「国学・神道」カテゴリーアーカイブ

伯家神道関連書籍

編著者 書名 出版社 出版年
清原貞雄 神道沿革史論 大鐙閣 大正8年
山田忠孝編 神道宝鑑 国教学館出版部 大正11年
小野清秀 両部神道論 大興社 大正14年
岸一太 神道の批判 交蘭社 昭和4年
清原貞雄 神道史 厚生閣 昭和7年
神祗ニ関スル展覧会目録 石川県図書館協会 昭和8年
曽根研三編 伯家記録考 西宮神社社務所 昭和8年
田中義能 かむながらの神道の研究 日本学術研究会 昭和8年
佐藤三郎 神道概説・諸祭神名総覧索引 明文社 昭和12年
加藤玄智編 神道書籍目録 明治聖徳記念学会 昭13年
清原貞雄 神道史講話 目黒書店 昭14年
宮地直一 神祇史大系 明治書院 昭和16年
高橋梵仙 佐久良東雄 新興亜社 昭和17年
丹羽保次郎 惟神の大道 東洋図書 昭和17年
河野省三 近世神道教化の研究 宗教研究室 昭和30年
天理図書館編 吉田文庫神道書目録 天理大学出版部 昭和40年
近藤喜博編 白川家門人帳 白川家門人帳刊行会 昭和47年
神道大系編纂会編 神道大系 論説編 11 神道大系編纂会 平成元年
鬼倉足日公 生命の甕 山雅房 平成3年
羽仁礼 伯家神道の聖予言 : 宮中祭祀を司った名家に伝わる秘録が今明らかになる! たま出版 平成8年
富士吉田市史編さん委員会編 富士吉田市史 通史編 第3巻(近・現代) 富士吉田市 平成11年
堀川智子 神代より伝う「龍宮臨行の儀」考 文芸社 平成18年
佐々木重人編著 天皇祭祀を司っていた伯家神道 : 秘儀継承者七沢賢治がえがく新創世記 : 地球コアにまで響き渡るコトダマ (「超知」ライブラリー ; 38) 徳間書店 平成20年
大野靖志 言霊はこうして実現する : 伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界 文芸社 平成22年
金光英子 白川家の門人 金光英子 平成23年
保江邦夫 伯家神道の祝之神事を授かった僕がなぜ : ハトホルの秘儀inギザの大ピラミッド ヒカルランド 平成25年
古川陽明 古神道祝詞CDブック 太玄社 平成28年

大久保利通らにとって不可欠だった神祇官再興・祭政一致の思想

 明治維新が成ったときから、天皇親政の國體恢復を願う純粋勤皇派と、権力の奪取・維持を最優先する者たちとの間には隔たりがあった。神祇官再興や祭政一致についての考え方においても、両者は異なる考え方を抱いていたのではなかろうか。
 安丸良夫氏は『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)において、次のように書いている。
 〈岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正統化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ……」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ヅ。妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス、何ゾ其レ亡礼ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』)と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
 神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興や祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう〉

『神道叢説』(国書刊行会、明治44年)目次

 『神道叢説』(国書刊行会、明治44年)には、垂加神道の重要文献も含め主要な神道文献が収録されている。以下、目次を掲げる。
卜部兼直「神道由来記」
度会家行「神道簡要」
吉田兼倶「神道大意」
船橋国賢「慶長勅版 日本紀神代巻奥書」
林羅山「神道伝授」
熊沢蕃山「三輪物語」
出口延佳「神宮続秘伝問答」
河辺精長「依勤績并高年申加階状」
吉川惟足「神道大意註」
橘三喜「神道四品縁起」
真野時綱「神家常談」
山崎闇斎「藤森弓兵政所記」
山崎闇斎「持授抄」
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合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。
●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。
●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人①

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南④─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 続いて、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南述『古語・仮字講義』の内容を紹介する。
  古語・仮字講義
朱子文集曰。平居暇日。琢磨淬厲。緩急之際。尚不免於退縮。
 朱子士風の衰へたるを嘆いて言ふ、平生家に居て暇有る日志を高うし氣を盛にして専ら文武をはげみ、是を精うする事工人の玉を琢て磨ぎ刀を淬(きたう)てとぐが如し、然るに急難起りて死生決する際に至ては、前後顧慮し志恐れて退き縮る事を兔れず、平生文武をとぎみがきするものさへ尚如此。
況游談聚議。習爲軟熟卒然有警。何以得其仗節死義乎。
 況や平生あそび聚りて無盆の咄をし、国家の用にもあらぬ世説の沙汰をいたし、彼処の風景此処の草花を亙に争ひ議かり、酒茶の会碁画の翫等の柔弱なる事になれ染み、これを風雅の事として日を送るもの、卒に事の出来て一大事と云ふ場に臨むで、何を以て身を節に仗り命を義に隕(おと)す事を得むや。
大抵不顧義理。只計較利害。皆奴婢之態。殊可鄙厭。
 凡そ士たる者は義を精ふし事理を明にして、身も心も義理のうちへ入れ置くべし、義理を後にして不顧明暮利害を計較して身の勝手便を求るものは、皆下部奴婢の態にして君子の殊に鄙み厭ふべき事也。
☞[続く]

『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉

幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

 明治維新を導いた幕末の志士とはいかなる存在だったのか。彼らが極めんとした学問とはどのようなものだったのか。それを知るための貴重な一冊がある。平泉澄門下の鳥巣通明が、明治維新100年に当たって著した『明治維新と志士』(神社本庁 明治維新百年記念叢書 2、昭和41年)である。
 鳥巣は「志士の性格」の一節で、次のように書いている。
 〈おそらくマス・コミの影響によるものであらう、志士と云へば、世間ではとかく花柳の巷に出入りしては新撰組や幕府側の捕吏と血斗する姿を連想する人が多いやうである。テレビ・映画や小説をすべてフイクションと云ふのではない。牒報網や密偵をまくために、彼等は料亭や遊廓を利用して会合することが多かつた。明日をもはかられぬ生命である、時に生活が奔放に流れる者がゐたのも事実であつた。そこに、明治から今日まで跡を絶たない待合政治の源流がある、と説く人もゐるほどである。だが、それは志士たちの生活の一コマにすぎない。しかも彼等の間には、そのやうな生活を自戒する雰囲気が強かつたのである。例へば、長州の志士井上聞多が高杉晋作と一緒に京都三条通りの旗亭に投宿した時、同じく松下村塾で学んだ野村和作・入江九一が訪ねて行つて、
 朝廷でも憂慮せられ、藩公も日夜国事に奔走してゐる時勢だから、われわれも妓楼や旗亭で国事を談ずることはつつしむべきだ。同志一同協議した結果、今後妓楼・旗亭に登るのをやめることにし、違反する者があれば、詰腹を切らせることにした。貴君等もこの盟約に加入されたい。
と申入れてゐることを注目しておこう。岩倉が云つたやうに志士と市井の放蕩無頼の徒との間には、はつきり一線を画して論ずべきであらう。 続きを読む 幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

『GHQが恐れた崎門学』書評5(平成28年10月28日)

 作家・書評家の浦辺登氏に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の「hontoレビュー」(平成28年10月28日)を書いていただいた。以下、転載させていただく。
崎門学とはなんぞや。
 なぜ、GHQが恐れるのか。
 唯一、「明治維新を導いた国体思想とは何か」という副題に、明治維新に影響を与えた「何か」ということが理解できる。
 読了後、最も強い印象に残ったのは『靖献遺言』という浅見絅齋が著わした書物である。「あとがき」にも記されているが、頭山満、杉浦重剛、来島恒喜、荒尾精は崎門学の影響を受け、『靖献遺言』を読んでいたという。
 玄洋社生みの母と呼ばれる高場乱は『靖献遺言』を熱情込めて人参畑塾で講義したという。それを頭山や来島、平岡浩太郎、月成功太郎(元首相廣田弘毅の岳父)、進藤喜平太、奈良原至ら、玄洋社の主だった青年たちが受講していた。
 さらには、ご一新前、太宰府天満宮の延寿王院におよそ三年、三條実美を始めとする五卿が滞在した。この五卿警護のために土佐脱藩浪士、水戸脱藩浪士、久留米脱藩浪士などが従ったが、その警護役の志士たちは、毎月三日、『靖献遺言』の講義を受けていた。まさに薩長同盟、明治維新を画策した延寿王院において国体思想の『靖献遺言』が読まれていたことは感慨を新たにする。
 この五卿警護には久留米水天宮宮司であった真木和泉の子息、真木外記も含まれていた。さらに、この五卿の住居である延寿王院に近い場所には、真木和泉の弟が養子に行った小野家があった。今も、太宰府天満宮境内に小野家の邸跡には「定遠館」が残っているので、容易に場所を特定できる。
 本書でさらに驚くのは、239ページに登場した岡次郎である。同ページにも記述があるが、岡は上海に荒尾精が開いた日清貿易研究所に学び、日清戦争では通訳官として従軍もしている。この岡の師匠は長崎・平戸藩の楠本碩水だが、平戸藩からは岡の他に浦敬一、岡幸七郎という若者が荒尾のもとに結集した。いわば、崎門学つながりであり、『靖献遺言』つながりである。
 蛇足を承知で記せば、日清貿易研究所に学んだ鐘崎三郎の父は太宰府天満宮の社僧であり、平戸藩主お抱えの絵師でもあった。鐘崎も太宰府天満宮の小野家とは縁戚関係にあり、真木和泉との関係性も薄からぬものがある。
 ここに、ひとつの大きな流れが見えてくる。
 崎門学、『靖献遺言』というキーワードでありながら、西郷隆盛が目指した「東洋経綸」にすら行き着くのである。玄洋社の平岡浩太郎が西南戦争勃発の報に、急ぎ薩軍陣地に向かったのも頷ける。
 果たして、「征韓論」とは何だったのか。
 話が大きく飛躍していると思われるが、歴史というものは百年、千年のスパンで俯瞰しなければ見えてこないものがある。その一本の支柱ともいうべきものは思想しかない。その原典が崎門学であり、『靖献遺言』であるということが本書を読み進みながら見えてきた。
 明治維新百五十年とマスコミは持て囃すが、私たちは何か、本当に重要な「何か」を見落として現代ににまで至ったのではないか。
 そう内省させる一書だった。
 願わくば、巻末に人名録があれば人間相関図を描くのに便利と思った。

川面凡児『建国の精神』目次

 
川面凡児『建国の精神』(稜威会本部、大正7年)目次。神道的宇宙観において、今泉定助に対する川面の影響が窺われる。
(一) 発端
(二) 目録
(三) 天壌無窮の神勅と神籬磐境の神勅との表裏
(四) 神代の世界的活動と奈良朝以後の島国的蟄伏
(五) 日本民族性、国民性と宇宙観、天地観、世界観、原人観、霊魂観、処世観
(六) 我と彼とはその究明を異にする事
(七) 唯一不二の根本大本体と世界列国の言語名称解釈
(八) 宇宙根本信念と国家統一と民族の興廃
(九) 日本民族の宇宙万有観
(十) 天神中主太神と空間、対象、宇宙 続きを読む 川面凡児『建国の精神』目次