■新型コロナウィルスの拡大が現代に突き付けた課題
新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない。本稿執筆時点(令和二年三月二十四日)で一七四か国で三十六万人以上が感染、一万六千人以上の人が亡くなっている。今回の新型コロナウィルスは、現時点ではスペイン風邪やコレラ、ペスト、天然痘など、世界史上繰り返されてきた人口構成が変わってしまうほどの凶悪な致死率には至っていない。しかし全世界に感染が一挙に拡大し、移動自粛ムードにより世界経済全体の後退を招いているという点で、前記の感染症とは異なる事態を招いている。これほどまでに世界中で感染が広まった背景には、ヒト・モノ・カネを自由に行き来することを無条件に肯定してきたグローバリズムの弊害がある。
■グローバリズムの失敗
通信、交通技術の進歩により、市場は国境をはるかに超えて拡大している。だが、そうした中に生まれた「グローバル」な市場には歴史的積み上げがない。グローバル化の結果は惨憺たる失敗に終わっているというべきである。金融関係はリーマン・ショックで破綻し、人材の行き来はあらたな底辺層の登場と、中間層の消失、格差の拡大につながっている。通貨の統合は周辺弱小国の破綻となって跳ね返ってきた。それがなくとも統合により零細農家が続々と廃業しており、失業率は高止まりし、いずれはガタがくる仕組みであった。
いくら言い訳をつけても、自由競争の結果は経済の無政府状態にならざるを得ない。無政府状態という言葉がわかりにくければ、無秩序状態と言い換えてもよい。企業家は雇用や国際競争力を人質にして賃下げの容認を迫る。そのつけは政府が支払わざるを得ない。そうならないように政府は「自由貿易協定」という名の密室の交渉で、自国に有利になるように他国と条約を結ぼうとする。しかし、それが成功したとしても、やはりそのうまみは一%にしか入らず、九十九%は貧困化するのである。そうして経済の無秩序化は深刻になっていく。グローバル化によって株価やGDPが上がったとしても、それは富裕層、大企業の懐に入るばかりで末端の庶民には行きわたらないのである。経済成長が即国民全員の豊かさとなる時代は終わったのだ。
■グローバルという「幻想世界」
新型コロナウィルスの流行により、感染拡大を防ぐため、各国は国境の封鎖を始めた。「非常時」の掛け声の前にグローバリズムは脆くも崩壊したのである。
グローバル企業は、平時にしか成り立たない幻想の世界で商売を行っているようなものだ。そもそも市場の形成に際しては、同じ通貨(もしくは交換比が明確な通貨)を使い、会話が通じ、安全であることが不可欠だ。これらすべて市場だけではなしえることではなく、あくまで政府の前提があってこそ成り立つものだ。要するにこの通貨、言語、安全の前提が成り立たなくなった時点で、「グローバル」と言う幻想の世界はいつの間にか消滅して、世界は相変わらず主権国家の論理で動きだすのである。
いまも昔も、世界は善かれ悪しかれ主権国家の論理で動いているのであって、グローバルの論理では動いていない。ではなぜ各国政府はグローバリズムを進めたがるのか。
政府は今やグローバル企業の稼ぐ外貨なしでは運営もままならず、それゆえ政策的にあれこれ「支援」して見せるのだが、それはもはや「幻想の世界」なくしては立ち行かない、哀しき政府の姿でもある。賃上げしたり、企業に社会負担を担わせようとすれば「国外に出ていく」と脅しをかけられ、負担から逃れようとされる。また、そうした企業がはびこれば、優遇措置をとることで企業を誘致しようとする政府も出てくる。それを実現するための負担は一般国民から取られていく。
わが国の企業は内部留保を多く抱えており、供給力に比べて需要が弱いとされる。ならば需要側(=消費者、一般労働者)に優遇措置をとり、供給側(=企業、富裕層)に負担を願うのが当然の措置というものだ。だが企業が圧力をかけるため、その措置は取れない。企業の側も株主等に配当責任を負っており、おいそれと認めるわけにはいかない。しかし認めなければ結局需要は尻すぼみに小さくなり、経済は回らなくなるのである。ここに「社会的ジレンマ」が発生している。
■グローバリズムの背後にいる資本主義
グローバリズムを正しく批判するためには、資本主義を正しく批判せねばならない。
市場は無限定に拡大していく。そこにないものを外から持ち込んで、相場より高く売ることが商売の要諦であることからも、それは想像されよう。その意味で、グローバリズムは資本主義を認めるならば、必然的に避けて通れないものである。
元来、資本主義は、「すべての価値を市場が決める」という前提で成り立っている。その市場がなぜ公正な判断を下せるのか、という疑問に対しては「神の見えざる手が働くから」というオカルト信仰でごまかしてきた。だが、市場は個人が生活できるほどの所得を本当に与えるかどうかはわからない。「グローバル化」によりますますそれは不確かなものになった。物価は先進国基準であっても、賃金は新興国と「競争」させられるのだとしたら、それは人が生きられない仕組みである。しかし、資本はその帰結に責任を負わない。それは、資本主義が国家や社会を軽んじる思想だからだ。
資本主義の進展により人がカネに動かされ、利益にならないものが軽んじられる傾向は、経済のグローバル化により一層拍車がかかった。グローバル化は国境の観念を消失させようとする。それは制度面でも、意識面においてもそうである。自然発生した事物と人間とのかかわりなどは、むしろ人為的に制御することが必要になる。現在の資本主義市場はマネーゲームやあるいは赤の他人が集う職場で仕事をする形態から見ても、人為的な事物である。人為物の暴走は人為で止めるよりあるまい。ましてやグローバル化など、市場の拡大のために自然発生的に培われた国境の概念をも超えようとしているのだから、全く人為的な産物と言うべきだろう。
そのような非道な仕組みは改めるべきだが、グローバル化を肯定する論者は、市場社会の中で「努力」して「自分の価値を上げること」、つまり「競争」で優位を築け、と言うのである。だがこれは実際の給与生活者、即ち国民の多くを占める会社員の生活に何ら立脚していない。
生まれ持った風土や文化を離れて企業が存在できると言う考えそのものが「グローバル化」の空論とも言える。人々が「自然」に育んだ文化や歴史を無視した、のっぺりとした「各国画一的な市場」というものは存在しない。仮に資本が海を越えるようなことがあったとしても、それはその先で必ず現地の文化の研究に迫られることだろう。ローカル市場は思うほどやわではない。ただし、グローバル市場とは違った論理で動いているので、グローバル市場の論理を杓子定規に当てはめてしまうと、おかしなことになるのである。「自国でダメだったから他国で儲ける」式の理屈は通用しない。いくら「グローバル化」だの「民間にできることは民間に」と叫んでみたところで、有事になればむき出しの国家の論理に支配されるのが現実の社会である。
言うまでもなく国に存在する「規制」の多くは、慣習からなっており、社会の安定や秩序を守り、弱者を救う「持ちつ持たれつ」の関係が明文化されていったものだ。それを破壊して経済成長がなしえるなど、狂気の沙汰である。「規制緩和により既得権が解消されることで、誰にでもチャンスが訪れる」などというのは笑えない錯覚である。概して規制を「不便」と感じるのは強者であり、要するに規制緩和とは強者が弱者からより多くむしり取るために足かせを外せと言っているに過ぎない。政治力学上から言っても、多額のカネを献金してくれそうな有力な企業が規制緩和を要望するから政治家も動くのであって、その逆はあり得ない。
したがって、「規制緩和」は概して既存の秩序を破壊して、弱者を苦しませる結論になってしまうのである。社会秩序を破壊した果てに「成長」がある、という幻想。その幻想はたとえ成長がなかったとしても、「まだ破壊が足りない」ということで正当化される。それはまるで「革命」の結果が惨憺たるものであったとしても、「まだ革命が足りないからだ」と言う理屈で正当化しようとした思想を見るようだ。新自由主義と共産主義は、真逆にありながら同じ発想をする双子の兄弟である。
原理的に考えてみれば、新自由主義は規制緩和を好み官僚主導を嫌い、グローバル化や市場による競争を好意的に見つめることなど、国家意識が希薄な思想である。だからこそ新自由主義者は政府の役割を「夜警国家」などとたとえて見せるのである。三島由紀夫が嫌った「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」とは資本主義を骨の髄まで沁み渡らせた国家のことである。それは新自由主義、グローバリズムの跳梁によってますます進んでいくだろう。
■目指すべき道
既に本誌及び本誌の前身『大亜細亜』で繰り返し述べてきたことではあるが、われわれが目指すべき道標について改めて語ろう。
國體の理想に基づき国内維新を達成し、アジアと道義を共有していくことが、われらが目指す道である。現代においては、敵はグローバル資本及びそれらに便宜を図る政治家、学者等である。グローバル大企業とその取り巻きの政治家、財界人らを打倒し、反グローバリズム反新自由主義に出るべきである。そうでなれば、日本のあるべき姿を取り戻すことはできない。
「国際資本の規制」、「地産地消」と「各国の伝統への回帰」がなければならない。そのためにまず大アジア主義発祥の地日本で、維新が成されなければならない。維新とは単に政府転覆を意味するのではなく、「国際資本の規制」と「伝統回帰」への国民の自覚と覚醒が目指されなくてはならないのである。
日本人が培ってきた思想に基づく、伝統と民族的団結の回復。それはグローバリズム、新自由主義に対する抵抗線である。グローバル資本のヒト・モノ・カネを自由化させ文化的破壊をもたらそうとする事態への反発を通じて、それを日本以外にも押し広めていくことで各国が立国の精神、大道に到達する。これこそが先人も抱いていた真に目指すべき興亜の道なのである。
(小野耕資)