「『維新と興亜』」カテゴリーアーカイブ

『維新と興亜』第6号紹介動画第四弾

『維新と興亜』第6号紹介動画第四弾
「崎門の先哲、若林強斎先生と尊皇斥覇の学統」(折本龍則)、「柳宗悦『手仕事の日本』他」(小野耕資)、「愛郷心序説 ②」(杉本延博)、展転社前社長・藤本隆之氏からのメッセージ、杉本延博著『国家社会主義とは何か: 「街頭新聞」の思想を読む』(展転社)紹介など。

『維新と興亜』第6号紹介動画第三弾

『維新と興亜』第6号紹介動画第三弾
「特別対談 アジア主義の封印を解く!」(クリストファー・スピルマン×小山俊樹)
〈スピルマン アジアの解放を夢見た満川亀太郎は、蔑視され抑圧されていた世界中の有色人種から目をそらすことはできませんでした。その根底にあるのは、あらゆる不公平や不正義に対する怒りです。満川は子供の頃から貧しい環境で育ち、搾取のない世界を求めるようになったのでしょう。
 アジア人差別に反対するなら、黒人差別にも反対すべきだという考え方です。彼は黒人問題に関心を深め、大正十四(一九二五)年には『黒人問題』を刊行しています。文芸春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏から聞いた話では、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行きました。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったそうです。
 満川は女性問題についても、当時としては先駆的な考え方を持っていました。彼が属していた老壮会には、権藤成卿の妹の権藤誠子が参加していましたし、満川らが設立した猶存社の機関紙『雄叫』には女性の執筆陣もかなり加わっていました。
小山 満川はアジア主義者の中では例外的な存在です。アジア主義者全体が普遍的な価値を発展させたとは、言い難い面があります。ただ、満川のような普遍的な思想の模索は、大東塾の影山正治にも見出すことができます。昭和十一(一九三六)年にエチオピアを併合したイタリアの使節を、国内のアジア主義者が歓待する様子を見て、影山は昭和十三(一九三八)年、「神州日本に一人の義人なきか」「昨日はエチオピアを支援し、今日は満洲国承認と引換にエチオピア侵略を承認す。どこに皇国日本の信義ありや、どこに神国日本の意義ありや」と痛憤しているのです。
 満川や影山は「アジア主義者こそアフリカの植民地・人種問題に目を向けるべきだ」と唱えたのです。これらの主張は、ある種の普遍性を備えた人種差別批判だったと思います〉

『維新と興亜』第6号

『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)

『維新と興亜』第6号

定価660円。本サイトでは600円で購入できます(ペイパル)。
なお、アマゾン富士山マガジンサービスBASE (ベイス) でも購入できます。

《目 次》

◆特集 アジア主義の封印を解く!
対談 アジア主義に普遍的価値観はあったのか(クリストファー・スピルマン×小山俊樹)
祖父・頭山満の教え 「中国にも米国にも一歩も譲るな」(頭山興助)
小笠原省三のアジア主義(上)(菅 浩二)
朝鮮開化派の指導者・金玉均先生
日韓合邦運動の原点─樽井藤吉『大東合邦論』(仲原和孝)


◇日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会(ロマノ・ヴルピッタ×金子宗德×山本直人×荒岩宏奨)

【巻頭言】対米自立を阻む「名誉白人」意識(坪内隆彦)
【時 論】現代版「社稷」を如何に実現するか(折本龍則)
【時 論】政治に巣食う商人を許すな(小野耕資)

中小企業を潰す菅政権 ナショナリズムに基づいた国民経済を!(三橋貴明)
國體護持のための真正護憲論(新無効論) ①(南出喜久治)
情報機関なくして自立なし ① 幻の日本版CIA(福山 隆)
追悼・四宮正貴先生
遺稿 大久保利通の「非義の勅命は勅命に非ず」論(四宮正貴)

愛郷心序説 ② 愛郷心と理想郷(杉本延博)
三島由紀夫『英霊の聲』再読 ②(玉川博己)
藤田東湖と西郷南洲 ③(山崎行太郎)
崎門の先哲、若林強斎先生と尊皇斥覇の学統(折本龍則)
「草とる民」の記 ③(小野寺崇良)

【蔵書紹介】柳宗悦『手仕事の日本』他(小野耕資)
【書 評】 内藤博文『アメリカ歴代大統領の対日戦略』
活動報告
編集後記
『維新と興亜』第6号

小野耕資「政治に巣食う商人を許すな」(『維新と興亜』第6号)

以下、『維新と興亜』第6号に掲載した小野耕資「政治に巣食う商人を許すな」の一部を紹介いたします。
『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)

 日本人の賃金が上がっていないのは、バブル崩壊以降、日本経済が成長を止めてしまったからである。その原因の一つが、公共事業悪玉論により政府が公共投資を控えるようになってしまったからである。偽りの財政危機が宣伝され、消費税は増税され、介護保険など社会保険の自己負担率は上がる一方、企業は政治に圧力をかけ、法人税や所得税などの減税措置を勝ち取ってきた。その結果が今日の惨状である。政府の積極的な公共投資と、国内の貧富の格差を抑制する政策は必須である。国民の将来を見据え、長期的、公共的な目線から国内産業に投資を行っていくことが絶対に必要なのだ。愛国心の面から見ても、格差は国民の一体感を損なう。是正されなければならない。

折本龍則「現代版『社稷』を如何に実現するか」(『維新と興亜』第6号)

以下、『維新と興亜』第6号に掲載した折本龍則「現代版『社稷』を如何に実現するか」の一部を紹介いたします。
『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)
 したがって問題の本質は、近代資本主義による都市化の進行、伝統的社稷の衰退という現実を受け止めた上で、市場経済がもたらす生産性の向上や技術革新といったプラスの成果を活用しつつも、政府が過度な資本主義やグローバル化を規制し、農村の保護や都市住民の土着化を推し進めることによって、如何に地方における伝統的社稷を守り、都市における新たな社稷を創造するかという点に存する。

「日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会」(ロマノ・ヴルピッタ×金子宗德×山本直人×荒岩宏奨、『維新と興亜』第6号)

以下、『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)に掲載した、ロマノ・ヴルピッタ、金子宗德、山本直人、荒岩宏奨の各先生による特別座談会「日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会」の一部を紹介します。

『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)
 いま、我が国はグローバリズムに席捲されている。この局面を打開すべく、新たな日本回帰の波、維新運動の波は果たして訪れるのか。
 その際、重要なカギを握る思潮の一つが、日本浪曼派の思想ではないだろうか。日本浪曼派は、昭和維新運動とも深く関わっていたからだ。その中心人物、保田與重郎は、昭和十(一九三五)年に亀井勝一郎らと『日本浪曼派』を創刊し、民族主義文学を主導した。維新運動に挺身した大東塾の影山正治塾長も保田に親炙している。
 我々はいま、次なる維新運動、日本回帰の波に備えて、日本浪曼派から何を受け継げばいいか。そこで、ロマノ・ヴルピッタ氏(京都産業大学名誉教授)、金子宗德氏(里見日本文化学研究所所長)、山本直人氏(東洋大学非常勤講師)、荒岩宏奨氏(展転社代表取締役)の四名にご出席いただき、座談会を開催した。金子氏の司会により、昭和維新運動と日本浪曼派の共振、「文明開化の論理」との対峙、「イロニーとしての日本」、隠遁詩人として暮らした戦後の保田與重郎などについて議論していただいた。
 本号より、上・中・下に分けて掲載する。
(中略)
■百五十年の間に起こった四回の日本回帰
山本 日本浪曼派のブームについて言えば、日本回帰という現象は明治維新から今日までの約百五十年の間に、少なくとも四回ありました。第一の日本回帰は、明治二十年代に起こりました。これは明治政府が推進した文明開化に対するリアクションとしての日本主義です。第二の日本回帰は、昭和初期です。昭和維新運動は、戦時中の国策やナショナリズムと混同されやすいのですが、もともとモダニズムへの反省としての日本回帰という流れの中にあったのではないかと考えています。日本浪曼派は、この第二の日本回帰において登場しました。
ヴルピッタ 昭和初期の激動の時代を、文明開化による近代化・西洋化の行き過ぎと矛盾に対する文化上・政治上・社会上の反抗として解釈すれば、日本浪曼派はこの反抗の文学上の表現でした。のみならず、日本浪曼派はこの反抗に思想的な基盤を与えました。
山本 その通りですね。
 そして、第三の日本回帰は一九六〇年代です。敗戦後、民主主義的、進歩主義的、革新的な風潮が十年以上続きましたが、一九六〇年安保で一つの区切りを迎えました。その時に、改めて「日本的なものとは何か」ということが問い直されたということだと思います。橋川文三が『日本浪曼派批判序説』を書いたのは、昭和三十年です。それまでは、日本浪曼派は戦争協力者というレッテルを張られてきたわけですが、橋川は批判という形をとりながら、実は、かつての自身の保田與重郎に対する愛情を語っているのです。これは、日本浪曼派のイロニーということを考えると、正しい継承の仕方なんですね。戦後の言語空間の中での日本浪曼派の継承者が橋川だということにもなります。一方、文壇では三島由紀夫や五味康祐が右派の側から日本浪曼派を継承しました。この二つの日本浪曼派継承の流れが昭和の終わりまで続きました。
 第四の日本回帰は、戦後五十年を迎えた平成七年前後だと思います。福田和也さんが平成五年に『日本の家郷』を書き、平成七年に『文学界』で連載「保田與重郎と昭和の御代」を始めたことに象徴されています。
(中略)

■「日本回帰・第五の波」に向けて今何を考えるべきか
金子 第四の日本回帰は、バブルの後に日本人が内省的になり、それまで見過ごされてきた物事を振り返って見ようとした動きでしょう。それ以前の日本回帰にも相通じますね。そろそろ、第五の波が来ても不思議ではありませんが、その気配はないですね。
 安倍政権が長期に及んだり、ネトウヨと呼ばれる人々の存在がクローズアップされたりと、我が国の「右傾化」を云々する向きがありますけれども、日本浪曼派を意識しない「右傾化」などあり得るのか、と私は声を大にして言いたい。
山本 日本人が日本的なものを見失って、二十年ほどの時間が経過しているのでしょうか。
金子 日本人は未だに新自由主義・グローバリズムに振り回されていますね。とは言え、いずれ起こるであろう「日本回帰・第五の波」に向け、今の時点で過去を振り返っておくことは重要です。

「特別対談 アジア主義の封印を解く!」(クリストファー・スピルマン×小山俊樹、『維新と興亜』第6号、令和3年4月号)

以下、『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)に掲載した、クリストファー・スピルマン先生と小山俊樹先生による特別対談「アジア主義の封印を解く!」の一部を紹介します。この対談によって、アジア主義者の中にも、普遍的価値観を唱えた人がいたことが明らかにされました。

『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)

 戦後、GHQはアジア主義を危険思想として封印した。例えば、松岡洋右が昭和十六年に書いた『興亜の大業』はGHQによって焚書され、長らく封印されてきた(昨年復刻)。これらのアジア主義の主張には、連合国の正義を揺るがしかねないものが含まれていたからだ。
 アジア主義はまず左派によって断罪され、やがて親米派によって再び危険視されるようになった。例えばマハティール首相(当時)が提唱した東アジア経済協議体構想が日本国内で議論されていた時期、野田宣雄氏が「危険なアジア主義の台頭」(平成七年一月)を、屋山太郎氏が「時代認識を欠くアジア主義」(同年三月)を書いている。
 果たしてアジア主義は危険思想なのか。そこに見るべき価値はないのか。クリストファー・スピルマン氏(映画『戦場のピアニスト』のモデル・原作者ウワディスワフ・シュピルマン氏の子息)と小山俊樹氏に対談していただいた。
 満川亀太郎研究のパイオニアとして知られるスピルマン氏は、アジア主義研究の発展に大きな貢献をしてきた。また、ドイツ人研究者のスヴェン・サーラ氏とともにアジア主義思想についての英文論文兼史料集の編集にも尽力してきた。一方、昨年『五・一五事件』(中公新書)でサントリー文芸賞を受賞した小山氏は、日本近現代史の研究を牽引している。
 二人の議論から見えてくるアジア主義の真実とは。
(中略)

■満川亀太郎が説いた人種平等という普遍的価値
── 竹内好はアジア主義自体には思想がないと断じました。アジア主義には普遍的な思想はなかったのでしょうか。
小山 アジア主義者には、人種平等を主張した満川亀太郎のようなケースもあります。アジア主義にも普遍的価値観を志向する動きは確かにあったと思います。
スピルマン アジアの解放を夢見た満川は、蔑視され抑圧されていた世界中の有色人種から目をそらすことはできませんでした。その根底にあるのは、あらゆる不公平や不正義に対する怒りです。満川は子供の頃から貧しい環境で育ち、搾取のない世界を求めるようになったのでしょう。
 アジア人差別に反対するなら、黒人差別にも反対すべきだという考え方です。彼は黒人問題に関心を深め、大正十四(一九二五)年には『黒人問題』を刊行しています。文芸春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏から聞いた話では、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行きました。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったそうです。
 満川は女性問題についても、当時としては先駆的な考え方を持っていました。彼が属していた老壮会には、権藤成卿の妹の権藤誠子が参加していましたし、満川らが設立した猶存社の機関紙『雄叫』には女性の執筆陣もかなり加わっていました。
小山 満川はアジア主義者の中では例外的な存在です。アジア主義者全体が普遍的な価値を発展させたとは、言い難い面があります。ただ、満川のような普遍的な思想の模索は、大東塾の影山正治にも見出すことができます。昭和十一(一九三六)年にエチオピアを併合したイタリアの使節を、国内のアジア主義者が歓待する様子を見て、影山は昭和十三(一九三八)年、「神州日本に一人の義人なきか」「昨日はエチオピアを支援し、今日は満洲国承認と引換にエチオピア侵略を承認す。どこに皇国日本の信義ありや、どこに神国日本の意義ありや」と痛憤しているのです。
 満川や影山は「アジア主義者こそアフリカの植民地・人種問題に目を向けるべきだ」と唱えたのです。これらの主張は、ある種の普遍性を備えた人種差別批判だったと思います。