「明治維新」カテゴリーアーカイブ

明治維新の意義についての大川周明の考え方─伊福部隆輝『五・一五事件背後の思想』

 鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件の背後の思想として西鄕南州、北一輝、権藤成卿、橘孝三郞、大川周明の思想を取り上げた。
伊福部は、徳川幕府に関する以下の大川の主張を引く。
〈徳川家康は国民が再び皇室の神聖を意識し始めてたるに対し、固よりこれを抑止し、又は之に背馳するやうな愚は敢てしなかつた。彼は足利将軍が皇室を無視するに反し、努めて皇室に尊崇の念を示さうとした。彼は皇室の収入を増し、宮廷を修理し、朝廷の儀式を復興し、只管その尊厳を加へることに心を用ひたのであります。
しかも家康の加へんとした尊厳は宗教的尊厳であつて、断じて政治的尊厳ではなかつた。日本の天皇は天神にして皇帝であるにもかゝわらず、家康は天皇の宗教的尊厳の方のみを高めることによつて国民の尊崇心に満足を与へつゝ、他面一切の政権を皇室より自家の掌理に収め、天皇をもつて皇帝にはあらで単なる天神たらしめたのであります〉
そして、伊福部は、〈明治維新とは実にこの徳川によつてなされた歪曲をその正しい位置「天神にして皇帝」たることに天皇をなさしめたところにある〉と大川は主張したと書いている。

明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?

徳川幕府の専横に対する皇室の嘆き
 徳川幕府成立からおよそ百五十年後の宝暦六(一七五六)年、崎門学派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義をし、熱く訴えかけました。
 今の世の中は、将軍がいるのを知っているが、天子様がいるのを知らないありさまである。これは、つまり関白以下の諸臣が学に暗く、不徳であったためにほかならない。もし、諸臣が学問に励み、徳を磨いたならば、天下の人心は朝廷に集まって、将軍も政権をお返しするであろう、と。
 式部の言葉を聞いた公卿たちは、ハッと目が覚める思いで、自らの使命を改めて考えたことでしょう。公卿たちが皆、公城のような姿勢であったなら、すでにこのとき王政復古に向けた静かな運動が開始されていたかもしれません。しかし、王政復古が実現する慶応三(一八六八)年まで、徳川幕府はその後百十年も続いていくのです。
 いまだ式部の時代には、彼の講義が幕府の忌憚にふれる危険なものだと考え、自己規制してしまう公卿が少なくなかったのです。それほど徳川幕府の朝廷対策は徹底されていました。幕府は、彼らに反感を抱いた大名が朝廷を中心に事を挙げることを強く警戒していたのです。
 徳川幕府は、慶長十八(一六一三)年に公家衆法度を出し、行儀、法度に背く公家を流罪に処すことなどを定めました。同年に出された「勅許紫衣の法度」も、朝廷の権限を制限するものでした。「紫衣」とは高僧だけが着用できる紫色の袈裟で、古くからその着衣の許可は朝廷によって下されていました。ところが幕府は、この法度によって、大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・栗生光明寺の七カ寺に対して、「紫衣」の勅許を得る場合には、事前に幕府へ願い出て幕府の許可を得るようにと定めたのです。
 幕府は元和元(一六一五)年七月十七日に、禁中並公家諸法度を発布しました。この法度は十七条にわたり、その第一条は「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」と定めました。第十一条には、「関白・伝奏並びに奉行職事など申し渡す儀、堂上地下の輩相背くにおいては、流罪となすべき事」と謳われています。関白は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)が就任する朝廷官職のトップですが、その任免は天皇の自由にはならず、すべて幕府との協議と承認を必要とするようになりました。
 幕府は、関白とともに、幕府と朝廷の交渉・連絡役の「武家伝奏」、様々な朝儀を執行した蔵人役の公家「奉行職事」らによる朝廷統制体制を固めたのです。さらに、直接朝廷を統制、監視するために京都所司代を置きました。
 徳川幕府の専横に対する皇室の嘆きは、例えば、後水尾天皇(在位:一六一一~一六二九年)がお書きになった『御訓誡書』の冒頭にはっきり示されています。
 「むかしこそ何事も勅定をばそむかれぬ事のやうに候へ、今は仰出し候事さらにそのかひなく候、武家は権威ほしきままなる時節の事と候へば、仰にしたがひ候はぬも、ことはりと申べく候歟」
 宝暦事件に至る朝幕関係において特筆すべきは、霊元天皇(在位:一六六三~一六八七年)による大嘗祭再興です。学習院大学教授の高埜利彦氏は、霊元天皇が目指した朝廷復古の動きは伏流し、「宝暦事件」に際して顕在化したと書いています。
 大嘗祭は、文正元(一四六六)年に室町時代の後土御門天皇即位に伴って挙行されて以来、霊元天皇が貞享四(一六八七)年八月十三日に大嘗会を簡略な形で復興するまでの二百四十年間、中断されていたのです。
 皇室再興と独自の政策展開を目指した霊元天皇は、幕府と距離をとり、左大臣近衛基煕ら「親幕派」の公卿による統制を退けようとしました。
 ここで注目すべきは、霊元天皇と崎門学派との関係です。藤田覚氏によると、闇斎から垂加神道の奥義を伝授された正親町公通は、霊元天皇に山崎闇斎の『中臣祓風水草』を献上していました。また、近藤啓吾先生が指摘している通り、徳川光圀(義公)は延宝八年、平安時代から江戸初期までの各種古典の序・跋・日記などを収録した『扶桑拾葉集』を、後西上皇と霊元天皇に献上しましたが、そのとき水戸から上京した使者は、闇斎の門人だった鵜飼錬斎でした。さらに、中院道茂、土御門泰福らの闇斎門下もこれに協力していました。
 近藤先生は、さらに一条兼輝が垂加神道の相伝を得ていた事実や後西天皇の第八皇子、八条宮尚仁親王に師としてお仕えしたのが闇斎高弟の桑名松雲や栗山潜鋒らだった事実を挙げています。潜鋒については、第三章で改めてふれることにします。 続きを読む 明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?

尊皇思想を鼓吹した『新葉和歌集』

 平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、「久しきに亘って醸成された上代思慕に基く尊王論が倒幕論に発展するには、熱と力を与へる他の契機が必要であつた」と指摘し、その一つとして考えるべきものが吉野時代の回顧だと説いた。そして、吉野時代の回顧として重要なものとして、太平記、神皇正統記とともに新葉和歌集を挙げ、次のように書いている。
 〈最後に新葉和歌集について考へよう。これは 後醍醐天皇の皇子 宗良親王が撰集し給ひしもの、「かみ元弘のはじめより、しも弘和の今にいたるまで、世は三つぎ、年はいそとせのあひだ」吉野の 朝廷に仕へて、滅私奉公の誠を捧げた人々の歌を含んでゐる(序文)。内容については親しく繙くべきであり、多くの解脱もなされて居るから、こゝでは佐々木信綱博士の雄渾適切なる一文を引用するに止めよう。
 新葉集をとつて一首を高唱すると、切つて離した弓弦の高鳴る響が聞える。馬上の武士の草摺に触れて錚鑅たる佩剣の響が聞える。更に暝目して当時を想像すると御簾あらはに板敷寒き行宮の夜、嵐に瞬く燈火の下に侍してもとの都にかへさずらめやと憤り歌つたおもかげが現はれる。皇事に痩盡せる白髪の准后が、敵中ふかき孤城の一室に史筆をとるさまもうかぶ。新葉集は熱烈の作に富んで浮華の調がない、云々。(改造社版『頭註 新葉和歌集』序文)
 その立場の相違の故に、新後拾遺集、新続古今集撰集の際には、事大主義の「心なき撰者」により門戸を鎖され、足利政権下を通じて不遇であり、わづかに書写せられて伝はつたが、近世になると、承応二(一六五三)年、寛文二(一六六二)年、宝暦元(一七一五)年と開板せられ、承応二年板と同板で年月不明の版本もあり、ひろろく流布することになつた。そしで光圀卿が扶桑拾葉集を集めた時、二十一代集と同格に待遇されたのであつた。このことについて吉田令世がいみじくも「大日本史に南朝を正統と立給へると、この新葉集を勅撰の中に入れたまへるとはやがておなじ趣」である(歴代和歌勅撰考)と指鏑してゐるのは人のよく知るところである。応永三十二(一四二七)年兵部卿師成親王が「斯書は南朝慶寿院法皇御在位の時、予が叔父中務卿宗良親王に詔して撰せしめらるゝ所なり云々(富岡氏本 新葉集奥書)」と仰せられてゐることを思へば、新葉集は、こゝにはじめて正しき地位を与へられたと云ふべきであらう。然してこの光圀卿と相前後して吉野時代の修史の業を企てた加賀侯前田綱紀が、宗良親王賛辞を作り、その中より今日人口に膾炙せる御歌
  君のため世の為なにか惜しからむ 捨ててかひある命なりせば
を抽出し「命を委ねるの志節、所謂君に身を忘れ、国に家を忘れる語にも叶へり」と云つたのは本書が単に史料乏しき吉野時代研究の資料としで重用されたばかりでなく、その内容をなす悲歌が尊王思想鼓吹に役たつー径路を示すものであらう〉

勤皇の志士・栗原孫兵衛

 太宰府天満宮の境内には、和魂漢才碑が祀られている。菅公の精神学識を伝えるこの碑の建立に尽力したのが、勤皇の志士・栗原孫兵衛である。栗原のことを、日本経済大学経済学科専任講師の竹川克幸氏が平成29年3月10日の『産経新聞』で詳しく紹介している。
 大宰府天満宮の門前町、大町旅館街にある旅館松屋(現在は「維新の庵・松屋」)主人だった栗原は、勤皇の志士たちへの支援を惜しまず、安政の大獄の際には勤皇僧・月照をかくまった。また、文久3(1863)年の八月十八日の政変で長州に逃れた七卿のうちの五卿が太宰府に移送されたときには、栗原が密会の場を提供した。
 加藤司書や月形洗蔵ら筑前勤王党が弾圧された慶応元年の(1865)年の「乙丑の変」では栗原も連座している。慶応4(1868)年2月に赦免され、明治13(1880)年に死去。
 「維新の庵・松屋」では、かつて志士も食べたという名物梅ヶ枝餅をいまも食べることができる。

真木和泉の真髄①

 いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
 「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
 「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
 これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
 〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
 「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」 続きを読む 真木和泉の真髄①

遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次

 以下、遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』(錦旗会本部、昭和8年)の目次を紹介する。
 序文
 序篇 世変の前兆たる世相と我等の危惧
 一、 明治維新には王政復古の形式獲得・昭和維新には皇国日本への復帰完成
 二、 世の大多数者は常に前兆を前兆として感知し得ぬ
 三、 前兆は必ず心ある者をして危機を思はしむ
 四、 罪人に対する昔の拷問・国民全部に与へられる今の生存苦
 五、 我が日本には今や毎日平均百人以上の自殺者がある
 六、 徳川時代の日本と仏蘭西と露西亜の虐政ぶり
 七、 今の生存苦は果して社会的拷問に非ざる乎?
 八、 学校はカントの倫理を教えて社会はマルクス指摘の通り
 九、 恐るべき片手落ち!今の我が滔々たる外国化の風潮
 十、 幕末の大義名分!日本にのみ有つて外国に無きもの
 十一、 忠義の的は天子様の外に何者も無いと云ふ不動の信念
 十二、 ああ「陛下の赤子」が「資本の奴隷」とは何事ぞ!
 十三、 昭和維新そのものの前に先づ精神的に「日本人の日本」の獲得 続きを読む 遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次

「賊臣」となった明治政府─萩の乱・前原一誠檄文

 明治9年10月24日、熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、そして同月28日に山口で萩の乱が起こった。萩の乱を指導したのは、前原一誠ら維新の精神を守らんとする志士たちであった。鎮圧直後の11月10日付の『朝野新聞』には、前原の檄文が掲載されていた。
 この檄文は、昭和6年に梅原北明が編んだ『近世社会大驚異全史』(白鳳社)の附録「近世暴動反逆変乱史」に収められていた。40年余りを経た昭和48年、海燕書房が同書新装版を刊行。もとの檄文はすべて漢文。海燕書房編集部が付した大意を引く。
○前原一誠檄文(徳山有志諸君宛て、日付不明)
 「昔、我が忠正公(第十二代長州萩藩主、毛利敬親。一八一九~七一)は、朝廷が政権を失っていることを歎き、徳川の遺命に憤り、薪に坐し、胆を嘗め、戈に枕して時代の夜明けを待った。藩士もまた藩主の誠心に感じ、血をすすり、誓いを立てあって、死を決意して我身をかえりみずに(王政復古のために)働き、ついに国内を一つに安定させ、諸事を天皇の手に返すことに成功した。このような時になって、○○○○等の者たちは、天子のそば近くに出入りし、くらべようもなく高い位を得て、先君の偉業を自分の功績とし、自分の思う通りを通し、祖宗の土地をすべて天皇に献じ、そのやっていることといえば、法律をもって詩経・書経となし、収奪をもって仁義とし、文明を講じて公卿を欺き、外国の力を借りて朝廷を脅かす。これを要するに、外国人が幅をきかし、国内は疲弊し、神国日本の安危は、朝に夕も量り難い有様である。(○○○○等は)単に先君(忠正公)に対する反逆人であるばかりでなく、朝廷に対する賊臣でもある。最近、熊本の人人が、正義によって万事を断じ、一戦して鎮台の兵を殲滅し、その余勢が九州を風靡したことは、荒廃した世の中にあって実に一大事であった。諸君は先君の賜った衣を衣とし、朝廷より賜わる食を食として、長年を生きてきた。乱賊の人が誅されないままで、それを心の中で耐え忍ぶことがどうしてできようか。事を起こす点では、すでに他県の人々におくれをとりはしたが、成功を収めるかどうかは、まだこれからで、諸君次第である」
 このように、前原は明治6年の西郷南洲下野以降の明治政府の姿勢を、「収奪をもって仁義とし、文明を講じて公卿を欺き、外国の力を借りて朝廷を脅かす」と厳しく批判し、「朝廷に対する賊臣」と断じている。

「明治維新」と「明治という時代」の切断

二つの明治─大久保路線と西郷路線

 「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
 明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
 こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
 さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。 
 明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
 神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
 萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
 大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
 つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 続きを読む 「明治維新」と「明治という時代」の切断

グローバル化に利用される政府の「明治150年」事業─王政復古の意義を封印

 明治維新150年を迎えるに当たり、政府は平成28年10月に「『明治150年』関連施策推進室」を設置して検討を進め、同年末に関連施策推進の方針をまとめた。ところが、政府の捉え方は、またしても「明治維新」ではなく、「明治」である。
 明治維新100年を控えた昭和41年、佐藤栄作政権は「維新百年に回帰しようなどと大それた考えを持っているのではありません。戦後二十年の民主主義の側に私どもも立っております。…ことさら明治維新を回想するというわけではございません」(官房長官談話)という立場に立っていた。
 これに対して、昭和41年3月、憲法憲政史研究所長の市川正義氏は、佐藤首相に質問主意書を提出し、「明治百年の重要性は明治維新にある」と糺している。また、大日本生産党も「明治維新百年祭問題」において、「政府の考え方は〈明治維新百年祭〉ではなく単なる〈明治百年祭〉であって、単なる時間の流れの感慨にしかすぎないのである」と批判していた。安倍政権は、再び50年前の過ちを繰り返そうとしているのか。
 しかも、政府の方針には、明治維新最大の意義である王政復古、天皇親政への回帰という視点が皆無である。ひたすら、「明治」という時代の近代化と国際化を強調しているに過ぎない。
 明治維新100年を控えた時期には、先述の大日本生産党文書は「明治維新百年祭は単なる懐古的行事ではなく、昭和維新の前哨戦としての役割を持つ」と説いていた。また、安倍源基氏は「明治維新の意義と精神を顕揚して、衰退せる民族的自覚、愛国心の喚起高揚を図る有力なる契機としなければならない」と、福島佐太郎氏は「明治維新を貫く精神は建武の中興、大化の改新と、さらに肇国の古に帰るという王政復古の大精神であった」「われわれは懐古としての明治維新でなく、維新が如何なる精神で行なわれたかを三思し、現代日本の恥ずべき状態に反省を加え、もって未来への方向を誤らしめてはならぬ」と主張していた。50年を経た今日、改めてこれらの意見に耳を傾けるべきではないのか。
 政府はわずか二カ月の検討を経て、「明治150年」関連施策推進の方針をまとめてしまった。第1回(平成28年11月4日)の会議では、東京大学名誉教授の山内昌之氏が意見を述べた。同氏の用意した資料には〈「明治維新と明治150年の歴史的意義。270の藩つまり「半国家」「准国家」が独立割拠して個別に外国と条約を結ぶ事態が避けられ、統一国家としての近代日本を立ち上げた意義に尽きる。廃藩置県・徴兵制・地租改正の実施によって、ヨーロッパをモデルとした主権独立国家体制を築き上げた〉とある。王政復古という言葉はない。山内氏は、記念プロジェクトの一例として、お雇い外国人に関する海外との交流行事を挙げた。
 第2回会議(平成28年12月1日)では、帝京大学文学部長の筒井清忠氏が意見を述べた。筒井氏は、明治維新の基本理念は「五箇条の御誓文」だと指摘しつつも、そこから王政復古の意義を導こうとはしない。筒井氏は、明治時代の意義として、①立憲主義・議会政治、②国民主義・民主主義(身分制を越えた発言権の称揚)、③人材登用(平等主義)、④進歩主義、⑤世界主義を挙げる。驚くことに、筒井氏もまた山内氏と同様に、記念プロジェクトの一例として、お雇い外国人にちなむ外国との交流イベントを挙げている。
 第3回会議(平成28年12月26日)では、内閣官房副長官の野上浩太郎氏が、それまでの検討結果を踏まえ、「『明治150年』関連施策の推進について」を取りまとめたと報告した。
 この政府方針にも王政復古の文字はない。しかも「明治維新」の文字すらない。ただ、「明治以降、近代国民国家への第一歩を踏み出した日本は、この時期において、近代化に向けた歩みを進めることで、国の基本的な形を築き上げていった」(明治以降の歩みを次世代に遺す)、「明治期においては、従前に比べて、出自や身分によらない能力本位の人材登用が行われ、機会の平等が進められた」(明治の精神に学び、更に飛躍する国へ)と述べている。
 そして、山内氏、筒井氏の意見を踏まえる形で、施策の方向性として、「明治期の若者や女性、外国人などの活躍を改めて評価する」ことなどが挙げられた。
 王政復古という維新の本義が封印されたまま、明治維新150年という極めて重要な機会が、グローバル化の推進、女性の社会進出の促進のためだけに利用されることになるのだろうか。

平泉澄先生『明治の源流』結び─感激と気魄は承久・建武の悲劇より

 平泉澄先生は『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)を以下のように結んでいる。
 〈明治維新は、最後にその規模を高揚して、神武天皇建国創業の初めにかへるを目標としたものであつたが、あらゆる苦難を突破して國體の本義を明かにしようとする感激と気魄とは、之を承久・建武の悲劇より汲み来つたのであつた。就中、後醍醐天皇崩御にのぞんでの御遺勅に、
 玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
と仰せられた事は、申すもかしこし、楠木正成が最期に当つて、
 七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや。
と願を立てた、あの剛気不屈、大義を守つて一歩も後へは引かぬ精神に、人々は無上の感動を憂え、不退転の勇気を與へられたのであつた。〉