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伝統と信仰 第六章 武士道と信仰

第六章 武士道と信仰

 儒学の中にも諸派あるが、日本人にとっての儒学として大きく二つに分けるとすれば朱子学と陽明学となるだろう。そしてこの朱子学、陽明学という考えは日本の信仰と結合し「武士道」とか「水戸学」とか言う考えとなったという点で避けては通れないのである。
 日本最初の陽明学としてときに言われる人物は中江藤樹である。藤樹は母を介護するために藩の職も辞した。「孝」をただ観念でとらえるのではなく己のものとして実践したのだ。藤樹は私塾を開いて生計をたて、「近江聖人」と呼ばれた。藤樹が教えを講じてからその街には犯罪がなくなったなどという伝説もある。
陽明学と朱子学の大きな違いは「理」は心の外にある(=朱子学)か内にある(=陽明学)かということだ。理とは己の良心であるという陽明学とは己の良心の実践に関心が向いたのである。
 陽明学徒は自分を「陽明学」とくくられることを嫌うという。自分はあくまで正しい道の実践に勤めているのであり、特定の学派に所属しているのではない、というわけである。そのため陽明学徒は正義漢ではあるが一匹狼的な人間が多い。
 江戸時代に現れた他の陽明学徒としては佐藤一斎があげられる。佐藤一斎は『言志四録』の著者として有名である。佐藤一斎は幕府の儒者だったので体面上は朱子学であったが陽明学に同情的だったと言われる。その佐藤の弟子が大塩中斎(平八郎)であり佐藤の本を愛読していたのが西郷隆盛であった。『日本外史』を書いた頼山陽も陽明学の影響を受けた人物に数えられるだろう。
 しかし陽明学が学者のみならず向学心あふれる人間に開かれたのはむしろ明治時代である。王陽明の『伝習録』は東洋趣味の知識人にとって読むべき文献の一つになった。そんな王陽明の評伝『王陽明』を書いたのは三宅雪嶺である。そしてその序文を書いたのは陸羯南であった。この二人はある時期の東洋趣味の知識階級の精神的指導者的な趣があった。
 そんな陽明学は明治以後むしろ「武士道」として唱えられることが多かった。

 武士道という言葉には毀誉褒貶が付きまとっているようにも思う。武士道の心が大事だと語られてみたり武士道は近代の産物に過ぎないと言われてみたりと、ある意味ではその論じられ方の多様さが武士道は一様に測れるものではないことを示しているようにも思える。その中でもよく聞かれるのが、「実際に戦闘をしていた武士は、武士道が顕彰するような正々堂々とした闘いをしなかったし、騙し打ちがむしろほめられたのだ」というものだ。命のやり取りをしているのだからそうなるのが当然だろう、と私も思う。しかしこの議論には読んでいて面白みもなければそれ以上の深まりも感じない。私が興味をひかれるのは武士が消滅した明治以降に武士道はなぜ爆発的に流行したのか、ということである。その根本的な原因は突き止められなくともその外縁だけでもつかめたら、と考えている。
 武士道と言ってもその内容は論客によりさまざまであり、またその起源もそれぞれである。考えられる起源としては中世末の武士道と、江戸時代の儒学的な武士道、そして明治の武士道の三者である。だがこれらは微妙に関連しあい、そして食い違ってもいる複雑なものになっている。
 中世の武士道は論理道徳というよりもむしろ戦闘技術面の要素が強かった。「弓馬の道」はいかにして敵を倒すか、ということに集約されていた。しかし一方で平家物語で那須与一が扇の的を射たのは有名だが、そのあと与一をたたえて踊りだした平家側の男も(義経の命で)与一は射殺している。それにより平家は興ざめするのだが、あえてこの話を挿入するあたりは筆者に武士の倫理意識のなさを嘆く心があったようにも思われる。また、木曽義仲の最期に現れる美意識など、武士の溌溂とした美意識は軍記物の中に数多く見られる。名を惜しむ武士の原初的な倫理意識のほうがのようなものが垣間見える。
 「武士道」という言葉自体は基本的に江戸時代に登場する。その初例は武田氏の活躍を描いた『甲陽軍艦』だと言われる。その後『葉隠』など有名な武士道本も出るわけだが、江戸時代に武士が官僚化するにつれて、実技的なものとともに武士の誇りといった精神的なものも重んじられるにいたった。実際の戦闘経験はなくとも精神を練磨しているから武士だというわけである。先に紹介した平家物語もそうだが、武士道が倫理性を獲得するのは太平の時代である。血なまぐさい戦闘から遠ざかると倫理性を要求するという構図は変わらない。思えば鎌倉時代に成立した御成敗式目の中に神仏を敬うようにという条文が書かれたのも平穏な時代になったからである。いつの時代も戦乱を離れると武士は倫理性を希求したのだ。それが時代が下るにつれて徐々に形になっていく。
 「武士道は近代の産物」などという見解にはこれしきも惹かれるものがないと書いたが、「近代」などという時代区分を勝手に用意しておいてその時代を前時代から隔離するような手法は本質的に言って歴史ではない。むしろそうした議論は現代の想像の産物にすぎぬと言ったほうがよかろう。

 話を戻して儒的な武士道の開祖は山鹿素行であろう。山鹿素行は赤穂浪士の大石内蔵助の師でもある。山鹿素行の武士道はたいてい「士道」と呼ばれ、(支那では士農工商の士とは士大夫、つまり官僚であることを踏まえ)倫理的統治者としての武士を描いた最初である。山鹿素行など江戸期の儒者により武士は戦闘者から儒的な「士」になっていくのである。ただし複雑なのは、士大夫を目指したからと言ってそれが即支那化にはつながらなかったことだ。彼らは儒を信じても支那に何もかも習うような愚は犯さなかったからだ。したがって彼らが目指す士大夫像もどこか日本的な土着の香りがする。武士は主君に仕え民を導き民のために世を治める存在となったのである。逆にいえば社会が行き詰ったとき世のため人のため立ち上がるのが武士のあるべき姿となったのである。水戸学や吉田松陰の思想などはその典型であろう。ちなみに吉田松陰は山鹿流の兵学を修めた人である。
 ここに戦国までの武士道が儒学、特に陽明学と溶け合っていく様子がうかがえる。だが、陽明学、武士道は江戸時代まではまだ一部の先覚が唱えているにすぎなかった。流行したのは明治時代である。山岡鉄舟、内村鑑三、乃木希典、陸羯南、新渡戸稲造。この何の脈絡もなさそうな五人に共通することは全員武士道を重んじたことである。ちなみに晩年の福沢諭吉も武士道を見直す旨を述べたことがある。これら武士道論者は基本的に国学者のような儒仏の排斥、神道のみの顕彰とはならなかった。むしろ儒、仏、神、などは東洋思想であり西洋文明に対抗するものとしてとらえられたのである。それは単純な弱肉強食社会への批判にもつながり、国外では西洋帝国主義への反発に、国内では安易な資本主義の論理の跋扈への反発となったのである。
さて、内村鑑三や新渡戸稲造は耶蘇教信者である。意外にも明治の世では活躍した人間に耶蘇教徒が多い。内村、新渡戸とともに当時有名な耶蘇教徒であった植村正久は言う。「社会をして武士道の昔に帰らしめよ。否むしろ吾輩が欲する所の者は洗礼を受けたる武士道なり」と。耶蘇と武士道は表裏一体なところがあったのである。

 今となってはなかなか想像しがたいが、明治の人々にとって耶蘇と武士道と社会主義はすべて相互に似通ったものとして受け取られた。これらの全部もしくは二つを同時に信奉した人物は多かったのである。
文明開化と言われたが日本が事実上大衆生活まで西洋化したのは大正時代であり、明治のころはせいぜい髷を切ったことと牛鍋が始まったこと、ガス灯が設置されたことくらいしか変わっていない、と言ったら大げさだろうが、少なくとも庶民の生活が激変したというほどではなかった。思想においても同様で、西洋思想は日本の既存の思想において読み替えられることが多かったのである。
 耶蘇は規律と博愛の宗教として迎えられた。江戸生まれの明治人にとって「文明」はあまりにも倫理意識に欠けるものとして映った。放縦と堕落がはびこり嫌悪感を催すものであった。かといって前時代にもはや後戻りするわけにもいかなかったのである。その時彼らの目に映ったのは耶蘇教であった。寺社は江戸幕府の支配の中で完全に官僚組織化しており、一部を除き信仰の場として機能していなかった。彼らは失った倫理意識を耶蘇の信仰の中に求めたのであった。内村鑑三は「陽明学は耶蘇に似ている」と述べている。むしろ内村らの耶蘇信仰は武士道へのあこがれに近かった。だからこそ内村は既存の教会に満足できず、無教会派になったのである。逆にいえば耶蘇の実態が知れてしまえば耶蘇もまた武士道の対案になりえないことが露見してしまう。徳富蘇峰は耶蘇教徒であったが後に耶蘇を捨てている。
 そして社会主義もまた国民への博愛の情として理解されたのであり、革命思想としては理解されなかった。社会主義もしくは共産主義が「階級闘争」と「プロレタリアート独裁」の思想になるのは明治末から大正時代にかけてである。それまでは社会主義とは博愛、現代でいえば福祉を重んじるというくらいに受け取られたのである。孟子の王は人民を第一とするという文脈で社会主義は理解された。幸徳秋水をはじめ初期社会主義者はみな耶蘇(木下尚江、安部磯雄)か孟子の信奉者(幸徳秋水、堺利彦、河上肇)であった。武士道もまた強者の弱者への横暴を嫌いむしろ弱者へのいつくしみをたたえる思想であった。社会主義は唯物主義とも言われるように、西洋では耶蘇の信仰と相性が悪いのだが、明治日本においてはそうはならなかったのである。
比較的社会主義、共産主義を西洋的に正しく理解していたのは晩年の幸徳秋水である。明治中期の幸徳はむしろ田中正造の明治天皇への直訴文の執筆をしたり、反皇室主義者ですらなかった。彼らの理想は孟子であり、仁徳天皇の統治であった。

 新渡戸稲造はその著『武士道』を著した動機をベルギーでの法学者との対話であったと述べている。その法学者に日本に宗教教育がないことを指摘され、宗教教育がないにもかかわらずどうやって道徳教育を行っているのか、と聞かれたのだ。
 新渡戸は日本の道徳教育の由来を武士道に求めた。その著『武士道』の構成は、武士道とは何か、という説明の後「義」や「仁」など儒的概念の解説となっている。ここでは武士道とは日本的儒学のことだということはほぼ自明のこととして通り過ぎられている。
 新渡戸は武士道を「日本の土壌に固有の華」であるとしている。日本的儒学の結晶でありながら支那思想の影響を少なく評価していると言える。孔子や禅の影響を新渡戸は認めてはいるが意外なほどあっさりと過ぎ去っていて、頁を割いていない。むしろ新渡戸の関心は欧州の騎士道との対比であった。『武士道』が英語で書かれて欧米の読者を対象とした読み物であることを思えばそれは別段驚くに足らない事であろう。欧州と日本はともに封建制をへた類似した国であると語られるのである。ある意味ではそれは欧州の侵略に対する祖国防衛の意味すらもっていた。
 新渡戸は「西洋の読者諸兄は、王陽明の著作の中に『新約聖書』と多くの点で似たところがあることに気がつかれるだろう」とすら書いている(『武士道』奈良本辰也訳、三笠書房版29頁)。やはり新渡戸にとっても耶蘇教徒は陽明学であり、武士道であった。新渡戸の『武士道』は無論武士道について書いた本なのだがその実武士道として語られていることは新渡戸自身の思想(耶蘇)でもあるのだ。新渡戸は耶蘇に武士道の面影と理想主義を見ていた。
 ちなみに新渡戸の著作を明らかに意識しているのはルース・ベネディクトの『菊と刀』である。新渡戸が提出した義務と義理の関係に異常にこだわっているのもその証左の一つと言える。だがその意図として新渡戸は日本と西洋は似通っていると言いたかったのに対しベネディクトはむしろ日米を対極の風土としてみなそうとした。
 日清日露戦争後日本は武士道が大流行した。武士道はある意味では堕落した近代化の時代において精神の緊張をもたらすものであり、それは耶蘇などの信仰の道と結びついた。もう一方で武士道は日本が世界に冠たる国となる所以だった。日本人には武士道があるからこそ日清日露の大戦役に勝ち抜くことができたのだとされた。そして武士道は時に西洋と東洋との微妙な関係を暗示的に示す標語ともなった。ときに武士道は西洋の騎士道の類型として語られたり、東洋思想(仏、儒)の精華でもあった。西洋になりきれず、かと言って東洋とともに植民地にされる立場になるわけにもいかず、中途半端にならざるを得ない当時日本の思想状況の中で微妙に揺れ動きながら語られ続けたと言える。
 大正時代になると武士道は忘れられて行く。 
 大正時代になっても明治の構図は生きており、たとえば熱心な耶蘇教徒であった吉野作造はその民本主義を徐々に強者と弱者の関係から説き起こすマルクス主義に近いものに変更させていった。だから吉野の弟子はみな戦前戦後を担った社会主義者となるのである。だが基本的に大正ごろより近代的考えの下熱心な信仰ということは重きを置かれなくなってきた。ただし日本においてそれが決定的になるのは戦後である。
 大正時代には各種の哲学書などを読むことが流行し教養主義の時代となった。その教養主義の流行は同時に近代に対する懐疑をも招くことになった。大正から昭和にかけていわゆる右左ともに様々な論客が登場するが彼らはみな大正教養主義を肯定なり否定なりしながら誕生したのである。
 対外的危機も相まってか、この時代には日蓮宗がはやっている。北一輝や石原莞爾、板垣征四郎や宮沢賢治、妹尾義郎など活躍した人物で日蓮宗の信徒は多い。必ずしも国家主義とは限らず、これらの人物に共通するのは安直な近代的合理主義を嫌ったということである。また神道や武士道の復活などが唱えられることも多かった。こちらは平泉澄などがその担い手となっている。

 昭和十五年、大東亜戦争中に河合栄治郎は次のように述べている。
 「大局を達観する洞察の明、大事を貫徹せずんば止まない執拗な意志、自己の持場を命を賭して守る誠実と真剣さ、小異を捨てて大同に附く和衷協同の心、何よりも打てば響く情熱、之こそが今日の、否将来の、祖国の難局を克服し得る精神的条件でなければならない。我々の祖先は武士道の名に於て、自己の進退を決する規準を所有していた。日本精神の叫ばれる今日、武士道の精神は地に塗れていはしないか。一言にして云えば、今日の日本には精神的弛緩がある」(『学生に与う』、南丘喜八郎『赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ』12頁からの孫引き)。ここでも武士道は、「自己の進退を決する規準」として、「我々の祖先」が持っていたものとして捉えられている。

 話を幸徳秋水に戻そう。幸徳は大逆事件を起して処刑されるわけだが、大逆事件とは管野すがらが明治天皇を暗殺しようと企てて事前に発覚し逮捕され死刑になった事件である。管野すがは幸徳秋水の愛人であり、したがって当時の社会主義者の中でも大物だった幸徳秋水も関与していたのではないかとして連座され、共に死刑となった事件である。現在では幸徳は無関係であったという説がほとんどである。
 管野すがは最初海軍軍人の妻となるがうまくいかず、後に同じく有名な社会主義者であった荒畑寒村の愛人となる。ただしこの関係は管野すがが年上であり、当時としては珍しい男女関係であった。その後荒畑寒村が赤旗事件で入獄している間に幸徳と親しくなりいつの間にか幸徳の愛人となっていたようである。既成道徳に反対する立場である社会主義者にはこのような男女関係のもつれも時に見られる事態ではあった。ただし幸徳はこれにより社会主義の仲間からも不興を買った、とも言われる。この辺り大杉栄と伊藤野枝の関係も、同志から不興を買って窮地に陥るなど、共通点が見られて面白い。
 さて幸徳は孟子や陽明学を信じる儒学徒でもあった。幸徳は師の中江兆民から革命の哲学を学んだが、一方で孟子や陽明学、そしてその背後にある武士道から己の義とするもののためなら命を捨てても構わないという情熱を身につけていた。社会主義や無政府主義の活動はその実践に他ならなかった。
 明治時代にも陽明学に対して、向う見ずに突っ走る傾向にある、という批判はあった。大逆事件の後には特にそれがささやかれることになった。陽明学は社会主義の元ではないか、とささやかれることになったのである。もちろん穏健な陽明学徒はそれを正す必要に迫られたのは言うまでもない。だが陽明学は反藩閥政府感情などとも結びついて社会主義かそうでないかなどというような単純な議論でははかれなくなっていた。なぜなら尊皇思想を生んだ水戸学もまた儒学の強い影響下にあったからである。当時の陽明学会は大逆事件の翌年に水戸学に大きな影響を与えた朱舜水の碑の建立に尽力している。それは非尊皇の疑いを払拭する予防線でもありながら、幸徳の行動もまた陽明学であり、碑の建立もまた陽明学であるという陽明学の(何か固定した哲学というよりも)己の義の心に従うという多様性が生んだものでもあったのだ。この大逆事件はさまざまなところで尾を引いており、後述の南北朝正閏論争の他に上杉慎吉と美濃部達吉の天皇機関説論争の火種となる対立もこれがきっかけである。
 また幸徳は大逆事件の取り調べの中ですさまじい言葉を吐いたということが世間にまで漏れ聞こえることとなった。「いまの天子は南朝から三種の神器を奪い取った北朝の子孫ではないか」と言うのである。これに呼応して当時の日本では南北朝正閏論争が起こることになった。南朝と北朝どちらが正統なのか。南朝だと言えば幸徳らの行動を認めることにもなりかねず、北朝である現皇室も危うい。しかし北朝が正統だと言えば水戸学以来の尊皇思想の根拠を失うのである。「南朝が正統である」という立場から論陣を張った者としては儒学系の社会主義者の他には三宅雪嶺などがいる。三宅は国粋主義者として陸羯南などとも行動していたが社会主義者とも親しく幸徳秋水の『基督抹殺論』では序文も書いている。これは単純な南朝と北朝どちらが正しいかという論争だけでなく、大逆事件の意趣返し、そしてさらには藩閥(薩長)かそれ以外かといった明治維新までの日本のひずみをすべて抱え込むような問題となっていた。結局論争自体は沈静化したが、明治以来の宿痾とそれに伴う「国体」の奪い合いは敗戦までさまざまな形で表れることになった。私は、日本人はもっと尊皇的であるべきだと思うが、結局戦前も尊皇を叫ぶ時、それを取り巻くさまざまな政治状況や地縁血縁から離脱して単純に陛下への敬愛の情を語ることはほとんどできなかったのである。さらには尊皇思想が江戸期において外来の朱子学的思想に取り込まれがちだったことはその「尊皇」という言葉に秘められた問題の根をさらに深くしている。

(続く)

伝統と信仰 第五章 内村鑑三と耶蘇教、武士道

 第五章 内村鑑三と耶蘇教、武士道

 今まではほぼ時系列的に日本人の信仰を見てきたわけだが、ここからは題目に沿って日本人の信仰を考えていきたい。今までも断片的に江戸時代、戦前期の信仰の動きについても触れてきたわけだが、今後は明治時代から戦前昭和にかけての日本人の信仰が中心となる。本稿は日本の宗教史を概説的に振り返るのが目的ではない。あくまで日本人にとっての伝統、そして信仰とは何かを追究する試みである。

 一つ本稿の結論を先取りしたようなことを述べると、現代は伝統と信仰が大きく欠落した時代である。人々は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、大いなる大望を抱くことを忘れている。日本人の、そして人類の精神の救済は後回しにされている。
 だが、だからこそと言ってよいが、現代は伝統と信仰の時代なのである。伝統と信仰が欠落しているのに伝統と信仰の時代とはどういうことだ、と人は問うかもしれない。だが、伝統や信仰が著しく退潮しているからこそ、村の有力者が言っているからとか、そういう世俗的理由にさいなまれず、真摯に伝統と信仰について追究することが可能になるのである。
 人は、いつも「今ここにない何か」を求めて彷徨うものである。現代という道徳的荒廃の時代に生まれ落ちたとき、果たして真実なるものとは何か、信ずべきものはあるのか、利害関係を超えた価値はあるのか、という問いが自然と湧き上がってくる。その時に、伝統と信仰の種がその人の心に植えつけられるのである。あとはそれが芽吹いて大きく育つのを待つだけである。

 明治時代も、現代と同じく道徳的荒廃の時代であった。古き者は安直に忘れ去られ、文明開化、富国強兵、殖産興業の軽薄な、しかし帝国主義の中で生き残ることに必死な悲痛な言葉が、世に満ち溢れていた。そんな中で、耶蘇は儒学に代わり日本人の道徳を作る指針として受け入れられたのであった。したがって明治時代の耶蘇教とは儒学に大いに影響を受けている者が多いし、その耶蘇教理論は耶蘇を語っているようで儒学を語っているかのような響きさえ感じることがある。内村鑑三も、その一人であった。もっとも内村は、耶蘇教徒らしく儒教や仏教を批判している。内村が耶蘇に託したのは武士道の美学であった。内村は耶蘇を通して武士道を語る思想家であった。

 桶谷秀昭は、内村鑑三は耶蘇教を信じたことを後悔したに違いないと書く(『天心 鑑三 荷風』105頁)。内村は農学を学ぶために札幌農学校に入ったが、札幌農学校ではクラークが作った制約によりキリスト教に改宗されてしまったのだ。キリスト教に改心されしまった自分を元に戻すことはできない。私生活の失敗もあり、何かもうまくいかないまま、内村はすべてを捨ててアメリカに渡る。そこで見たものは、アメリカで見た人種差別の光景である。内村はこれを「アメリカはキリスト教的でない」と憤り、「おお、天よ、余は破れた! 余は欺かれた! 余は平和ならざるもののために真に平和なるものを捨てたのである! 余の旧い信仰に立ち帰るには余は今余りに生長し過ぎている、余の新しい信仰に黙従することは不可能である。おお、祝福された無知が慕わしい!」と叫ぶのである(『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫版124頁)。
 この悲劇的な欺かれたという叫びは、内村の信仰に対する叫びであると同時に、明治の「文明開化」に対する日本の対応とも交錯している。この何重にも屈折した心情は、生き残るために西洋文明への「改宗」を余儀なくされた日本の姿でもある。それは物質文明への反感として、いつまでも日本人の心を拘束するものであった。

 この章は内村の名前を冠してはいるが内村そのものについて論じるというよりは、今後の章にて行われる論理展開のある種の予告である。したがっていくつか内村の言葉を並べることで終わりとしたい。

 「長くつづいた日本の鎖国を非難することは、まことに浅薄な考えであります。日本に鎖国を命じたのは最高の智者であり、日本は、さいわいにも、その命にしたがいました。それは、世界にとっても良いことでした。今も変わらず良いことであります。世界から隔絶されていることは、必ずしもその国にとって不幸ではありません」(『代表的日本人』岩波文庫版13頁)

 「封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです」(同53頁)

 「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。(中略)「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう」(同67頁)

 「武士道もしくは日本の道徳は、キリスト教そのものよりも高くて優れている、したがって、それで十分だなどと思い込んではなりません。武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その価値は、スパルタの道徳またはストア派の信仰と同じものです」(同182頁)

 「(引用者註:木を植える大切さを力説した後で)しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります」(『後世の最大遺物 デンマルク国の話』岩波文庫版85頁)

 「人のためと言えば、多くは彼の衣食の道を立てることを言い、国のためと言えば、多くは富国強兵を称う。しかしながら人は必ずしも衣食足りて礼節を知る者ではなく、国は必ずしも富と兵との上に立つものでない」(『内村鑑三小選集 愛国心をめぐって』12頁)

 「私をして非戦論者とならしめし第三の動力は、過去十年間の世界史であります。日清戦争の結果は、私にツクヅクと、戦争の害あって利のないことを教えました。その目的たる朝鮮の独立はかえって危うくせられ、戦勝国たる日本の道徳は非常に腐敗し、敵国を征服し得しも、故古川市兵衛氏のごとき国内の荒乱者は少しもこれを制御することができずなりました」(同40頁)

 内村の無教会主義を受け継ぐ者の中には、今日では左翼思想を抱く者もいるようだが、内村自身は一時代を築いた思想家にみな共通するように、あらゆる立場を包含する複雑さを持っていた。内村には強い日本への愛着と、武士道への誇り、自然と国民精神への信頼があった。そしてそれが必ずしも政府や富、利益と結びつくとは限らなかったことを知っていたのである。

(続く)

伝統と信仰 第四章 日本人と耶蘇

 第四章 日本人と耶蘇

 死の恐怖の克服を目指さない思想は思想の名に値しない。人類はその生活を豊かにしてきたが、人生の苦しみの総量を減らすことはできなかった。金銭や物量では人生の煩悶を克服できない。昔の人より今の人のほうが幸せだなどという思い上がりはしない方がよい。

 生老病死は我々を日々襲い続ける。耶蘇もそうだが、信仰とはそうした生きる苦痛に向き合うものである。では、信仰を持てば、生きる苦痛は和らぐのだろうか。もちろんそうではない。信仰は生きる苦痛を和らげるといった、功利的なところには存在しない。生きる苦痛に直面したときに、自然と人為を超えた「何か」を感ぜずにはいられなくなる。そこにこそ信仰は宿るのである。
 正岡子規は、死ぬ方がはるかに楽だと思えるほどの激痛の生活の中で、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」という言葉を残した。それは、「平気で生きて居る」ことがいかに難しいかを、逆説的に示している。

 日本における耶蘇の歴史は、ある時期まで迫害と無理解の連続であった。果たしてその時の耶蘇教徒は、生きる苦しみは生老病死に限らないと思っただろうか。迫害と無理解の中でも、「平気で生きて」いたのだろうか。

 日本に耶蘇教が流入したのは室町時代である。有名なフランシスコ・ザビエルがもたらしたという。もちろんこれは偶然などではなく世界史的な意味があった。
 欧州は当時宗教改革のさなかであり、腐敗したカトリック教会に対する不満、批判が高まっていた。カトリックのほうもその不満をもっともなものと認識しており、なんとかして改革する必要を感じていた。そこに宗教改革があり、強い抗議(=プロテスタント=「抗議する人」の意味)を受けた結果それを引き金としてカトリックのほうも本格的な信仰改革に乗り出した。そんな情勢の中でつくられたのがザビエルもいた「イエズス会」である。つまりザビエルは強烈なカトリックの闘士であり、何とかして海外に信徒を増やすことを使命としていた。
 ザビエルは東亜各国を訪れたあと東南アジアで日本人とであったことにより日本に興味を持ち、来日する。鹿児島、京都、山口などを訪れ、再びインドや支那に布教するために日本を発っている。
 ザビエルののちも次々と後進が来日し日本人に耶蘇を伝えた。日本でも仏教界は信仰というより寺社領や商売の場所貸しなどで巨利を得て世俗的な勢力になっている場合が多く耶蘇教はそれなりの信徒を得た。海外との貿易のため積極的に耶蘇を受容するよう勧める大名もあった。そんな中で四人の少年が逆に日本から欧州に渡るということがあった。天正少年使節である。彼らは耶蘇の教養を身に着け、耶蘇教神父(無論外人)が作った耶蘇教教育施設で学んだ人たちであった。

 欧州につくと彼等は東洋から来た珍しい少年ということで注目の的になった。欧州人は彼らに自国の文明や耶蘇教文化を誇って見せたが彼らにとっては日本で教育を受けているので驚くに値しなかっただろう。彼らは日本で学んだ耶蘇教教育の成果を見せ当時の欧州人を驚嘆させた。そして東洋文化への強い関心が惹起されたのであった。それらは東洋趣味(「オリエンタリズム」)に過ぎないとはいえ東洋趣味が流行となったのはひとえに彼らの成果と言えよう。さてこの時代西洋の文物も耶蘇教を通して日本に伝わっている。印刷術などもそのひとつである。『平家物語』なども活字化されている。貿易も盛んであった。ただし後述するが貿易はのちにプロテスタントであるオランダ人が優勢に立つことになる。
 さて時の権力者豊臣秀吉と同世代の人物に、フェリペ二世がいた。このフェリペ二世は熱心なカトリックの信徒であった。カトリック側の改革及び東洋への布教は当然カトリック信徒の世俗君主の東洋への領土的関心とも結びついた。フェリペ二世の頃スペインは最盛期であり「太陽の沈まぬ帝国」とさえ呼ばれていた。秀吉の「唐入り」はスペインの東洋進出への対抗処置であったとも言われるが実際のところ動機は未だに不明である。が、いずれにしても唐入りの頃より秀吉は耶蘇教に警戒心を持ち、弾圧の方向に政策転換し始める。そのきっかけと言われるのがサン・フェリペ号事件であり、それはスペイン船である。
 秀吉から徳川家康の治世になってもしばらくは耶蘇教には警戒するが貿易は歓迎するという対応が続いた。その結果信仰の問題と貿易の問題を分けて考えるプロテスタントのほうがむしろ家康などに重宝される結果となった。またスペインは急速に力を失いつつあり、日本での貿易合戦はイギリスとオランダの両プロテスタント(イギリスは国教会である。日本人は国教会をカトリックとプロテスタントの中間ととらえることが多いが熱心なカトリックに言わせればプロテスタントということになるようだ)の争いとなった。最終的にオランダが勝利し、また江戸幕府の禁教令とも相まって日本との貿易は以後(西洋の中では)オランダが独占することになる。

 江戸幕府により耶蘇は禁制とされた。聖書やマリア像は無論西洋楽器を持っているだけでも火あぶり磔の対象となった。棄教する者も多かったが、信仰心篤き日本人はむしろ潜伏することにより己の信仰を保ったのであった。それは村ぐるみで行われたりもした。個人単位では密告等ですぐにばれてしまうからである。
 長崎には現在でもその「かくれキリシタン」の後継が残っているという。彼らの信仰は変わっているようにも見える。家には神棚か仏壇が必ず置いてある。ところがその奥の誰にも見つからないところに「キリスト像」などを隠し持ち、それを拝んでいる。「納戸神様」などとも呼ばれるようだ。そこで彼らは祈りの言葉を唱え先祖を祀るのである。この祈りの言葉を「オラショ」という。オラショはまだ耶蘇が禁制とされないころ伝え聞いたラテン語の祈りの言葉が長い年月によりなまったものである。それは歌のようでもあり、お経のようでもある。私は機会あってそのオラショの録音されたものを聞いたことがある。お経のようでありお経のようでない不思議な音を奏でていた。そこには西洋の香りなどみじんもせず完全に日本化されていたのである。しかしその節回しの起源は西洋の聖歌にあるようである。それが長い年月を経て徐々に日本化されていったのである。もはやそれは神道とも仏教とも耶蘇とも言い難い「何か」になっていると言える。楽器も本もダメとなると、人々は声で信仰を語り継いだ。口と脳と心まではいかなる政治も干渉できない。歌のようでもあり、お経のようでもあるオラショは人々に語り継がれる中で純粋な耶蘇とは違う何かとなり、人々はその日本的な「何か」を信じたのであった。明治になり耶蘇への弾圧がとけた後に西洋流のカトリックに入信しなおす者もいたが、今まで通りオラショを語り継ぐ者たちも多かった。おかげで現代の我われもオラショを耳にできるのである。ある意味では本場の耶蘇を拒絶し、土俗化した信仰を選びとったと言えるのかもしれない。最初は弾圧を逃れるための方便だった行動がいつしか信仰そのものとなっていったのである。
 
 不干斎ハビヤンという人名すら読者は初めて目にする名前かもしれない。不干斎ハビヤンは永禄八(西暦一五六五)年の生まれなので若干時代が戻ることになる。ハビヤンは無論日本人であり、最初禅僧であったが耶蘇に改宗、ハビヤンという洗礼名で活動後、耶蘇を捨てている。戦後日本においての不干斎ハビヤンの紹介者と言えば山本七平である。氏の『日本教徒』はそのほとんどが不干斎ハビヤンに関する記述で占められている。なぜ山本がハビヤンに注目したかと言えば彼は仏教を捨て、耶蘇を捨て、神道も儒も(事実上)捨てているからだ。既存の(そして外来の)信仰をすべて捨てた後にハビヤンは何を信じたのか。そこに山本の問いがある。山本はしつこいほどにハビヤンの考えを探っているが、それは山本の著書に委ねて、ここではハビヤンが結局日本的自然法ともいうべき自然秩序に身を委ねたことに着目したい。
 ハビヤンは数々の信仰を渡り歩いた。だが彼は外側は変わろうとも内面が大きく変わったわけではない。彼は常に日本の自然法の擁護者であり、各信仰がそれらに違反していると批判していた。ハビヤンの場合それは受恩の義務を果たすことにあったが、より根本的には自覚的に世の中を構想したりする主義の否定とも言える。天地の秩序、自然の教えに逆らわずに生きることこそが正しい生き方と信じた。
 それにしても若干気になるのが日本における信仰の問題に着目した人間が必ず大なり小なり耶蘇との関連がある人物だということである。日本人は何を信じているのか。そういう問いを心に抱く人間が耶蘇と関連しているのは耶蘇が本質的に一神教という日本社会ではなじまない信仰形態だからであろう。自分が異端であり少雨者であることを知ったとき人は多数派の信仰に興味を持つのである。山本七平にしろ、内村鑑三にしろ、遠藤周作にしろ、芥川龍之介にしろ、今後登場する予定である山路愛山や新渡戸稲造もみな耶蘇と関連があった。多神教的で簡単に共存を許してしまう文化は逆に信仰の問題をあまり深く考えない風土とも直結してしまうのだろうか。

 耶蘇などが持つ、明確な教義と教会組織は、明治時代以降の日本人の宗教観にある種の劣等感を植え付けている部分がある。私自身それから逃れきれているか自信がないほどである。生活の中で習慣、風俗となって息づいている信仰は、どこか宗教ではない、あるいは未熟な信仰であるかのように考えてしまう部分は、なかなか拭いづらい。教典のない信仰は説明するのが難しいからであろうか。

(続く)

伝統と信仰 第三章 伝統と仏教、儒教

第三章 伝統と仏教、儒教

 戦前と戦後を大きく隔てるものに信仰がある。戦前の、少なくとも著名人は何らかの宗教を信じ、信仰を持っていた場合が多いが、戦後になるとそれが様変わりする。大いなるものへの敬意を失い自己利益の主張ばかりが目に付くようになる。際限なき欲望とぎらぎらした競争意欲の世の中である。老荘はそうした世の中を嫌って隠遁に流れる風があった。儒教は小欲を世の中全体が良くなる大欲で克服せんとした。

 老荘は仏教に大きな影響を与えた。仏教と儒教は日本世界においても大きな影響を与えた信仰である。それらがどう成り立ってきたかを知ることは有意義である。
 仏教の開祖はご存じの通り釈迦である。しかし釈迦の教えは現在日本人が想像しうる仏教の感覚とはずいぶん異なっている。人によっては日本を仏教国とみなさない人間もいるほどである。釈迦は一切を捨て修行により解脱することを目指した。しかし釈迦はそれが正しいと信じたがどのように解脱するかなどはまるで後世に教えることはなかった。これを上座部仏教などと呼んだりもする。最近はあまり使われないが小乗仏教とも言われる。小乗、つまり救われる乗り物には少ししか乗れないことを意味している。
 一方で大乗仏教と呼ばれる流れもある。これは、由来には諸説あるが、人は所詮釈迦のように独力で解脱などできるはずがないというあきらめの境地から誕生したもので、インドの土俗信仰と混交し、釈迦は一切の人々を救うために修行して来たのだ、という考え方も生まれてきた多くの人を救済(大乗)しようとする教えである。この仏教はインドから支那、朝鮮を伝って日本に伝わっていく中で道教の考えと結合していったと考えられている。道教とは老子や荘子などの思想である。日本の仏教に無常観などが漂うのはその影響と思われる。また仏教の宗派によっては加治祈祷的な要素が信仰の中に盛り込まれている場合もあるが、それも道教との混交の中から生まれたものと言ってよかろう。
 一方で儒は孔子がその開祖とされているが、加地伸行のように、儒はもともと東亜世界で信仰されていた土俗信仰が基盤となっていると主張する人もいる。また、特に日本において仏教が葬礼を担う場合、儒仏の混交が見られる。死者の遺影を拝し故人を悼むなどというのは儒にその由来を見つけることはできても、仏教には見つけることができない。
 大づかみに言えば支那世界においては俗事を儒が、非世俗的な抽象理念を仏教が担った。だからだろうか、則天武后の周(武周)や朝鮮では新羅、高麗あたりは比較的仏教を保護したのだが、それでも支那朝鮮両世界における仏教の影響は日本と比べれば随分少ないと言える。
 一方支那では、少し時代を無視すれば、西方で回教や景教、チベット仏教など日本にあまり影響を及ぼさなかった宗教が数多く見られるが、それは主に西方世界にとどまった。

 孔子は伝統と信仰の体現者の一人と言ってよい。孔子がその教えとして最も重んじたのが「仁」であった。
 「仁」とは「人」のことであり、人間らしく生きることである。文学的に言えば、仁とは差し伸べる掌である。人に手を差し伸べるとは、口で言うのはたやすいがそう簡単にできることではない。自己の行動を思い返してみればそれは容易に理解できることであろう。だが、だからこそ「仁」は称えられ、重んじられるのである。儒学は性善説に立っているといわれる。性善説とは「人は皆良い人だ」というお人好し極まる概念ではない。性善説とは「人は皆本来自分が持っているはずの善性を発揮するために自己研鑽しなければならない」ということだ。そこまで踏まえて考えればたしかに儒学は性善説に立っていると言えるだろう。
 余談ながら「性悪説」とは政府による統制や利害関係の衝突・調整により社会は維持されるべきという考えである。儒学には「天下」の概念があり、時に政府の観念さえも相対化されることがある。それに比して、福沢諭吉風に「立国は私なり」と言ったのでは国益の論理は相対化されない。儒学が性善説なのに対し、近代文明、資本主義の観念は性悪説に立つ。ただし性善説と性悪説は先ほどの定義に従うなら両立することも可能だろう。
 余談ついでに、支那を排撃し、儒教を嫌った本居宣長であったが、孔子のことは敬意を持って見ていたようであり、孔子を「よき人」と評している(若松英輔『生きる哲学』80頁)。礼で人を縛ることが儒教だと思われがちではあるが、日常に起こる様々な感情の起伏や大切にし、ありのままの心でいることを重んじたのも孔子であった。だからこそ宣長は孔子を「よき人」と呼んだのであろう。意外にも本居宣長は儒学的な人物である。

 加地伸行は儒教において重要な考えの一つである「孝」を、〈生命の連続の自覚〉であると捉える(『沈黙の宗教―儒教』ちくま学芸文庫版83頁)。祖先から自分に至るまで生命が連続しており、自分の人生とは先人とともに歩んできたのであり、これからも運命を共にするという考えのことである。加地はこの祖先からの生命の連続性の自覚を儒教の宗教性と呼び、仁・義・忠・孝を支える基盤であるとした(同296頁)。
 仁・義・忠・孝といった道徳律は人を縛るために唱えられたのではない。人間は感情の動物であり、生きることの信義はこの感情の中にある。儒学の道徳律はただそれを見つめ、それを称えているのである。本当に自分自身の中から湧き出たものでない思想や行動を他人から強要され、植えつけられることを避けるためのものだ。だが、儒教はそうした堅苦しい道徳を強要するものと受け取られ、あるいは社会的に上層にあるものが下層にあるものに向けて、逆らわせないようにする道具として使われた過去があり、それは儒教にとって大変不幸なことであった。

 白川静は哲人を、「伝統のもつ意味を追究し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う。探究者であり、求道者であることをその本質とする」(『孔子伝』10頁)としたうえで、孔子を「述べて作らず、信じて古を好む」人であったとする。「述べて作らず」とは、天からの言葉を余すことなく記録し、後世に伝えようという精神である。
 孔子は感情の人である。顔回が死ねば大いに泣き、伯牛が不治の病と知れば大いに嘆き、子路が政変で殺され塩漬けにされたと知れば漬物をすべて捨ててしまった。感情とは欲望とは異なる。欲望を昇華させたうえであるがままの心に素直になる。天がもたらした出来事に正面から向き合う心の動きである。「感情」とは、「欲望」よりもむしろ「感性」に近い言葉であろう。

 伝統とは人間的生き方のあらゆる領域に規範としてはたらく。伝統とは言葉を中心として構成される慣習のことだと言える。先人が「神」と呼んだ、人智を超えた「何か」、そして「人間」という存在そのものへの関心を言語化したものが「伝統」なのではないだろうか。
 伝統とは追体験するものだ。振り返った過去のことだ。振り返って追体験したときに各人に内在するものになった時、はじめて生きるものとなる。現代日本において、いわゆる「保守」的な人々が政府権力に癒着しすぎているようにも思える。そうしたところとは少し違う方向で私は考えたいと思っている。あえて言えば、今の日本に必要なのは、政府や自民党に癒着した「保守」ではなく、日本人の精神生活に深く根付いた伝統から出発する国粋主義なのである。もっとも、政府権力なしで社会が維持できると思うのも幻想であり、権力との付き合い方を考えなくてはならないとも考えている。

 少し儒学の話ばかりになってしまったので仏教に戻る。
 大陸から直接伝播された支那朝鮮とは異なり、日本の仏儒の受け取り方は誠に面白い。というのも基本的に日本の儒者というのは長年仏教の僧侶だったからだ。平安時代に儒教を学ぶ学者が設置されたものの基本的には仏儒とも大陸の知識であり、したがって大陸から仏教の経典を持参した僧侶が、併せて儒の考え方も取り入れていたのである。ちなみに儒教と道教の両者が混じった日本独特の陰陽道の考え方が盛んになったのも平安時代であった。
 仏儒とも大陸からの知識であったがゆえに日本では不思議な受容がなされた。というのも支那世界では俗事が儒で非俗事が仏という、全く明確ではないもののある程度の棲み分けがなされていたのだが、日本では両者が棲み分けられず混交していく形で俗事非俗事両方をまかなっていったのだ。
 ちなみに仏教がその形をどんどん変えていったのには戒律の問題が考えられる。戒律は「●●してはならない」というものだがその教えは基本的にその土地の文化に根付いてなければ奇怪なものとして見過ごされるほかない。したがって戒律にはその地域の文化性が色濃く出やすいのである。
 話は戻る。少しわかりやすくするために時系列順に述べていこう。日本に仏儒がほぼ同時期にやってきたが、両者はともに外来思想であり、またそのもたらし手が同一集団であったために明白な区別はされなかった。奈良時代までに日本で盛んだった仏教は法相宗であった。これは戒律により解脱を目指すインド元来のものに近いものであった。たとえば鑑真などが日本に来たのは、正式な戒律を授けるためであった。一方で、日本に限らず法相宗は信仰というより学問的になるきらいがあったようである。だからこそ行基のような私度僧(正式な教壇に属していない僧)にも活躍の余地があったのだともいえる。そんな奈良仏教は政治への介入もあり次第に日本社会では忌避されるようになった。

 かわりに登場したのは密教であった。密教は加治祈祷を信仰形態の一つとする仏教の派である。法相宗の衰えとともに大陸で勃興した密教に日本社会も敏感に反応した。密教のもたらし手は最澄と空海である。密教を充分に学びきれなかった最澄と、当時の密教の正統を受け継いだ空海には帰国後大きな差があった。当然人気が出たのは空海のほうであった。しかし空海により密教の本場は支那からに日本に映ってしまったというのも面白い。なにしろ正統後継者は空海なのだ。密教自体道教との混交が強い考え方である。さらに妖しげな祈祷色を加えたものが山伏や修験道であり、それらはもう少しのちの時代から登場する。
 最澄の話に戻る。最澄の天台宗は密教こそ不十分だったが、その代り密教に特化せずあらゆる仏教の経典、考え方を網羅する施設となっていた。このことは後に鎌倉新仏教の母体となっていくことになる。
 最澄は国家護持仏教論者であった。仏の力で国を守る考え方である。最澄の有名な言葉に「一隅」の句がある。これは後世人それぞれが自分の場所、仕事(=一隅)を守ることで世の中が光り輝くというような発想で受け取られたが最澄の意図は違い、むしろ国家の優秀な役人がそれぞれの場所(=一隅)で働くことで鎮護国家を成し遂げるというものだ。これを見ても最澄が非世俗的な宗教の領域にとどまっていたとは言い難い。むしろこの考え方に儒の影響があるのではないかと疑ってしまうのは私だけだろうか。鎮護国家を成し遂げる以上世俗的な教訓を述べる儒の発想を参照したように聞こえる。大陸でも儒物の混交はあったと書いたが、日本ではそれがよりはっきりとすすんでいるように思われる所以である。
 しかし結果的には平安仏教は奈良仏教のような政治介入は果たせなかった。貴族の側にもそういう要望がなかったに違いなく、だからこそ仏教は政治と距離を置いた。ここでようやく仏教徒は非世俗の領域を担う集団となった。最澄の天台宗や空海の真言宗は奈良時代の南都六宗のように国家によって護持される仏教ではなく、鎮護国家を謳いながらも朝廷から独立したところで力を持てるようになっていた。最澄の延暦寺も、空海の金剛峰寺も、平安京から離れたところにあるのもその象徴である。

 日本は論者によっては仏教国ではないとも言われる。なぜなら日本において釈迦の原始仏教の影響は非常に少ないからだ。むしろ現代日本に色濃く影響を与えているのは鎌倉新仏教である。浄土真宗や日蓮宗、禅宗などがそれに当たる。鎌倉時代は民が豊かな時代だったとも言われる。戦前においても、天皇のもとでの政治から武士による政治への基を作ったとして批判的に描かれることもあったが、山路愛山や権藤成卿などと言った民間史家からは、民が自らの力で自治を勝ち取りつつ、それでいて皇室を廃止することのなかった時代として、好意的に描かれる時代でもあった。
 鎌倉新仏教を考える上では以前にも触れた最澄と空海の功績を思い起こさずにはいれない。最澄は大陸のあらゆる宗派を網羅的に延暦寺に置く、仏教博物館的な役割をになった。したがって延暦寺に入ればとりあえずあらゆる仏教的学問が手に入る状態を作り上げたのだ。延暦寺からは法然(浄土宗)や日蓮(日蓮宗)が登場する。また空海は唐の長安で当時の高僧恵果から密教の秘伝を受け継いだ、密教の正統後継者となった。しかし空海は日本に戻るとむしろその日本的読み替えを行った。これは、道元が支那から禅を持ち帰った時に同様に日本流の読み替えを行っていることと合わせて考えると興味深い。ちなみに道元も若いころ延暦寺に通っている。
 鎌倉新仏教は禅の栄西(禅の一派である臨済宗の開祖)以外は多く権力に近付くというよりも一般大衆に信仰を広める形で発展していった。これも民に力があった時代ということの一つの証左となろう。
 当時爆発的に流行したのは念仏だと言われる。念仏というと法然の浄土宗やその弟子親鸞の浄土真宗が有名だが、これらはこの時代には栄えていない。浄土真宗が栄えるのは戦国時代である。しかし念仏を唱える一派自体は大きく成長した。例として一遍の時宗をあげたい。一遍は「時衆」と呼ばれる集団とともに市街を練り歩き踊り念仏を広めたとされる。一遍が革新的であったのは葬式を僧侶が担ったことである。今まで一部権力者を除き葬礼を僧侶が担うことはなかった。あったかもしれないがそれは一僧侶の善意という形で行われていた。しかし一遍は葬式を僧侶が担うことで、仏教を庶民の生活に根付かせる役割を果たした。もともと葬式を重んじるのは仏教ではなく儒のほうである。それを仏教徒が行ったというところに儒仏の習合を思わせる。我々は簡単に「葬式仏教」と言ってしまう傾向にある。このブログでも葬式仏教に堕した信仰心の欠如を批判することもあろうが、しかし葬式を担えるというのはその社会に受け入れられたということでもある。
 鎌倉新仏教は平安時代に宿痾のように行われた、権門盛家の子弟が出家し高僧になることで出世するといった、世俗にまみれた構造をぶち破る効果を果たした。それは、政治的にも武士が登場し、藤原氏のみの権門政治を打破したのと交錯している。平安時代にも空也などの僧はいたが、一部先覚にとどまった。それらが鎌倉時代に花開いたと言える。そしてその鎌倉新仏教は大陸のどこにも則らない日本独自の形として表れたのだ。内藤湖南は応仁の乱以前の日本は現代日本に何の関係もないというような放言をしているが、私はそうは思わない。鎌倉時代にも現代に影響を及ぼす信仰があったし、それは、批判的な形だったにしろ、平安時代末の状況下から生まれたのである。

 南北朝時代から室町時代にかけての信仰を特徴づけるものとして朱子学がある。朱子学は南宋の朱熹が大成した学問の型であり日本には鎌倉時代に禅僧が伝えたものである。ちなみに朱子学は、北方の女真族の国金やモンゴルに圧迫される中で生まれた思想であり、唐の時代まではある程度盛んだった仏教もこのころより揮わなくなる。余談ついでにもうひとつ言うが、南宋のあとの元の時代はモンゴル人王朝らしく仏教がふたたび盛んになる。その元を打倒した漢民族の明朝では再び朱子学が正統な思想とみなされるのだ。
 そんな朱子学は我が国では鎌倉時代は禅僧や一部の公家で語られる程度であったが、後醍醐天皇という熱烈な信奉者を得たことは特筆せねばならない。後醍醐天皇というさまざまな意味で歴代天皇とは異質な天皇は、密教にも多大な興味を抱いていたが政治思想としては朱子学の考えを持っていた。おなじく朱子学者だと思われる人物が楠木正成である。楠木正成などは南北朝で南朝が負けると「逆賊」扱いされていたのだが、江戸時代明の遺臣朱舜水に見出されて初めて戦前のような忠臣の地位を得たのであった。朱子学の人が異国人の朱子学者に初めて評価されたというのも興味深いことである。
 この時代、同じく南朝の北畠親房によって書かれたのが『神皇正統記』であった。『神皇正統記』は朱子学と伊勢神道の両方の影響を受けている。『神皇正統記』は神と儒(朱子学)の習合のわかりやすい例である。
さて少し時代が下って室町時代には、一向宗と日蓮宗が復活を遂げる。一向宗とは親鸞が作った浄土真宗のことである。浄土真宗はすたれていたが蓮如という大宣伝家を得て一気に勢力を拡大した。一向宗や日蓮宗は戦国大名と対峙するほどの勢力を手にしたりもした。石山本願寺などは織田信長がなんとか平定し、その跡地には豊臣秀吉が大坂城を作っている。
 室町時代も前半は大陸調の文化が栄えたが後半はむしろ日本流の様相を見せる。足利義政の銀閣は今の和室建築の先駆けであるし、またお茶やお花が始まったのもこの時代であった。これらはすべて禅的な影響を受けている。簡素できらびやかではないがその中に美を見出す考えはこの時代に登場した。わびさびや幽玄をよしとする文化はなかなか諸外国には見出しにくい。

 日本人には鎌倉新仏教という、他の東アジア世界には見られなかった独自の信仰の発展がみられた。仏教はもはや外来思想ではなく、日本人によって編み出された信仰となったのだ。鎌倉新仏教は現在の日本人の精神生活にも大きな影響を与えている。この時代を軽視することは考えられないのだ。

(続く)

伝統と信仰 第二章 日本人と神道

第二章 日本人と神道

 原点なき人生は存在しない。同様に、原点なき信仰も存在しない。神道は八百万の神で、経典を持たないことから、教義を喪失した土俗信仰と見られがちである。たしかに神道の教義は見えにくいものであろうし、私のような浅学なものが一言で語れるようなものでもない。その歴史は習合の過程により、語りつくせないほど多様である。ただ、一言だけ言えば、八百万の神とは万物が神であると言った「何でもあり」の信仰ではない。石ころや木が神様なのではない。ものにも神性が宿ることがある、ということを神道は教えるのである。

 神道は我が国の土俗信仰だが、確固とした経典、教義を持たないことが特徴である。思いつくままにあげてみれば、神道とは穢れから己もしくは自集団を守る「きよめ」の役割、すぐれた人物を顕彰する役割、そして現世利益(「ご利益」)といったことが特徴として挙げられよう。
 その神道と仏教は当初対立した。仏教が初めて輸入されたころ、仏教を重んじる蘇我氏と神道を重んじる物部氏の対立があり、蘇我氏が勝利している。しかし神道が消滅することはなかった。もしくは、蘇我氏が滅ぶきっかけは中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺するからだが、その中臣氏は神道派だった一族である。しかし蘇我氏滅亡後も仏教は存続した。どちらかと言えば政治介入しにくい神道は劣勢であり、仏教が日本社会に定着していく。しかしその仏教に期待されたのが鎮護国家であったことを思うと、むしろ神道的な思考まで仏教が吸収しているようにも思える。国のために祈るという態度は少なくとも釈迦的な原始仏教とは遠い。
 俗に本地垂迹説と呼ばれるが、日本の神々が仏教の諸仏の生まれ変わりとして存在していたのだ、という考え方が広まるのも、奈良時代から平安時代にかけてである。神仏は習合していくことで、表面上は仏教優勢の形で進みながら実は神道的考えも仏教を変革していったということになる。歴史的には判別しがたいが、論理的には神仏習合は仏教側から求めたものであるといえるだろう。神道は日本人の土俗信仰としてもうすでにあるものなので、自ら習合を求める必要はないからである。仏が神より優位だという考えが広まったということは、表面上は仏教が優位になってきたとも捉えられるが、そのように自己宣伝しなければ仏教が広まらなかったという実態も伺えるのである。
 それが大転換を遂げるのが元寇である。鎌倉時代元の侵略を受け対外的な危機感が高まった上、「神風」により元が敗北したことにより神仏の順位は逆転し、むしろ日本の神々が仏教の形を以て現れたという反本地垂迹説が優勢となる。
 これらは教科書的説明だが、仏教もまた国のために祈っていたにも関わらず神道が優勢に転じるのは若干理解に苦しむ。歴史家が言うほど本地垂迹説自体が確固としたものではないのではないか。そんな疑問を禁じ得ない。

 平安末から鎌倉時代にかけて世俗の中にも信仰が現れたことは興味深い。そしてやたらと仏教ばかりめだつこの時代だが、本当に仏教ばかりだったのだろうか、ということも見ていきたい。
 少し時代が遡るが、菅原道真という人がいた。宇多天皇に重用され一気に政界の中枢に駆け上った当代一の学者である。遣唐使の廃止など我が国にとっても重要な決断を下した人物でもある。その道真は藤原時平の讒言により左遷。不遇な最期を遂げた。その道真の怨霊が朝廷を襲うようになったと言われ、その鎮魂のために今の北野天満宮が建てられた。ここで大事なのは、道真が怨霊になったという全く非仏教的な信仰が堂々とまかり通っていたことと、道真を祀った北野天満宮は「神社」だということである。菅原道真は当時の社会に「天神信仰」をもたらしたとも言われる。このわずか百年ほどのちには(仏教の)末法思想が大流行し、浄土教が誕生する元になるとは思えないほどだ。
 もしくはこんな例もあげられるかもしれない。平清盛は自身も出家した人間であり、「入道相国」とも呼ばれた(「入道」とは出家した人物のこと、「相国」とは今でいう総理大臣のこと)人物だが、その清盛が大輪田泊(現神戸)に建てたのは厳島「神社」であった。神道が現世利益的であったというのは説明になっていない。なぜなら当時仏教もすでに現世利益を与えるものになりつつあったからである。
 これらのようなことは西洋的感覚から見ると奇怪に映ることだろう。現在においてもクリスマスを祝い、その一週間後には寺院の除夜の鐘を聞きつつ神社に初詣に向かう…ということを平然とやっているのが日本人なのだ。これらを踏まえて日本人は宗教的に節操がないとか、無神経だとか、無宗教だとか言われたりする。だがそれは間違っているのではないか。たしかに特定の教会(神社、寺)に通っていない、という意味では日本人の多くが「無宗教」だろう。だがそれは日本人の信仰心の篤さとは無関係なのである。むしろ異なった出自の宗教をも混交していっしょくたにまとめてしまい、「神々」としてそれぞれに居場所を与え大事にすることが日本人の信仰心ではないだろうか。こうした混交性は東洋の特徴であるが、特に日本においてそれが強いように思われる。それを可能にしたのは「八百万の神」の神道の力だ。学校の教科書的にはこの時代において神道の影響が触れられることはまずないと言ってよい。しかし神道は確実に息づいている。
 ちなみにこの平安末から鎌倉時代にかけては、言わば「日本流」が確立された時期でもある。この頃の寺院建築は大陸から陳和卿のような技術者を招きながらも、重源などが和漢混交の寺院建築として企画提供したのである。それを可能にするのは大陸文化を理解し、それを変換し、独創するだけの文化の成熟度である。重源の企画提供した東大寺大仏殿、もしくは南大門は現在にも通ずる「日本流」の典型例である。
 古くは法隆寺の建築も、正倉院の御物も、大陸風のようでいて、実は日本の技術によって昇華されたものである。これらを簡単に「大陸文明の模倣」と捉えるのは誤りである。

 平安末期から鎌倉時代にかけて隠遁的な文学が書かれた。それらは仏教の信仰を下敷きとしながら日本で現れた既存の信仰が習合される形をとったと言ってよい。
 平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出しで知られるように平家の興亡を仏教的無常観で彩りつつ描いたものだ。そのときの「仏教」観とは釈迦の原始仏教というよりもむしろ道教的な感覚であった。軍記物語特有の勇壮さとともにこうした無常観が共存して描かれるのは、世界の文学と比較すると珍しく興味深い。室町期に描かれた太平記も同様である。
 人物でいえば西行が興味深い。西行はもと北面の武士であったが、友の死に無常を感じ突然出家、以後和歌の道を歩んだとされる。歌人としても大成した西行は後世に多くの影響を与えた。西行は僧侶でありながら世俗との関係は完全に断ち切ったわけではなく、そこに信仰の鷹揚さがうかがえる。
 隠遁文学に仏教、もしくは道教の影を感じると書いたが、有名な隠遁文学である鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』は、ともに作者が神道の家柄に生まれた人物であった。しかも神道の家に生まれながら個人的に仏教の出家も行っている、という点で両者は共通している。神道でありながら同時に仏教でもある。そうした宗派をかねあうこともざらであった。
 隠遁文学は仏教的、道教的感覚を下敷きとしながら神道的な信仰への鷹揚さも背景として誕生した。それらが後世に至るまで長く高評価を受け続けたのはそれがきわめて日本人の感覚とあった形で生み出されたからであろう。

 おさらいすると、神道は我が国の土俗的民俗信仰であり、沖縄やアイヌにも似たようなものがあることから地域毎でそれぞれの発展を遂げたにせよ日本列島共通の信仰と言える。
 その神道は飛鳥時代に蘇我馬子と物部守屋の争いに敗れた形で以後日本人の底流となって流れ、表には見えにくい形が続いた。
 平安時代には本地垂迹説というのが唱えられ、神道の神々は仏教の諸仏が形を変えたものとして理解され、ともすれば仏教優位として理解されることがあった。

 しかし一方で真言宗や天台宗の一部と神道は習合し、日本での教域を一気に拡大することに成功したともいえる。平安時代に真言宗と神道の集合により生まれた両部神道は教勢を拡大させた。また「権現」というような仏教と神道の習合の過程で生まれた新たな神(仏)も登場している。
 室町時代には吉田兼倶により唯一神道(吉田神道)が唱えられた。唯一神道は反本地垂迹説を背景に古事記、日本初期などに重きを置くのも特徴としながら発達した神道の一流派である。この唯一神道は神道に仏、儒、陰陽道なども習合させたその後の神道を形作るものである。神仏習合でありながら、アマテラスによって諸神を統合しようとする意図も持っており、道徳的なものいいともなじみやすく江戸時代までよく参照された。
 江戸時代には山崎闇斎の垂加神道、吉川惟足の吉川神道、本居宣長・平田篤胤の復古神道などが登場する。これらは江戸時代教養の必須条件となっていた朱子学の影響を受けたものである。もちろんその影響とは反発も含む。一方で本居宣長は、浄土宗の信者であり、後の廃仏毀釈の時代のように峻厳たる各教の区別を求める態度とは少し異なる面がある。
 廃仏毀釈は「復古」の名に於いてなされたが、伝統的信仰生活を破壊する側面も持っていたことは間違いない。国家神道も同様に、明治国家の成立に必要な面もあったが、神道の信仰を官僚化させてしまった弊はぬぐえない。山本七平『「空気」の研究』によれば、明治四年までは宮中にも仏壇があり、仏式で法事が行われていたというが、この廃仏毀釈の時代に改められたという(山本七平ライブラリー①、73頁)。
 「日本人は宗教的に寛容」であるという俗説があるが、こうした廃仏毀釈の例に限らず、全く当たっていない俗説であろう。山本七平は日本人の「空気」に対して硬直的な信仰態度を見た。確かに宗教戦争などは少ない部類かも知れないが、それは「信仰を軽視した民族」ということではない。

 明治時代はその維新当初は国学者などに導かれ神道の国教化に進もうとしたがそれに挫折すると、むしろ「神道は信仰ではなく国民儀礼である」という論法により神道式の国家儀礼を説明した。井上毅や陸羯南などもそうした論者に含まれる。それが神道の定着とともに世俗化をまぬがれなくする。国家神道は神社にとって喜ばしいことばかりではなかった。もともと「神道は宗教ではない」という論理により国民儀礼化したのだから神道の教義の簡略化もあり、また神社の統廃合の政府による決定などで小さな神社がつぶされることもあった。実際問題、国家儀礼として必要とされた部分に神道的要素のものがあったが、それを公に認めてしまうと政府が一つの宗派に肩入れしてしまうことになってしまうためできない側面があった。そこで生まれたのが神道非宗教論であった。アメリカやイギリスにおけるキリスト教と国家儀礼との関係と似たように、日本もその歴史から神道と国家儀礼の微妙な関係を抱え込むことになったと言える。その関係は、現代においても変わることなく続いている。

 以上で平安から明治期までの神道の歴史をざっと眺めたわけだが、神道はむしろ各宗と習合し影響を与える歴史を歩み、神道が神道自身として教団的なものを持つのは室町時代以降になると言えるのではないだろうか。教義の見えにくい神道が他宗のような教えを確立するのもこのころと言ってよい。無論それらは前時代の積み重ねがあって初めて成立するものであり、この時代の新造物でもなければ人工的なものでもない。時代によって様々な考え方があり複雑な歴史をたどったが、神道が日本人の精神生活の原点として大きな影響を持つことは疑いないだろう。

(続く)

伝統と信仰 第一章 一神教と多神教

 第一章 一神教と多神教

 「信仰」とは「伝統」への信頼に他ならない。「伝統」は左右の立場を超えて信じられてきた。伝統は左右を区別しない。それはまるで共同体がその人の思想信条を区別しないことと重なるようだ。伝統は過去から引き継ぎ、未来に残すものとして、明確に個人の人生に意味を与え、不死性を持たせるものだ。使命がある限り、国は死なない。ここでいう「国」とは、政府のことではない。共同体のことである。共同体の使命とは、先人の叡智を受け継ぎ、次代に伝えることである。
 伝統は人間が行う世俗の出来事であり、神を称える信仰とは別物だという人がいるかもしれない。そういう解釈もあるだろう。だが、全く貧しい肉欲に囚われがちな各個人に潜む清明な精神は、伝統によってもたらされるのである。即ち自己の精神は先人たちの分身であって、必ずしも各人に分けられるものではない。我々は叡智によって教えられると同時に、叡智に参与し、次代の人間の精神を形作る精神の一滴となるのである。「知ることは思い出すことである」とプラトンが言ったとおりである。それは、神々が人間にもたらす働きと、とてもよく似ている。
 伝統にはどこかアナーキーなところがある。現代の政治家は伝統を統治の道具として活用することはあっても、伝統を信仰として理解することができない。それは伝統がどこか近代国家における政府と相いれないところがあるということだ。古代国家はそうではない。古代国家にとって政治とはまつりごとであり、伝統とは信仰そのものであった。

 日本人は何を信じ、何により国家乃至は社会全体を構想していたのか。こういうことはなかなか突き止められなかったし、今後も難しいだろう。
 なぜそうなるかと言えば、さまざまな原因が考えられるが、まずは日本もしくは東洋における信仰観のわかりにくさが挙げられるだろう。東洋はさまざまな信仰のるつぼである。基本的に耶蘇教が主であり、それの正統と異端の歴史であった西欧世界とはずいぶん様相を異にする。東洋世界は信仰が互いに影響しあい、もしくは異国からやってきた信仰が意外な形で読み取られたりしていくことにより発展してきた。特に日本はその傾向が強く、「日本人は宗教心が薄い」などというのは完全な嘘である。ただし前述のような複雑な経緯をたどっているため特定の教会(寺院、神社)に通うというような西欧的信仰形態をとっていないだけである。むしろ日本は宗教国家、日本人は宗教民族と言える。

 一神教と多神教は漢字のようにわかりやすい対比があるとは思われない。完全な一神教が今ある宗教に一つもないのと同様に、完全に神々が対等な多神教も存在しない。両者の境界は実は曖昧である。しかし曖昧であるということは両者を区別する意味がないということにはならない。
 一神教とは、理念系でいえば、唯一の神を信仰することであり、それはほかの神の排斥に向かうことがある。一神教とは他の神を排斥してしまうのではなく、排斥しなければならないのである。唯一神がただ一つの絶対なのだから、他の神を信じる者は間違った神を崇める者であり、神が作った人間としてあってはならないことだからである。歴史上では、大航海時代の西欧の世界進出と同時に耶蘇教徒によって繰り返された悲劇が思い起こされる。
 ただし、この唯一神への信仰が完全な形で行われたわけではない。当の耶蘇教さえイエス・キリストは神の子であり、また精霊も交えた三位一体説を教会は採用したのであって、これは造物主一人に神を絞れなかった、ということでもある。もちろん神学はこの現象を説明するために様々な論理展開をなしているのだが、正直耶蘇教の信仰のない人間からすれば問題を糊塗しているだけのようにも映る。また信仰を広める以上神々の要素を完全に排斥するわけにはいかなかったともいえる。聖書に全く記述のない「クリスマス」や「ハロウィン」が堂々と祝われているのも、もともと砂漠の民の信仰であった耶蘇が欧州の土俗信仰と習合したためである。耶蘇教にも欧州の土俗信仰もしくはギリシャ的多神教概念が入り込んでいる。
 一方多神教についてだが、仏教も広く見れば多神教だろうが、たとえば仏教には如来とか観音という序列があり、また仏教の中の何宗かによって、阿弥陀如来を重んじるのか釈迦如来か大日如来か…と変わってくるのである。それはそれぞれが違うのを信じるのと同時に、その信徒にとってはたとえば真言宗にとって大日如来が一神教に近いのではないかと言いたくなるほどに重要な要素を持つことも確かなのである。神道において太陽神が最高の位置をしめ、その子孫が天皇となって現在にまで至るというのも同じである。神道は多神教であってもその中で太陽神、すなわち天皇を最高のものとして敬うことは少しも不自然なことではないのである。
遠藤周作は、『沈黙』で、日本には耶蘇教は育たないことを登場人物に語らせている。信徒の数こそ増えているように見えるが、日本人は人間と隔絶した存在として神をとらえない。芥川龍之介の「神神の微笑」もまた同じような問題意識で書かれた作品である。そこでは日本の神々の力は「造り変える力」であると述べられている。どこの社会でも異教が入り込んだとき「作り変え」が行われるものだ。日本においてもそれが行われたということは日本人にも確固たる信仰があったということではないだろうか。ただそれが西洋耶蘇的な教義、教会、経典に縛られていなかったというだけのことだ。
 日本の「作り変え」の歴史を称えたのは蓑田胸喜であった。蓑田は聖徳太子や親鸞、山鹿素行を外来の思想である仏教や儒教を日本風に「作り変えた」人物とみなし礼賛している。作り替えの力がある限り日本文明は不死の存在であり、永遠に発展存続するものと捉えたのである。

(続く)

伝統と信仰 序章 信仰と宗教

序章  信仰と宗教

 人は、死ぬことができない。死を経験できない、と言ったほうがわかりやすいだろうか。非業の最期を遂げた志士も、名文を書き残した先人も、皆、死を経験していない。にもかかわらず、「死」はとても饒舌に語られる。現代は特に、死を遠ざけてきたにもかかわらず、あまたの抽象的な「死」が語られてきた時代である。信仰と死者の問題は切り離して考えることはできない。まだ経験すらしていない死を語るよりも、死者の声に耳を傾けることから「信仰」ははじまる。

 「信仰」というとき、いわゆる既存の宗教だけを指しているわけではない。「信念」とか、「人智ではかりがたいものへの敬意」とか、そういう言葉に言い換えられるような形での「信仰」である。
 何かを強く信じることを説くのは、自由、平等、資本主義、民主主義といった近代原理の普遍を信じないからである。近代思想の「普遍」の圧力に抗すのは、信仰の力以外にはないからだ。信仰は世間の無道な圧力からも自分を守る力となる。世間体に囚われず、真に自分を見つめ、自己を突出させていくのは信仰の力である。信仰にはそのようなことが期待されている。自分が経験したこと、あるいは自分が心から納得したことしか信じない、という態度は頑固であるがとても大事なことである。それは他者や過去、未来を無視することではない。私の精神はどこかで過去とつながっている、そして未来へ続いている。自分の心に関心を持てば、必然的に過去や未来につながっていくことができる。
 すべては自分の心が感じることによって生まれる。今目の前に自分の書いた文章があるのは自分の心がその存在を認めたから「ある」のである。「ある」とは自分の心がそれを認知したということであり、「ない」とは自分の心がそれを無視したということである。

 宗教はいかに信仰心を涵養してきたのだろうか。
 耶蘇教徒にとって教会は、人為的ながら一つの共同体であり、家族と地域の間に位置するものである。私は耶蘇教があまり好きではないが、こうした地域、家庭に根付いた信仰というのが現代日本では耶蘇以外ほとんど消え失せてしまっているのが悲しい。合理主義は人間をバラバラの個にして救わない。
 寺院や神社、教会は人為的な共同体なのである。神仏への感謝をささげた後は、みなで持ち寄った弁当などを食べるような和気あいあいとした小共同体の場である。いまや我が国では、寺院や神社は官僚的事務的な感さえするが、元来の宗教の目的とは共同体の形成であり、そのきっかけを作ることであった。西洋の保守主義者が耶蘇教徒というより教会に重きを置くのはそこにあると言える。
 ただ、歴史を見ると、こうした宗教教団が人々の信仰心に悖る行為も行ってきたとも言えるだろう。それは大方教団の側が商売に走るか、権力と癒着することによって起こる。世俗的価値を超えた「価値」を提示することが宗教家の務めであるのに、露骨に世俗と結びついてしまえば堕落するのは当然である。世俗と結びついた教団に、美はない。
 人間という存在と真理とを結びつける存在が宗教者であった。ところが教団的堕落はその信仰を死んだものにしてしまった。その他にも信仰を殺してしまったものがある。近代科学である。科学は信仰や芸術、文学、歴史を、人間存在そのものから単なる研究対象に引きずり落とした。その結果これらは単なる過去の遺物としてしか扱われなくなってしまった。理解や理屈の前に、最も素朴な人間存在そのものがあり、これこそが最も大事なものであることを、研究者は悟ることができなかった。
 あらゆる思想、信仰は自己完結すべきものではなく、生活と常識の中に降りて来なければならない。論理的正しさだけでなく、その論理を支える感性の基盤に挑むことになる。

 人生は苦しみの連続である。自殺するか生きるかは、一息に死ぬか、真綿で首を絞められて死ぬのかの違いに過ぎないと、悲観的になる日もある。だが、真綿で首を絞められる人生の中でも、ふと人間の温かさや、先人の残した珠玉の一節に触れることで、まだ生きていけると思うことができる。そんな心の動きが、美であり信仰ではないだろうか。
 悲願とは、もともとは仏があまねく人々を慈悲の心で包む祈りの言葉である。「優しい」とは「人を憂うる」と書くが、人の生きる苦しみを慮る心が優しさなのだろう。人のつらさをいたわることは、さりげなく、ためらいがちに語られることだろう。優しさは信仰につながっている。

 衣食足りて礼節を知る、と言う。その通りだと思う。食うにも困っている人に礼節を説く無意味さを感じないわけにはいかないだろう。だが、同時に、衣食があっても礼節なき生活というものの虚しさを指摘しないわけにはいかないのだ。特に飽食の現代において、「いかに生きるか」を問わないわけにはいかない。「いかに生きるか」を問うたときに、信仰の問題が現れることは言うまでもない。

 死の恐怖の克服を想わない思想は偽物である。あるいは、世俗に魂を売った思想である。思想とは美のことであり、敬虔な信仰のことだ。人の魂は、そんな小さなこころの動きに触れたときに鼓舞される。美や信仰は、伝統と密接に結びついている。なぜならそれは、価値観そのものだからだ。文化から離れた価値観など、人間のつまらない生物的な反応に過ぎない。つまり、価値観とは伝統に他ならないのだ。

(続く)

伝統と信仰 はじめに

はじめに

 真の信仰はためらいがちに語られるという。だとすれば、日本という国家、社会、文化、歴史、伝統、言語、といった国粋に対する信頼も、ためらいがちに語られるべきものなのかもしれない。愛国の情が野放図で夜郎自大なものになっていないか、いわゆるヘイトスピーチになっていないか、あるいは単なるある政治勢力の応援団になっていないか、常に自らに問い続けなければなるまい。それは深い国粋への信仰の念があって初めて成立するものである。自らの発言は国粋の殿堂に新たな黄金の釘を打ち込む姿勢でいるかどうか、常に問い続けなければならないからだ。それは、信じるということの貴さでもある。
 あるいは信仰の念は神の御業の賜物であって、人間の所業ではないと言われるかもしれない。だが同時に先人からの賜り物である伝統は、人間の自己決定をはるかに超越したところで、一人一人の精神を規定している。その伝統が神の御業であるか人間の所業であるかを厳しく峻別する態度は、人間存在の実態に即していないようにも思われる。

 現代日本において、信じる力というのが絶望的に落ち込んでしまっている。たとえばアメリカでは格差社会と言われながらも教会が福祉に積極的であるし、耶蘇教的信仰の伝統から、民間でもNPOが発達していると言われる。格差の割には飢える人は少ないとも言われる。
 翻って我が国では、社会福祉の不足に対する怒りが、社会の仕組みを変えようというほうに向かわず、「あいつがタダ乗りしている」と、弱者が弱者を叩くような風潮すらある。嫉妬を原動力として、全体が幸福になるよりも、隣人の優位を告発して、それを引き摺り下ろすことにご執心なのである。「悪平等」とは、元来こういう言説に対し向けられるべきものではないだろうか。この「悪平等」は、他人を全く信用しないことを原動力として広がっていく。日本社会は、意外にも他人を信用しない社会なのだ。
「信用」。かけがえのないものだ。だが、目には見えず、計れもしない。こうした抽象的概念の効能について語ることは、どこか避けられがちになっていたのではないか。だからだろうか。他者を信用できないということが近代のあらゆる問題の根幹にあるような気がする。特に資本主義が当然のように受け入れられている現代社会においては、カネの暴力がまかり通り、カネにたかる蟻ばかりの世の中となってしまった。そうしないと生きられないのだから大なり小なりそうなるのは仕方ない。だが本当にどうしようもない世の中になったと、思わず嘆き節になってしまう。
 資本主義は、資本が自己増殖するために共同体の内側になるものを分断し、金銭的価値に置き換え、商品に仕立て上げ、売買されていくことを積極的に肯定する思想である。その商品一覧には人間の「労働力」も含まれる。新自由主義と言われる資本の論理を特に徹底した思想では、もはや人々は人間ですらなく、企業になぞらえられる。売り上げが経たない企業が倒産するのは仕方がない、というのと同じ論理で、人間が生活できなくても仕方ない、と資本の論理のほうを守るのである。人間は自己の労働力を商品として売りさばく企業としての生き様を強制されるのである。そこに格差が生まれようとも、それは当然のこととして見過ごされるのである。
 「持てる者」と「持たざる者」の格差は歴然としている。あるいは「1%」と「99%」と言い換えてもよい。「持てる者」、すなわち「1%」とは自分自身を商品にしなくて済む者のことである。「持てる者」、「1%」は資本の力で「持たざる者」、「99%」を搾取する。搾取されることによって、人々が共同体として自明のようにその恩恵に浴していた温かい関係性さえも分断されてしまう。その構図は厳然としてあり、今後もそう簡単にはなくなることはないだろう。人々はその搾取の構造を時に恨み、時に利用しながらしたたかに生きている。努力は報われず、権力者は往々にして邪な動機でその権力を使いがちだ。しかしそこに屈しない態度が求められる。それは単純な反発に限らない。その中で利己主義にとらわれすぎず、したたかに生きることもまた立派な抵抗の形である。
 世界史において「持てる者」と「持たざる者」の格差が解消されたことなど一度としてなかった。皮肉にもこの格差が一時的に縮まったのは、資本主義的概念が導入された上で資産課税が強化された一時期だけであった。その頃に限定すれば、トリクルダウンの効果は確かにあったと言わなければならない。だがそれも、一時的な現象に過ぎなかった。資本の自己増殖の動きは、それを妨げる資産課税を忌み嫌うからである。

 そのような資本、あるいは「持てる者」、「1%」による搾取を妨げるものの一つに、信仰がある。信仰とは特定の宗教を信じることとは限らない。私的利害関係や目に見えるものを超える「何か」を強く信じる行為のことである。信仰は共同体によってもたらされ、利他を称える傾向にある。極論を言えば、信仰とはこの「何か」を信じることに他ならない。
 日本人の信仰とは、日本の伝統の上に咲く花である。日本の伝統にのっとってこそ力強い花が咲くのである。
 多くの現代日本人にとっては、「信仰」という言葉より「宗教」という言葉のほうが耳慣れた言葉であろう。しかし本稿は宗教というよりも日本人が何を信じ自己の倫理意識もしくは社会をとらえていたのか、というところが主眼になる。したがって「武士道」だとか「社会主義」なども絡めて論じる予定である。「日本人は何を信じていたのか」、それはまったく答えの出ない問いである。だがその時々で、日本人は利害関係だけにとらわれない「何か」への信頼を語っていたのであり、先人の知的営みの恩恵に浴するものの一人として、その「何か」を追究しようとすることには関心を持たずにはいれない。精神は「伝統」という故郷を持っている。「何か」への信頼とは、すなわち伝統への信仰であろう。
 ただし本稿がその「何か」の究明にどれだけ寄与できたかどうかはわからない。ただ先人の思索を羅列しただけになっていないか不安でならない。本稿に望まれることは、むろん日本人としての「伝統」への信仰の告白である。だが、私はそんなに熱心な「信心」を持つ人間だろうか。あるいは語るに足る人間だろうか。疑問は尽きないが、ひとまず読者の思索の一助となれば幸いである。

 本稿では仏教の話をしたり、神道の話をしたりするだろう。自由に様々な信仰を行き来すること自体が、信仰を失ってしまった近代人の態度だとも言える。どの面下げて「信仰」を語るのか、とお叱りを受けるかもしれない。だが、おそらく真の信仰とは、教団や教義に囚われるものではなく、それを超えた天の声を聞き続けることにあるように思う。だから、及ばずながら「天の声」を聴く営みに参与したい。それは人々の悲願に近しいものだと思う。己がこの世に存在していること自体を怪しみ、自分がこの世に生まれ落ちた意味をいぶかしみ、はるか昔からなされてきた人類の言葉を聞く営みに加わろうという態度である。

 例のごとく本稿には様々な立場、思想の人物が登場する。私と意見が異なる人物も、または引用した人物同士がお互いを批判しあっている場合もある。そうした関係性を無視して再編成することによって本稿は成り立っている。いささか鷹揚な態度ではあるが、様々な人物の考えが私の中に流れ込み、相互に影響を与えたうえで本稿が成り立っているということでご寛恕いただけたら幸いである。引用文献の出典は随時註をつけている。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 八(終)

 経済に係る世の問題は分配の問題だともいえる。社会における富をどう分配するのか。富を齎したものが多く受け取るのか。それとも社会の構成員が公平にその果実にあずかるのか。突き詰めればこの二つのどちらかに収斂される。また、今後得られるであろう富をどう分配するのかも含めて、このことは考えられなくてはならない。だが、そもそも「成果を分配できる」と考えること自体、個人主義が明確に確立していなければできるものではない。したがって分配以前に個人主義の是非をも問わなければならないのではないか。本稿ではこの個人主義の是非にまで踏み込むことはできないが、少なくとも個人を軽視するような社会はあるべきではない。だがそれは個人主義というイデオロギーの評価とは別問題であり、そのことを踏まえて検討されるべきであろう。

 経済がグローバル化している、と喧しく語られたが、実態はそうではない。グローバルを相手とする経済と、ローカルを相手とする経済に分かれていっただけのことだ。ローカルだから稼げないとか、遅れている、ということはない。地域で循環させたほうが効率的な経済圏、ビジネスモデルは確実に存在する。ローカル経済の影響は想像以上に強い。地方では今でも人不足である。人不足は高齢化とともに訪れており、儲けの大小にかかわらず起きている。アベノミクスの「成長戦略」と称するものが軒並みグローバルを相手とする企業向けであり、ローカル相手の産業に対しては放置している状況であるため、日本経済全体に対して効果を及ぼすには至らないのである。また、規制緩和の効果はすればするほど落ちており、成長戦略=規制緩和という発想自体陳腐化している。

 自由放任により経済が発展するなど空想に過ぎない。すでに明治四十一年刊行の山路愛山『現代金権史』においてすら、「政府の世話焼きは余計の沙汰なりと憤慨したる所にて、其実電信も政府に掛けて貰ひ、鉄道もこしらへて貰ひ、学校も政府の脅迫に依りて出来、銀行の営業振り、簿記法の記入方、乃至チョン髷を切るべきことまで政府の世話を受けて渋々進みたる人民が自由放任を口にしたりとて、それは親掛りの子息が贅沢にも親の干渉に不平を鳴らすに殊ならず」と揶揄されているのである(『明治文学全集35 山路愛山集』46頁)。自由放任などと主張しても、政府のインフラを使い、政府に教育された労働者を使っているなど政府にことごとく依存しているではないか。そんなのは親に育てられていながら親の干渉に文句を言っているのと同じだ、というわけである。

 私のことを左翼的だと思う向きもあるかもしれない。資本主義批判や会社批判に対してはそういう眼で見られたこともある。だが、国民の生活に思いをはせない愛国者などあり得ない。本当に日本と言う境界、日本人という所属を重んじるならば、生活に苦しむ同胞に対するまなざしがあってしかるべきだ。

 我々日本人にとっては、日本史こそ歴史であり、日本史以外の歴史は人格を形成するような重きを持つようなものではない。外国の知識も役に立つことは当然あるだろうが、それは参考意見でしかない。日本人の意識の核心を形成するものは、日本史に求められなければならない。

 「戦後思想を克服する」ことは重要だが、目的ではない。挑発的な言い草をすれば、そんなものは人生の目的たり得ないごくちっぽけなものである。日本の歴史、文化、伝統に参与し、その偉大な伝統に、自らも黄金の釘を打ち付けて次代に託すことこそ、人生の大目的にふさわしい。
 外国人が日本の文化をほめると、日本人は喜ぶ。その無邪気な性格は愛すべきであるが、しかしそれは外国の尺度で日本を計って喜んでいるのであって、それは要するに外国の礼賛に過ぎない。そのことに自覚的になったほうがよい。

 日本人が各人その美質を発揮するためにも、経済問題は克服されなければならない。この大目的の前では、右翼と左翼の違いは大した問題ではない。無論皇室に害をなそうとするような思想は到底受け入れることはできないが、そういったものを除外すれば、右翼と左翼には共通する点も多く、お互いの意見を参照し、より高めることができるように思う。

(了)

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・伝統と信仰

・皇室中心論

・『昆虫記』余話

・陸羯南論

・地理と日本精神

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・イデオロギーと思想

・世界文明のために

 『伝統と信仰』は書きかけの原稿で既に6万字を超えているがまだまだ先が見えない。まだあまりできていないそれ以外の論題のうち、短く終わりそうなものを先に回すかもしれない。

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 七

 働くとは、元来そういうものではなかったのではないか。社会を構成するのは、国民一人ひとりであって、決して会社や資本ではないはずだ。それらは、便宜的に置かれたものに過ぎなかったはずだ。ところが、その道具のほうに振り回されて、肝心の一人ひとりがその生活を失って働く道具のように扱われていることに疑問を感じなければならない。生産も消費も、企業あるいは資本にとっての利用価値で計られ管理され、それによって生活が左右されてしまう。こんなことはおかしいではないか。大事なのは各自の尊厳であって、決して会社などではない。

 我々の生活は日々何かと忙しいものだ。だがその忙しいことを誇る気にはどうしてもなれないのである。暇人を見つけ、それを「活用する」などと称して労働の場に引きずり出そうという大きなお世話を焼こうとするのが「忙しい」人間である。有限の人生の中で、そもそも何のためにせわしく飛び回るのか考えなければならない。しかし、それを考える余裕があるのは概して暇人の方なのである。せわしない生活には、自分の生活を自分で決められない苦しさがある。もちろん、自己決定など幻想である。しかしそれは、会社や資本に支配される生活を正当化するようなものであってはならない。平凡な人生を気楽とみなすのはどうなのか。志を果たし得ない人生は、ただ生活苦だけがある針のむしろかもしれないのである。いずれにしても、生活に自己決定権がないのは問題だろう。
 我々は自分の生活を自分で決めたいのである。自分の志、自分の運命を他人に押し付けられるのはうんざりである。資本が自ら肥え太るために使役されるのは、もうごめんなのである。

 かつて人々は賃労働者になろうとした。家族やムラの論理から逃れるためである。しかし、賃労働者になっても新たな拘束や服従を強いられるだけであった。自ら生産手段を持った農民や家族的自営業者は、子どもを会社員にさせようとする。それは子どもをプロレタリアあるいはプレカリアートにすることと同じである。自ら生産手段を持たない者はどこまで行っても奴隷同然である。ここまで言ってはいけないのかもしれないが、私は会社員にまっとうな幸せなど訪れるはずがないと思う。

 資本主義は、人々を結びつけていた伝統的で細やかな関係をことごとく金銭的関係に置き換え、敬虔な信仰、武士道の美学、町人道さえも無力化させた。医者、文学者、教師に対する人々の尊敬の念を剥ぎ取り、彼らを売上だけを気にする賃労働者にした。「つくる会」以降、教師を労働者のようにみなしたのは日教組によるものという決めつけがなされたが、彼らは幸いにも大した影響力を持っていない。むしろ資本主義的感覚の広まりのほうが大きいのではないだろうか。

 関税さえ廃止すれば物価は安くなる、すべての産業に利益がある、と言う人がいる。だがそうだろうか。貿易は国と国との均衡でもある。即ち輸出が増えれば普通輸入も増えるのであり、その逆も然りである。ところで、関税を廃止することで輸入を増やしたところで、我々は何を輸出するのだろうか。あるいは輸入するだけの購買力をどうやって維持するのだろうか。輸入品によって国内産業が駆逐ないしは衰退させられたとすれば、代わりに輸出するものも購買力も生み出せなくなるのである。もちろん机上の理屈では衰退する産業が出る分輸出産業が活性化するから問題ない、ということになろうが、実際問題は、人はそう簡単に別の産業に対応できるものではないし、輸出産業の側も他業種で仕事を重ねてきた人間を簡単には採用しない。
 グローバル化により、伝統的、民族的な産業は土台から切り崩され、遠く離れた国や風土の生産物によって日々の生活が営まれるようになってしまった。生活の利便性は確かに向上したかもしれないが、そこには民族の誇りはなく、連帯もなく、生き甲斐もない。

(続く)