「高山彦九郎」カテゴリーアーカイブ

『稿本八女郡史』「勤王志士伝」①

 『稿本八女郡史』「勤王志士伝」には、八女縁の勤皇志士として、真木和泉のほか、大鳥居理兵衛、古賀簡二、鶴田陶司、松浦八郎、水田謙次、小川師人、淵上謙三、淵上郁太郎、角大鳥居照雄、大鳥居菅吉、古松簡二、横枕兎平、横枕覚助、国武鉄蔵、井上格摩、平彦助、黒岩種吉、下川根三郎、真木直人、木原貞亮、吉武信義、荘山敏功、吉川新五郎、石橋謙造、中村彦次の25名を挙げている。
 このうち、真木和泉、大鳥居理兵衛、古賀簡二、鶴田陶司、松浦八郎、水田謙次、小川師人、淵上謙三、大鳥居菅吉、古松簡二、横枕兎平、横枕覚助、国武鉄蔵、井上格摩、平彦助、黒岩種吉、下川根三郎の16名の小伝は、山本実が明治28年に編んだ『西海忠士小伝』にも収録されている。
 このうち、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に収録されている人物略歴を以下に掲げる。
●大鳥居理兵衛(おおとりい・りへえ)
1817-1862 幕末の神職。
文化14年8月22日生まれ。筑後(福岡県)水田天満宮の神主。嘉永5年藩政改革をとなえて謹慎処分となった兄の真木和泉をあずかり、平野国臣ら尊攘派とまじわる。文久2年脱藩して京都にむかうが、下関で藩吏に説得され、帰藩途上の2月20日自刃した。46歳。本姓は真木。名は信臣。号は平石。通称は利兵衛ともかく。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
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高山彦九郎と久留米⑥─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●高山畏斎の学問を継いだ「継志堂」
高山彦九郎は、寛政三(一七九一)年十一月に、上妻郡津江村(現八女市津江)の「継志堂」を訪れている。三上卓先生は、この訪問について次のように書いている。
 「飄然として此地を訪れた先生は、同塾及び(高山)畏斎の高弟の一人たる郷士牛島毅斎の家に宿つて、畏斎の高弟達と会談し、尊皇の大義を提唱し、毎夜屋上に登つた天文を観測したと伝えられる」
 このとき彦九郎は、「筑後の文武は上妻にあり」と賛嘆したとも伝えられている。
 継志堂は、崎門の高山畏斎(金次郎)の私塾「高山塾」を継承する形で、彼の門人たちが設立した塾である。畏斎は崎門の三宅尚斎派の留守希斎に学んだ。また、三上先生は、畏斎が「垂加学を長峡蟠龍に受けた」と書いている。
 畏斎は、「人は勉強しなければだめだ。学問とは、生命の理、日常の努め、古今治乱興亡の事跡など、何もかも知り尽くしてその知識を活用することである。書物にとらわれたものでなく、生きた学問をせよ」と教えていたという。
 天明七(一七八七)年に来遊した仙台の碵学志村東蔵が、畏斎に対する門人たちの追慕の情の厚さに感じ、「継志堂」と命名したという。その後、畏斎の門人達は、八幡村の会輔堂(今村竹堂)、黒木の楽山亭(古賀貞蔵)、津ノ江および忠見の三省堂(牛島毅斎のち川口省斎)を設け、崎門の学風を広めた。
 ここで特に注目されるのが、今村竹堂が畏斎に学んだだけではなく、崎門正統派の西依成斎にも学んでいたことである。そして、今村竹堂の長女と上妻郡溝口村の医師清水濳龍の間に生まれたのが、明治四年の久留米藩難事件で終身禁獄の宣告を受けた古松簡二(清水真郷)(☞参照:古松簡二①─篠原正一氏『久留米人物誌』より)である。

高山彦九郎と久留米⑤─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●亀井南冥の都府楼碑銘
 唐崎常陸介は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、有馬主膳の茶室「即似庵」を訪れた。『高山彦九郎』(三上卓先生)には、当時、主膳から唐崎に宛てた書簡が引かれている(百八十二頁)。
 「爾来隣国所々御経過の次第、尾関方へ御細書被下、是亦□致伝承候、筑前にては竹田、亀井等へも御出会被成候よし……此節猶更先生の大名致光輝、中津の雅会は寔に活斗於小生も不堪雀躍奉在候」とあり、さらに「大宰府碑銘等御見せ被下、思召忝在候」とある。
 三上先生は、ここにある「大宰府碑銘」について、〈或は亀井南冥黜貶の理由となつた有名なる都府楼碑銘であらうか。同銘の序文の末尾に「伏シテ惟フニ当今封建ノ国邑、名器古ニ非ズ」と封建制度の我國體と相容れないのを道破した南冥の見識は、恐らく諸国に於ける 尊皇同志の間に歓迎賞賛されたことであらう〉と書いている。
[続く]

有馬主膳と高山彦九郎─『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』より

 
●垂加翁伝来神道奥秘口訣を相伝許可される
 昭和18年、高山彦九郎先生慰霊会によって『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』が刊行された。日記原本は有馬主膳が所有していたものであり、その後、有馬秀雄が襲蔵していた。同書には、「有馬守居翁小伝」として以下のように書かれている。
〈別名 有馬守居、初め純次と称し、後主膳と改む 其の邸宅が久留米城内二ノ丸の東南隅なる傾斜路の辺に在つたので阪低窩と号し、剰水或は是誰とも称した。是誰の雅号は京都大徳寺の大順師の撰ひ所である
又書屋名を「虚受軒」と名づけ所蔵の文籍には、虚受軒蔵書又は虚受庫の印章を捺してゐた。「虚受」の語は、晋書礼志中の「君子虚受、心無適莫」に取つたので、これ「己を空うして、人言を容れる」の義である
守居が藩老として寛裕博く忠言を求めて、修省献替に努めたことが察知せらるゝ。
即似庵 篠山城東郊外─森嘉善宅の北方約二丁、現今久留米市東櫛原町久留米商業学校の北部─なる翁の別墅の廬舎を「即似庵」と称した これは寛政の初年、茶道の師たる孤峰不白の設計指揮によりて築造されたもので、園内に数百年を経て枝葉欝蒼として四辺を圧する一大樟樹があつたが、惜い哉近時柯葉次第に枯槁するに至つたので、此の名本も遂に伐斫された。
此の庵室は明治の中期、久留米藩番頭稲次家の後裔亥三郎氏が買収して、市内篠山町なる自邸に移したが今に現存してゐる
翁は皇室尊崇の念が篤かつたので、寛政の比尊皇斥覇の潜行運動に奔走した、上毛の俊傑高山彦九郎、芸州の志士唐崎常陸介等が、相前後して久留米に来た時は、此の別業を中心として、森嘉善・樺島石梁・尾関正義・権藤壽達・高良山座主伝雄等と交通往来し、雅雛に託して国事を談じたのである
(中略)
晩年深く山崎闇斎の垂加神道を信じて……唐崎常陸介に就いて、同神道の「三種神宝極秘伝」「神籬磐境秘伝」其の他垂加翁伝来神道奥秘口訣等、悉く相伝許可を得た人である。〉

高山彦九郎と久留米④─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●即似庵継承の精神
 『高山彦九郎』(三上卓先生)は、久留米藩国老・有馬主膳の茶室「即似庵」を「九州の望楠軒」と称した。同書には、即似庵遺跡の写真を掲載し、以下のような説明を付している。
 「高山、唐崎両先生が久留米の同志と密談した即似庵遺跡は久留米市東櫛原町久留米商業学校裏手にある。附近一帯の老樟欝蒼たる地は国老有馬主膳の別邸跡にして、即似庵なる茶室は左端の家屋(現住者は久留米新勤王党の同志の一人たる林田瀬兵衛守隆の子息峰次氏)の位置にありしも、維新後市内篠山町中学明善校裏門附近に移され、稲次亥三郎翁居住さる。翁は真木和泉守門下の高足たる稲次因幡の後嗣、因幡は佐幕派の弾圧に逢ひて憤死せし勤王家なり」
 林田守隆は、慶応4(1868)年正月、小河真文ら勤皇派の同志とともに、親幕派の参政不破美作暗殺に参加。久留米藩で組織された「応変隊」の小隊長として戊辰戦争に従軍し、箱館戦争で功を立てた人物である。
 明治4(1871)年の久留米藩難に際しては、藩知事有馬頼咸の命を受け、本庄一行とともに東京から久留米に派遣され、水野正名や小河真文らと交渉し、事態の収拾にあたった。晩年は真木保臣先生顕彰会会長などに推戴された。
[続く]

高山彦九郎と久留米③─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●垂加神道の伝書を伝えた唐崎常陸介
 久留米への崎門学の浸透において、高山彦九郎の盟友・唐崎常陸介は極めて重要な役割を果たした。
 唐崎は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、櫛原村(現久留米市南薫町)の「即似庵」を訪れた。即似庵は、国老・有馬主膳の茶室である。主膳は崎門派の不破守直の門人である。不破は、久留米に崎門学を広げた合原窓南門下の岸正知のほか、崎門学正統派の西依成斎にも師事していた。
 即似庵は、表千家中興の祖と言われる如心斎天然宗左の高弟・川上不白の設計により、寛政元年に起工し、寛政二年秋に落成した。三上卓先生の『高山彦九郎』には、次のように描かれている。
 「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし、隠然として筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んでは其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅(べっ しょ)を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう。
 唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し、筑後の学風に更に一段の精采を付与した。…唐崎より有馬主膳に伝へた垂加神道の伝書其他の関係文献は今尚後裔有馬秀雄氏の家に秘蔵されて居る…」
 有馬秀雄は、明治二年に久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、帝国大学農科大学実科卒後、久留米六十一銀行の頭取などを務めた。その後、衆議院議員を四期務めた。
 唐崎から有馬主膳に伝えられた文献のうち、特に注目されるのが、伝書の末尾に「永ク斯道ニ矢ツテ忽焉タルコト勿レ」とある文言と、楠公父子決別の図に賛した五言律の詩である。
 百年物を弄するに堪へたり。惟れ大夫の家珍。孝を達勤王の志。忠に至る報国の臣。生前一死を軽んじ。身後三仁を許す。画出す赤心の色。図を披いて感慨新なり
 さらに、唐崎は垂加流兵学の伝書も伝授したらしい。
☞[続く]

合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。
●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。
●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人①

高山彦九郎と久留米②─三上卓先生『高山彦九郎』より

 『高山彦九郎』(三上卓先生)は次のように、久留米における崎門学の浸透を描いている。
●極点に達していた久留米の唐崎熱
 〈しかも彼(合原窓南)が京都に師事した人は絅斎先生浅見安正であつた。蓋し佩刀のハヾキに赤心報国の四文字を刻し、平生特に大楠公を崇拝し、生涯遂に幕府の禄を食まなかつた闇斎の大義名分の思想は、窓南の教育によつて或は久留米城下に於て、或は上妻の僻村に於て、上は士大夫より下は農村の青年に至るまで、漸々として浸潤したのである。窓南先生こそ久留米藩学祖と称すべきであらう。
 すなはち藩の名門岸正知、稲次正思、教を窓南に乞ひて夙に名あり、藩士不破守直、杉山正義、宮原南陸も亦錚々の聞えあり、広津藍渓は上妻郡福島村の青年を以て馬場村退隠中の窓南門下より傑出した。そして不破守直は更に若林強斎門下の西依成斎及び松岡仲良門下の谷川士清に就いて教を受け、不破の門下に有馬主膳、尾関権平、不破州郎等あり、正義の子に杉山正仲あり、南陸は子に宮原国綸あり、弟子に樺島石梁あり、……しかも窓南の影響はこれのみには止まらなかつた。彼の退隠地馬場村の隣村津江の貧農に生れた青年高山金二郎は、夙に発奮して学に勉め、宝暦年間遂に崎門三宅尚斎の高足たる大阪の硯儒留守希斎の門に遊んで、……留学百カ日にして崎門学の大事を畢了して故郷に帰り、門下に幾多の青年を養成したのであるが、天明三年藩儒に登用され、同年不幸病歿した。享年五十八。けだし窓南歿後の窓南とも称すべきである。後世その号を以て之を敬称して高山畏斎先生と云ふは此人である。
 窓南先生の遺業は斯の如く広大であつた。かくて久留米一藩の支配的学風は全く崎門学派の影響下に在り、寛政、享和の頃に至つては、崎門の学徒は士民の隔てなく尨然たる交遊圏を構成し、名を文学に仮つて陰に大義名分の講明に務めて居たのである。唐崎常陸介が来遊したのも此時、高山先生が来訪したのも此時。そして寛政二年秋の唐崎の第一回久留米来遊は、この学的傾向を決定的に灼熱化し以て高山先生の来遊を準備したのであつた〉
 三上先生は、以上のように指摘した上で、尾関権平が湯浅新兵衛に宛てた書簡に基づいて、唐崎と久留米藩士との交遊は、伊勢の谷川士清を通じて、既に天明年間から十数年間の文通によって用意されていたと述べている。そして、寛政二年初秋頃、尾関権平や不破州郎らが唐崎に宛てたと思われる書簡を引いて、「久留米に於ける唐崎熱はその極点に達して居たことが窺われる」と述べている。
[続く]

高山彦九郎と久留米①─三上卓先生『高山彦九郎』より

●なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか
 なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか。それは、久留米における崎門学の興隆抜きには語ることができない。特に、この地の崎門学浸透を主導した合原窓南・その門人と、彦九郎の盟友・唐崎常陸介との交流は大きな意味を持っていた。
 自ら昭和維新運動に挺身した三上卓先生が、『高山彦九郎』(平凡社、昭和15年)を著したのは、昭和維新運動を高山彦九郎から真木和泉に至る朝権回復運動の継承と位置付ける意識が強まったからだと考えられる。『高山彦九郎』は、権藤成卿門下で久留米史研究者の井上農夫が収集した史料に基づいて書かれており、九州における崎門学派の思想と運動の展開について独自の意義づけをしている。
 同書に基づきながら、久留米が彦九郎終焉の地となった意味について考察していきたい。同書は合原窓南の役割に注目し、合原に師事した広津藍渓が書いた碑文を引いている。
 「先生生れて顛悟、自ら読書を好み、年十一出家僧と為り法を四方に求む。既に壮にして自ら其非を悟り、蓄髪儒と為り、講学愈々篤く、礪行益々精しく、名一時に震ふ。吾藩宋学の盛んなる、蓋し先生先唱を為せば也。寛永六年、梅巌公(第六代藩主・有馬則維、引用者)召して俸を賜ひ、以て学を士大夫に授けしむ。生徒日に夥し、居ること十余年疾を以て隠を上妻郡馬場村に請ふ。是に於て国老以下諸士、相追随して道を問ふ者日夜絶えず、僕従衢を塡む。大悲公(第七代藩主・有馬則維)立を延いて侍講と為し、更に稟米二十口を給し、秩竹間格に班す。又其老ひたるを優し、籃輿(らんよ)に乗つて以て朝し、且つ朝に在つて帽を著し寒を禦ぐを許す、蓋し異数と云ふ。元文二年八月二十日疾をもて卒す、享年七十五。〉
[続く]

小河真文⑤─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 以下、寺崎三矢吉手記「小河真文」の抜粋である。

●「孝明天皇の御遺書を奉戴して為せしこと」

 〈小河家は久留米藩の馬廻格知行三百石を有し、小河は十六歳の時父の後を襲ぎ文武両道を研究し、十八歳の頃より勤王の志益々固く、有馬孝三郎、島田荘太郎、板垣太郎等を同志とし常に王室の式微を慨歎し、幕府の横暴を憤怒し、高山彦九郎・真木和泉守等の横死を悲歎し、何とかして王政の復興を計らんことを期せり。
 小河は佐々金平と刎頚の友たり。互に実名を真武とせんと、真武真文の争ひ決する所なし。遂に抽籤を以て決定することゝなり、籖を作り、之を抽きたるに自分が真文と引当てたれば、佐々が真武となり、自分が真文となれりと云ふ。先生十八歳の時自分の胆力を試練せんが為め、一週間丑の刻に高良山奥の院へ参詣せしも、何等異状なかりしと云ふ。
(中略)
 小河は実に久留米藩の方向を一瞬間に転回し、藩主の危機を救ひ、夙昔勤王の志を遂げしものと云ふべし。其藩論一定するや、上京して公用人となり、水野正名と共に外交の事を掌りしが、水野の公議人となれるや、小河は副公議人となり尽力せり。又水野を助けて各藩と禁裏護衛の任に当れり。其際小河は水野と謀り、浪士四百人を募集し、進撃隊を組織し、奥羽追討に向はしめしに、其活動抜群なりしを以て、藩は小河の功績なりとし賞詞を与へらる。而して前途有望の志士として重視せられしが、不幸にも突然不治の悪疾を発し、辞職の止むなきに至れり。
 小河は久留米に帰り実弟助三郎に家督を譲りて退隠静養し居りしが、強ひられて藩の参政兼軍務参謀となり、政兵の枢機に参じて功績少なからず、藩主之を賞し別家百石を与へられしが、後之を奉還して一切の公務を辞せり。小河は一切の公務を辞して閑地に就きたりと雖も、勤王の志は一時たりとも念頭を去る能はず、常に国事を談じ居たり。因て遠近の志士来り訪ふもの織るが如し。小河は常に孝明天皇の御遺詔を謹写し懐中せり、故に日田より東京に檻送せらるゝとき、先生は余に対し断獄吏が不軌を企て恐入つたかと云ふに対し、自分は孝明天皇の御遺書を奉戴してなせしことなれば、毫も恐入る所なしと答へたりと云はれたり。之れが小河と幽明隔つる最終の面会なりしなり。
(中略)
 先生死刑の宣告を受け、伝馬町牢屋にての辞世歌
  たらちねに、かくとつげなん、言つても、たれだにとひとふ、人しなければ
 先生の遺骸は有馬孝三郎等之を受取り、東京芝区三田小山町当光寺に葬る。大正二年三月、板垣太郎が主となり、久留米市京町梅林寺境内に移葬し、板垣自ら墓守となり菩提を営めり。
[続く]