。まずは、およそ二百年前に発見された六世紀から七世紀初めの日本最大の横穴式石室。日本一の大太鼓(直径二・二メートル、重さ一トン)、日本一の大鈴(直径一・八メートル、重さ四五〇キロ)。そして、日本一のしめ縄(長さ一一メートル、直径二・六メートル、重さ三トン)である。
 近くの宗像大社と同じく宗像三女神を祭神とするが、この宮地嶽神社は明治十年(一八七七)九月三日に社殿を焼失した。明治十年といえば、西郷隆盛が反政府で決起した西南戦争の終結が近い頃である。何か、不穏な動きに感応したのか否かは、今となっては不明だ。
 大正十一年(一九二二)から大正十二年(一九二三)にかけ、山を切り崩し三千坪の敷地を作り、大正十三年(一九二四)から社殿の建設に着手した。八十万円という、当時としては破格の資金を集め昭和八年(一九三三)に現在の社殿が誕生した。その建設資金を、先述の炭鉱主たちが寄付したことは、想像に難くない。
 そして、それらの資金を集めたのが川島澄之介だった。

三、地図に載らない銅像
 宮地嶽神社の社殿には日本一のしめ縄が下がっている。頭を垂れて参拝している時、突然に落ちてきたら、たまったものではない。そんな事を想像してしまうほど、巨大だ。
 その拝殿右手から禊池と呼ばれる池に向かう。神社が配布するイラスト入りの地図では、池があることは示されている。しかし、そこに足を向ける人は少ない。ゆえに、そこに銅像が立っているなど、ごく少数の人しか知らない。
 この銅像だが、「社司 川島澄之介翁」と正面の銘板にある。衣冠装束姿の銅像だけに、宮地嶽神社に関係した人であるのは確かだ。銅像台座の背後に廻ると、経歴を刻んだ銘板がある。そこには川島澄之介という人物について漢文で記されていた。
 
 翁筑後久留米人舊藩士川島文平君之第五子也爲人剛嚴幼而志文武勇造詀明治維新之際挺身奔走于國事得罪下獄後遭赦仕官累進為郡長効力於教育殖産事治績可見敍従五位勲五等大正元年辭官補本社社司就任之 初釐革社務一掃宿樊六年提造營社殿之議請官被許募浄財于四方應者曰夜不絶十一年起工鏟丘陵填渓谷以擴神域取材于臺灣締構経七年而成資實八拾餘萬圓也 昭和五年十月二十二日行 遷宮鎮座祭極盛儀嗚呼事業之大如此而一氣成之雖由神威靈徳之所致神亦非有翁経營努力之功安能得觀比盛事哉翁以嘉永元年三月二十五日生今年齢方八十六強健凌壮者餘事親筆硯所著有久留米藩難記宗教法論亦蓋昭代之人瑞也柊之諸有志胥謀茲建比壽像以傳不朽玉
  昭和八年三月

 川島澄之助は久留米藩士川島文平の第五子、早くから文武両道の志を持ち、明治維新では身を挺して国家に尽くした。しかし、罪を得て下獄。赦されて後は郡長として教育、殖産興業に尽力し従五位勲五等に叙せられた。大正五年宮地嶽神社の社司になり、神社の改革に没頭。浄財を広く集めて社殿の改築に尽力したという。いわば、宮地嶽神社中興の祖とも呼ぶべき人物だ。さらに、川島には「久留米藩難記」という著作があると記されている。銘板に刻まれる「下獄」とは、何なのか。なぜ、旧久留米藩士が宮地嶽神社の再興に尽くしたのか。「久留米藩難記」とは、いったい、何なのか。疑問は膨らむ。
 この川島澄之介の銅像顕彰文には、社殿の材木を台湾から取り寄せたと記されている。これは、福岡県神社庁監修の由緒と同じである。ということは、川島が宮地嶽神社に多大な貢献をしたという証明にもなるが、なぜ、宮地嶽神社の地図に銅像が記されないのだろうか。
 これは、川島澄之介について調べなければ、謎は解明しないようだ。

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