「思想について」カテゴリーアーカイブ

国を守る精神

いわゆる「日本国憲法」には、欺瞞が含まれている。軍備を持たず周辺諸国民の公正と信義に期待するとしていながら、実際は日米同盟という対米依存体制によって国防がなされている欺瞞である。

安倍内閣も憲法改正を目指しているが、この対米依存体制に手をつけようとしていない。こうした状況での憲法改正は非常に危険である。まず日米同盟を破棄し、次に日本国憲法を(改正ではなく)破棄すべきである。
結局戦後日本人が日本国憲法=日米同盟体制で放棄したものは、戦うことも辞さない義を胸に抱く生き方ではないか。己の身のみやすかれと経済成長に狂奔したあさましい生き方を肯定したのが戦後であった。魂の理想を貫く良心の力が退行してしまった。
「独立」という概念が日本国憲法=日米同盟体制には決定的に欠けている。政治上、経済上、道徳上、学問上の独立である。こうした独立を重んじるために、戦前の人は「皇道」という言葉を使った。皇道とは、人と人との関係を権力関係とせず、道義の関係とすることである。自分自身が真剣に生きようとしたとき、皇道は重要な概念である。自らの内に潜む義の魂をあくまで守って、自己の本分を尽くす。独立は、ここから始まるのである。

保身の思想と売国

山本太郎議員が入管法改正のとき、「賛成する者は二度と保守と名乗るな! 官邸の下請け! 経団連の下請け! 竹中平蔵の下請け! この国に生きる人々を低賃金競争に巻き込むのか? 世界中の低賃金競争に。恥を知れ! 二度と保守と名乗るな! 保身と名乗れ! 保身だ!」と叫んだそうである。まさに至言である。政治家にして愛国心がなく金儲けばかり考えているさまは絶望的ですらある。

例えば中共には数々けしからん面がある。だが、中共はアジアの覇権や国際外交の席巻に向けて日々軍事外交努力を惜しんでいない。一方我が国は官民あげて移民や外国人観光客を呼ぶことばかり考え、外交は対米追従の姿勢を崩そうとしない。世界が中共をみることがあっても日本をみることがないのも当然だ。

政治家や官僚は国を救わない。議会政治になどわずかの期待も持つべきではない。ましてや自民党の太鼓持をするなど論外である。
マルクス主義も資本主義も、モノやカネを問うているのであって、心ではない。勇気や夾侍、協動を問うのは伝統思想の側である。
結局、命大事、死ななきゃ何でもよろしいという保身からは、売国しか生まれてこないのである。
現代日本人は共産主義の迷妄から覚めたが、返す刀で資本主義への迷妄を深くした。それでは国は救えないのだ。

田尻隼人『渥美勝伝』より

田尻隼人『渥美勝伝』の中に「戯曲桃太郎維新旗」が収録されている。その一節を引用する。

皆さん、わが国、今日の状態は、あらゆる方面から観察して、それが決して、有り得べき真の日本の姿ではないといふことを、痛感せずにはゐられないのであります。今や、仏教、儒教、キリスト教以外に明治初年以来、わが国に発達してきたところの物質文明あり、社会主義あり、資本主義あり、自由主義あり、自然主義あり、それらはもちろん、新時代のおのづからなる要求によつて発達したものであり、従つて採るべき長所の多々あつたことは云ふまでもないのでありますが、いづれも西洋流の個人主義に立脚するものであり、わが国情、伝統を抹殺して顧みないものがあるのであります。その余毒の及ぼすところ、つひに日本人が、日本人として持つべかりし本来のイノチ、タマシヒ、ミコトを失つてしまつたのであります。広瀬中佐は―おれの頭には、世に二つとない尊い守り本尊をいただいてゐるといはれたさうでありますが、キリスト教徒は、この守り本尊は、キリストの信仰であるといひ、仏教徒は釈迦の信仰であるといひ、儒教においては、これを仁の道であるといひます。またカントの流れを汲むものは、粛然たる良心の絶対命令であるといひます。唯物史観を奉ずるものは、功利的価値に帰せんとするものであります。各々おのれの信ずる主義、信仰の上に、これを持ち来ることは当然であつて、敢て怪しむに足らぬのであります、が、然し、日本民族本来の信念によりしますれば、この世に二つとない守り本尊なるものは、まことに畏れ多きことでありますが、 天皇陛下の大御稜威以外の何ものでもないのであります。(中略)日本臣民たるものが、この尊い守り本尊を私することは断じて許さないのであります。それと同様に、政治家が、政治を私し、財閥が財産を私し、労働者が労働を私しすることの許されないのは当然であります。(222~223頁)

スロー運動の真意

本日はわたし自身の備忘録、メモ的更新である。

だいぶ以前からの動きであるが、スローライフ、スローシティ、スローフードという動きがある。スローフードの運動は日本でもよく知られているが、せいぜいマクドナルドなどのファーストフードを食べない運動としか理解されていない。しかし実はスロー運動は深い内容を持っている。

スロー運動は俗に言って大量生産、大量消費から地産地消型の動きに転換していこうというものだ。こうしたスロー運動は土着の文化、つながりを基盤としており、例えば各地で伝統的に栽培されている作物の保護、復興や有機農業なども訴えたりしている。
ホルモン剤や抗生物質を大量投与して無理矢理育てられた畜産物や遺伝子組み換え作物など、大量生産大量消費社会の中で生み出されたものの中にはどう考えても自然の摂理を無視しているものが目立つ。そうしたものへのアンチテーゼもスロー運動の一環なのだ。

先鋭化した場合は、ジョゼ・ボヴェのように、マクドナルドの建物を破壊する人物も現れている。ボヴェは、WTO(世界貿易機関)を「健康と食料、労働などあらゆる人間の営みに侵食する『執行権』『立法権』『裁判権』を兼ね備えた『市場原理主義の超権力』である」と述べているが、まさに農作物を「知的財産権」をタテに私物化するグローバル種子企業の暗躍に対する憤りをも連想させるものである。

もちろん農作物などに限らず、仕事などにおいても人もいつでも入れ替え可能な方向に変えられようとしている。スロー運動は目先の農業問題等も主張するが、より根源的に「この世界すべてがカネで置き換え可能なものにされつつある」現状への抵抗、変革運動なのである。各地が培ってきた文化、歴史などを尊重することもそれにあたる。

権藤成卿の思想の真価について

いよいよ権藤成卿生誕百五十年祭が明日に迫りました。お越しになる方はもちろん、お越しになれない方も権藤成卿について知っていただけたらと思います。

さて、権藤成卿は慶応四年生まれ。慶応四年は明治元年に代わる年ですから、権藤の生涯は、明治維新後の日本を象徴する存在と言えるでしょう。

権藤成卿は、農本主義者、アナキスト、漢学者、復古主義者、東洋的無政府主義者、ファシスト、制度学者、皇典学者、ニヒリスト…と、さまざまな肩書で呼ばれました。権藤自身はそうしたレッテルはどうでもよかったようです。権藤の胸にあったのは、同朋の窮状を救うこと、そして明治維新のやり直しでした。

権藤成卿には最晩年に『血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件その後に来るもの』という本を書いています。書肆心水から『行き詰まりの時代経験と自治の思想』と題を変えて復刊されています。権藤は五・一五事件に思想的影響を及ぼしたと言われていますが、蹶起の計画には直接関与していなかったため、早期に釈放されて、二・二六事件の後まで長命を保っていました。この本は亡くなる一年前に刊行されたまさしく最晩年の本と言えるでしょう。

その本で権藤は、明治維新の本質について議論を向けています。
明治維新の本質は勤皇・倒幕にあるといい、薩長藩閥は、倒幕を成し遂げた功績はあるが、その後結局徳川の勢力を打倒した代りに薩長がその位置についただけに終わってしまったという。
維新に至る機運を醸成した人間として、竹内式部、山県大弐、高野長英、渡辺崋山の名前を挙げ、特に自分(権藤)の学統から言えば竹内式部、山県大弐によるところが多いと言います。
また、そこで引用されているのは樽井藤吉の『明治維新発祥記』です。

権藤は常に当時の現況を以下に救わんかという観点で発言し続けた論客です。しかしその発言は単に時勢論に留まらず、明治維新が徳川幕府から薩長幕府に代わってしまったことへの批判意識が強かったことの証左ではないかと思います。
権藤成卿の思想の真価はここにあるのではないでしょうか。
自治、農本主義、と言われる権藤ですが、それらはあくまで手段であり、この本質を見逃してはならないと思います。

いまも長州の血統を持つ安倍晋三総理が政権を受け持っていますが、現代のわれわれも、この「維新のやり直し」という観点を忘れてはならないと思います。もちろん「武力倒幕」がすべてではありません。権藤もそうした「武力倒幕」には大きな期待を寄せていませんでした。何よりも重要なのは国民一人ひとりの自覚です。日本の本質を自覚することが何よりも求められていることなのです。

橘孝三郎と柳宗悦

橘孝三郎と柳宗悦はともに近代都市文明から逃避し、伝統的社会に自らの居場所を求めた。彼らは先天的に伝統的ムラ社会の住人だったわけではない。彼らは後天的に農村に生きることを獲得したのである。

橘孝三郎と柳宗悦の直接的接点を見出すのは難しい。だが、橘孝三郎の兄弟村にはミレーの絵とともにウィリアム・ブレイクの絵も掲げられていたという。ブレイクこそ柳の原点であり、両者の関心が近かったことをうかがわせる。橘孝三郎の妹はやの二年先輩で親しい中だった人物は、柳宗悦の妻兼子であった。宗悦・兼子夫妻ははやを訪ねて水戸に赴いたこともあったという。両者がそこで出会っていた可能性も高い。

そうした人脈的つながりだけではなく、柳と橘は伝統を信仰的に理解していたことも共通している。
柳は「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)と述べている。ここでの柳にとっての「伝統」は「信仰」に近い。
柳は民藝を共同体によって生み出されるものとして捉えていた。したがって民藝は高名な芸術家によって生み出されるのではなく、無名の庶民が自らの必要に従って作られるものと考えていた。一方で資本主義社会がもたらす機械的な量産をあさましいものと思い、共同体に培われた文化を破壊するものとして捉えている。

橘は「日本愛国革新本義」で、「東洋の真精神に還って、世界的大都市中心に動かされつつある個人本位的烏合体的、寄合所帯的近世資本主義を超克、解消し得るに足る、国民本位的、共存共栄的、協同体完全国民社会を築き上げることより外ないと信ずる」と述べた(『現代日本思想体系31超国家主義』222頁)。また、「社会主義と言はず、個人主義と言はず、西洋唯物文明精神の本質に属する思想はその唯物精神の然らしむる処に従つて、だんだん聞いてゆくと、結局人間といふものは「胃袋と生殖器」だといふ事になつてしまふようだ。(中略)成程、人間は胃袋と生殖器に違ひない。さういふ言葉にはまことに耳聴けなくてはならん真理がある。然し、胃袋と生殖器である人間は同時に、頭脳と心臓であつた事を忘れてはならない」(『農本建国論』237頁)。
橘も物質文明を超克するところに共同体の意義を見出していた。

大杉栄と権藤成卿

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想は稀だ。精神そのままの行為はなおさら稀だ。生まれたままの精神そのものすら稀だ。
(中略)
僕の一番好きなのは、人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。

大杉栄の「僕は精神が好きだ」の一節である。わたしの好きな詩でもある。
この世の現実は保守とリベラルのせめぎあいである。だがそうした現実そのものへの批判的意識が、思想家には必要だ。思想は党派性を拒む。党派から発言するようになった時、人は思想家から政治家になる。

大杉栄が死んだとき、内田良平は良いことだと喜んだ。それを知った権藤成卿は、内田と義絶した。
たしかに権藤と大杉には親交があった。だがこれは親交ある友人が殺されたというのに喜ぶとは何事だ、という話では恐らくない。権藤は内田のブレーンだった。大杉以上に内田と親しく、同志と言ってよい間柄であった。にもかかわらずなぜ縁を切ったのか。根拠のないわたしの妄想に過ぎないが、恐らく権藤は、内田は党派から発言するようになってしまったと、深刻に失望したからではなかったか。
身一つで義侠心から立ち上がった男に対して、たとえ意見が違ったとしても、官憲に殺されて良かったなどといくらなんでも失礼ではないのか。そう感じたのではないだろうか。

たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していこうとする人、名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件である。この「狂」の感覚は、合理的で近代的な態度ではない。右翼か左翼か、そんなことはどうでもよい。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。権藤は、内田でさえも「狂」の感覚を失ってしまったのかという失望に深くさいなまれたのではなかったか。

今日の記事は皆様の目を煩わせるにはわれながらあまりにも根拠薄弱な妄想の類である。
だがこうとでも想像しない限り、権藤の行動は理解しかねるのである。

そして権藤の考えかどうだったかはさておき、「狂」の感覚を持ち続けることは、志あるものにとって何よりも大事なことだと思えてならないのである。

日本の根本問題

 いまわが国を覆う欺瞞と堕落、無関心と危機感のなさ、そういうものを見るにつけて鬱々とした感情に駆られるのだが、その思想的根源はどこにあるのだろうか。

 問題は、右翼でも左翼でも保守でも革新でもない。そういったものは冷戦構造の残滓である。そういった二分法を超えて、真にわが国の抱える問題の本質に迫らなければならない。

 それはGHQにより日本が弱体化された、という話ではない。もちろんそういう話も重要ではある。だが、占領から離れてから久しい現代にいたってもまだその迷妄から覚めないとすれば、それはわが民族の惰弱さを示す証左でしかないのではないか。

 日本は明治維新後、富国強兵、殖産興業の政策を勧め、それを「文明開化」であると正当化してきた。もちろんその背景には植民地化の恐怖があり、一端近代文明を受け入れたうえで日本の独立を達成しようという大攘夷の精神があった。わたしはその大攘夷の精神を嗤う者ではないが、それによる負の側面を見ないわけにはいかない。福沢諭吉は和漢の学を罵倒し、津田左右吉はご皇室が日本の神話に繋がっていることを、近代人の理性に堪えないと愚弄した。ベルツに「日本の歴史はない」といった輩がいるように、大攘夷の精神の裏には、日本の歴史や伝統、信仰を否定せずにはいられない何かが潜んでいた。

 欧米ではいまでも職業の世襲や、地元の商店街を守るためのフランチャイズ資本の規制は珍しくないとも言われる。わが国は、後発近代化国であるからこそ、近代化を猛進(妄信)し、欧米以上に近代化され過ぎてしまった国なのである。

 和漢の学の代わりに入ってきたのが、資本主義の精神であった。人間は自己利益を追求する存在であり、人生とは要は銭儲けのことであるという考えが徐々に人々に染みついてきた。新自由主義者やそれを支援する財界に至っては、それ以外の生き方を述べる者をほとんど負け犬の遠吠えとしか見なしていない。
 しかしそうした連中の所業を軽薄だと見なす心ある草莽は、いまだ草莽でしかなく、連帯することもできずにいる。日本の真の危機は、ここにこそあるのではないか。

「伝統と信仰」(愛媛県師友会機関紙「ひ」)

愛媛県師友会機関紙「ひ」に掲載された拙稿「伝統と信仰」について本ブログに掲載する。

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伝統と信仰

義に生きる
人は義によって動き、義によって生きる。人間の魂から出た言葉は、人の心に働きかけ、魂を揺さぶり、義を貫く生きざまにいざなう。
吉田松陰は、高杉晋作や久坂玄瑞らと対立したとき、「僕は忠義をなすつもり、諸友らは功業をなすつもり」と言った。松陰は政府を転覆し権力を握りたかったのではない。ただ己の魂に働きかける忠義に突き動かされたのである。
愛国の情は国粋への信仰の念があって初めて成立するものである。自らの発言は国粋の殿堂に新たな黄金の釘を打ち込む姿勢でいるかどうか、常に問い続けなければならないからだ。愛国は、ちっぽけな功名心や政府に追従する気持ちとは峻別されなければならない。先人からの賜り物である伝統は、自己決定をはるかに超越したところで一人一人の人生の規範となっている。
 現代日本において、信じる力が絶望的に落ち込んでしまっている。われわれの日々の生活において、大いなるものに頭を垂れる機会は少なくなってしまっている。だが、大いなるものへの敬意と、自らの利害を超えた大義に参与したいという心は、本当に失われてしまってもよいのだろうか。

立極垂統
 竹葉秀雄は『立極垂統』で、天之御中主神から今上天皇まで続く系図を「立極垂統日嗣の道」として示したうえで、「この系図を観ておれば、あらゆる悩みはみぞぎはらわれ、更に之を礼拝信仰すれば、宇宙の大生命がそそぎこまれて躍動歓喜し、諸神・諸仏・諸天嘉し加護し給う」という。それは神代から続くわが国の根幹への確信であり、それへの奉仕を人々の使命とするのである。
 竹葉は『青年に告ぐ』で、「我自体が、神の自己顕現の相であるのであつて、欲望も神のものである」といい、「いちばん深い欲望を最もよく生かし、それぞれの欲望を正しく生かし、心の安んぜられる、天の声を聞いての行いをすることである」という。天の声を聞いて、それに基づく行いをすることこそが大欲であり、使命に生きる姿だとしたのである。現代人は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、精神の救済を後回しにしている。心ある人でさえ、その主張は単純な政策論議に限定されていて、その奥に潜む魂を問題としない。政府や市場は利害関係で人を誘導することはできるが、心まで支配することはできない。
 個人の生命は有限である。しかし、悠久の大義のために全身全霊を尽くせば、その魂は永遠に語り継がれることになる。国家には、そういう信仰が不可欠である。政治経済にばかり関心を向けて、こうした信仰、文化の側面を軽視すれば、国家は単なる大衆の集合体となり、各人の溌剌とした生命力を発揮する場所ではなくなってしまう。
『青年に告ぐ』の安岡正篤による序文では、「我々が現在享楽してゐる科学技術による産業的繁栄に対して、それに調和し、それを修正するような、精神的・理性的・道徳的発達が今後行はれなければ、恐らくそれは正しい意味の革命的努力でなければ、文明の没落は救はれまい」と述べられている。共同体が解体され、露骨な競争社会となりカネと暴力に支配される世の中になる。そうした負の側面を修正するのは、精神の働きなのである。竹葉は、神代から垂直に降りてくる道にこそ、この精神の働きを見たのである。

 安岡正篤は「口舌の徒」か
 竹葉の師である安岡正篤は、戦後は無論、戦前においても「口舌の徒」という偏見で見られていた。だが安岡が終生問題にしていたのは道義と信仰であって、それを確信しなければあらゆる政策の実行も無駄になってしまうと考えていた。それは一部の人間にとっては、抽象理論をもてあそぶ「口舌の徒」にしか映らなかっただろう。しかし、一番大切なものをおざなりにしておいて「具体的」な政策を云々することこそ無駄なことと言わねばなるまい。
 影山正治の『維新者の信條』に次のような一節がある。「維新者は、その本質に於て何よりも絶対なる国体信仰の把持者でなければならない。/如何に維新を論じやうとも、不動の国体信仰に徹せざるものは遂に維新者たることを得ない。/思想も理論も学も、破壊も建設も闘争も、政治も経済も文化も、すべてはこの信仰に根ざしてのみ考へられ、戦はれ、実現されなくてはならない。/国体は絶対に手段化さるべきではない。戦争遂行のための維新、資本主義否定のための維新、国民生活安定のための維新ではない。国体を明らかにするための維新、国体を実現するための維新であり、その結果として、戦争の遂行も可能となり、資本主義も否定され、国民生活も安定されて行くのだ。/維新とは単なる組織機構の変革ではない。神代復興であり、国体復帰である。この意味における世界の変革、価値の転換である。」(/は改行)
維新は世の革新である以上に己の原点回帰でなければならない。影山はどちらかと言えば排儒的な論客であり、儒学の素養をもとに発想していた安岡とは思想的背景が大きく異なる。だがこの二人は、共に道義と信仰の確立を目指した点で共通するものがある。
安岡は『東洋倫理概論』で「信仰と謂へば普通宗教の代名詞の様に解されて、道徳と対称せられるが、私はさう解さない。信は純一な生活であり、仰は理想の欣求である。其処には当然敬と懼とがなければならぬ」と述べたうえで、王陽明の、山中の賊より破りがたきは心中の賊だという逸話を述べ、さらに孔子の「信なくば立たず」の「信」をも、信仰と解するのである。安岡にとって信仰がいかに大きな問題であったかうかがいしれよう。

 天の声を聞く
 西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉は、大いなるものへの畏れを抱くこともまた人間に備わった愛しむべき感情であり、共同体に裏打ちされた道徳の先に「天」があることを教える。
 竹葉秀雄は『青年に告ぐ』で、「孔子も、釈迦も、キリストも、ソクラテスも、マホメットも、道元も、中江藤樹も、吉田松陰も皆その青年時代に、内奥の神の声を聞いて、その道に生きた人たちである」という。内奥の神の声は宗派を選ばない。どの先人も魂を揺さぶってやまない声に突き動かされたのである。
 例えば孔子でいうと、白川静は『孔子伝』で、哲人を「伝統のもつ意味を追究し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う。探究者であり、求道者であることをその本質とする」と定義したうえで、孔子を「述べて作らず、信じて古を好む」人であったとする。「述べて作らず」とは、天からの言葉を余すことなく記録し、伝統と信仰を後世に伝えようという精神である。
 伝統とは人生のあらゆる規範としてはたらく。伝統とは言葉を中心として構成される慣習のことだ。先人が「神」と呼んだ人智を超えた何か、そして人間そのものへの関心を言語化したものが「伝統」なのではないだろうか。過去を振り返って追体験し、各人に内在するものになった時、伝統ははじめて生きるものとなる。日本人の精神生活に根付いた伝統を信じようとするとき、まず行うべきは先人の言葉を虚心に受け取ることであろう。八百万の神の国であるわが国は、あらゆる事物に神性が宿るのと同時に先人にも神性を感じてきた。即ち天の声を聞くということは、伝統を信じることと不可分になる。
 哲学と求道は不可分のものである。思想とは単純な論理的正しさを問うだけのものではなく、人格の陶冶、社会の道義的進歩と結びつかなくてはならない。日本人の精神生活と信仰は切っても切れない関係にある。言葉一つとっても、日本人は言霊と呼び、言葉に魂が宿ると考えられてきた。人の心に宿るさまざまな感情の流れが言葉となって出てきた瞬間、天地をも動かし、神をも揺さぶる力を持つ。人は言葉によって、過去、未来、さまざまな人、ものとつながることができる。言葉こそ伝統であり、言葉こそ魂だ。してみれば人の魂が他の人の魂を揺さぶることができるのは、至極当然ではないだろうか。日本人の信仰とは、日本の伝統の上に咲く花である。

死者と生きる
明治時代の文明開化以降、信仰や伝統文化の影響力は小さくなる一方である。資本主義、ビジネス偏重の社会に抵抗する精神はほぼ見られなくなってしまった。現代人の生活は、より経済成長し、より消費し、より寿命を延ばした方が良いという物欲に常に煽り立てられている。われわれは否応なしにモノに塗れた生活に巻き込まれているが、そうした生活はどこか胡散臭い。なぜかと言えば、死と信仰の問題を置き忘れているからではないか。
平泉澄は『山彦』で次のように言う。「戦後社会の動搖、人心の不安、今に至つておさまらぬは、けだし過去との連鎖を絶ち、父祖の歴史を忘却した所に、その根本の原因があるのであらう。/およそ社会は、これを現在の相においてのみ見てはならぬ。死者もまたその構成分子であり、発言権を有するものである。それら先人の温情を体認して、初めて正しい道を歩むこともでき、歴史に参じてこそ、真に文化に貢献することもできるのである。」(/は改行)
わが国の土着的な信仰では、死者は遠いどこかに旅立ってしまうのではない。わが国土を離れず、故郷の山河や子孫の生業を見守っていると考える。お盆には死者が帰って来ると言われるが、生活に息づく信仰は死者の存在にあふれている。死者への弔事は死者に話しかけるような形で述べられる。死者の魂が天国や極楽と言った遠いどこかに行ってしまうと考えない世界観とも無縁ではないだろう。死者に囲まれ、見守られる生活には社会がある。死者を遠ざけてきた現代社会は、社会の代わりに市場が大きくなり、便利になる反面、どこか生活が窮屈なものになってきた。

 「利」の時代から「義」の時代へ
戦後、敗戦のショックから、人間は義では動かず利害関係で動くものだという世界観のもと、「義」よりも「利」、「公」よりも「私」という風潮がはびこった。問題なのは、そうした「義」よりも「利」の思想がGHQのもたらした平和に甘んじる自己の罪の意識を巧みに隠したことである。戦後は共産主義的義に対して「利」と「現実」を説くいわゆる「保守」が登場したが、結局彼らがやったことは日本国憲法と日米同盟の戦後体制を残存させたことだけだった。真剣にこれらの打破、克服を目指すならば、日本人が歴史的に抱いた大義に今一度立ち返ることが必要だ。近代以降、政治は君主と人民の慈愛による関係ではなく、人間の顔を失った権力の作用と反作用の応酬となり、人々は政治や経済政策にますます依存することになった。命令する側とされる側の区別は封建制の撤廃によりなくなると思われていたが、実際は、権力の作用と反作用は抜きがたく社会に存在し続けることとなった。
伝統を先例と混同してはならない。人々に宿る魂に学び、揺さぶられる敬虔な気持ちを忘れた途端、伝統は先例に逆戻りする。先例は制度であり、伝統は心である。制度が表面上変わっても、心が変わっていなければ、それは変わっていないのと同じことである。伝統とは精神の連続性である。伝統は、いつも変化しているにもかかわらず決して全面的に崩れない、社会の羅針盤である。伝統を考えるということは、国家について考えるということだ。
日本人が日本の伝統、信仰や文化を知らないで、次代に伝えず生きていてよいのか。日本の美質を称え、欠点を改善していくことは日本人に課せられた使命ではないのか。日本史を知識的に学んだだけでは日本史が人格を構成するまでには至らない。日本人がこれまで考えてきた考え方、発想が自らの発想と分かちがたく結びついていることを自覚し、その中で生きていくことを自認して初めて、自己の思想は深まるのである。
 あらゆる学問は国民、あるいは人類の幸福のため、叡智への敬意のために行われていた。それは公共性への深い信頼からなる行為に他ならない。だが、次第に学問は実証の名のもとに専門家の仕事となり、社会貢献を資本主義的、経済的価値にすり替えてしまった。近代思想の荒波の中で、人を魂から鼓舞するものが解体されていった。宗教もそうであるし、芸術、文学、音楽、そして学問もそうである。これらのものから人々が本当に理想とすべきものへの関心が薄れてきたように思われてならない。
 学問は世界を認識する手段に過ぎないというのが近代科学的態度であろうが、ある人々にとっては、学問は全身を捧げるべき「道」であった。学ぶことそのものが人生を「生きる」ことに他ならないのだ。自分が学んだことと自分自身が不可分になる。そうした態度から人を魂から鼓舞するものが生まれてくるに違いない。学問は世のため人のために役立たなければならない。だがそれは金銭的価値や計量的成果に置き換えられるものではない。
 
 おわりに
 竹葉は『青年に告ぐ』の最後にこう記している。「私は、祖国の明日を思うとき、胸痛むのである。/その青年が、祖国を愛せず、この高貴な伝統を捨てて顧みず、純真を失うて、/何の祖国の明日があらう。畏るべき後生をもたざる民族は、ついに存在の価値なく、滅亡にいたるであらう。/いまや、世界が、二十五時の暗黒を告げ、機械と組織の中に、人間性を喪失せんとして、アジアに光を求めているこの時。/そして今度の戦いの後、日本は敗れたけれど、アジア・アフリカの諸民族が、つぎつぎに独立して、アジアの心を求めているこの時。/資本主義と共産主義の争いが、ともに唯物に立脚していて終わることなく、ついには人類は破滅にいたることを知つて、第三の出生すなわち心と物の一致、心を持つ人間が、純粋経験によつて物を格しく体認して知を致し、意を誠にして、心を正し、天下を平にする道、そこに人間性の尊重と発揮のおこなわれる、光りの世界を求めている時。/分化の極まりから総合統一へ、西洋から東洋へと、心の向けられている時。/エネルギーの根元である太陽エネルギーと、万物に宿る日の霊との、物質と精神との一致の世界、「ひの道」が、いまや明らかにされんとしているこの時。/日の国、日本の青年は、このままでよいであろうか。まず/自らの明徳を明らかにし、/国家の鎮護となり、/民族の伝統を、継承発展せしめ、/大和世界建設のために、/巨いなる「ひ」を、揚げねばならないのだ。/私は万禱して、青年に告げる。」(/は改行)
 現代は利害関係から考える以外に世界を認識する手段を失いつつある。だが、反面、だからこそ伝統と信仰という大いなる価値について思いを致すことができる。伝統も信仰もどこか遠くにあるものではなく、自らの魂にすでに備わっている。あとはそれに気づくか否かであり、気づいたときにはもう大義を果たす大望が、自らを鼓舞してやまぬようになるだろう。それが人々に広まった時、真の維新は達成されるに違いない。

蓑田胸喜の政治思想―国家は改造できない―

『論語』の有名な一節に「子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋遠方より来る有り、また楽しからずや。人知らずして恨みず、また君子ならずや」というものがある。学んだことが自らの血となり肉となることはなんて喜ばしいことか。人に知られていないからといって恨んだりしないのが君子ではないか、という最初と最後の一節はわかる。だが真ん中の説で友達が遠くから訪ねてくるのは楽しいですねとは当たり前すぎるのではないか、と言われる。遠方から来る「朋」とはいったい誰なのだろうか。
本を読んでいると著者の言葉によっていままでもやもやとしていた感性が、何かに導かれるように確固たるものになっていくことを感じることがある。そんなとき、著者が目の前に現れてきて、教えを受けているかのような気持ちになることがある。その師は、場所はおろか時代をも同じくしていなくとも、人は言葉で誰かとつながることができる。それこそが「朋」が遠方よりやってきた瞬間なのだろう。だとすれば、最後の、人が自分のことを知らないからと言って恨まないのが君子ではないかという章句にもまた違った解釈が生まれ得るのではないか。つまり今の自分が誰からの理解も得られず不遇だったとしても、自らの考えを言葉にさえ残しておけば、遠く離れた誰かが、百年先、千年先の誰かが自らの価値を拾い上げてくれるかもしれない。だから恨まないのである。その可能性だけを信じて世俗の栄達よりも己の言葉を残し続ける人間。それはまさしく「君子」ではないだろうか。
同じく『論語』に、「徳は孤ならず。必ず隣りあり」という言葉がある。徳を持つ者には必ず味方が現れるという意味だが、これも同じく、なぜ徳は孤立しないのか。遠い過去に、そして遠い未来に、この広い世界のどこかに、必ず自らの徳に共鳴する人物がいるからである。目先の私欲ではなく、百年前の人物から学び、百年先の同朋に語りかける。まさに君子のみがなしうる仕事ではないか。それを目標としたとき、必ず人間の在り方から議論を出発させなければならない。目先の制度など、はるか先にはどうなっているかわからないからだ。

制度を論じるものは必ずスローガンで人を籠絡しようとする。だが、スローガンなんかでは人は変わらない。表面上動いたふりをするだけである。真の自覚がなく、制度だけ変更して何かをなし得たかのように満足しているようでは駄目なのである。
本当の問題は、制度や構造といった無機質なものにあるのではなく、人間そのものにある。人間の在り方を問うことなしに現代社会の問題を抉り出すことなどできない。制度の変更を主張すれば、それは「わかったつもり」になるかもしれないが、制度を変えるだけでは国家が真に健康を取り戻すことはない。

蓑田胸喜という人物がいた。人は彼を悪しざまに罵り、「狂人」と言った人もいた。だが、本当にそうだったのだろうか。「狂人」は極端な例としても、蓑田を煽情的な言論ばかり述べていたような人物であるとの評価は数多くなされてきた。なるほど蓑田の言葉はたしかに煽動的な言葉遣いが多かった。だが、それに囚われて蓑田の本当の思想になかなか気付けなかったのは、人々がいかに世俗の栄達、力関係に汲々とさせられているかを思い知らされる。
保田與重郎の自叙伝と言える『日本浪曼派の時代』のなかに蓑田胸喜について触れている箇所がある。
有名な慶大教授の蓑田胸喜氏は、東大で哲学を専攻した学者だが、ある時私に、我々は経済学を学ばなかつてよかつたねといつた。経済学をやるやうな人間は、みな人がらがいやしいと極言して嘆息された。そのころの東京大学経済学部の教授たちをながめて、この批評が当つてゐると、私は思つた。そののちの戦中戦後のその人々の世渡りぶりを見て、私の心は滅入つた。蓑田氏については私はよく知らないが、戦後にこの人を非難罵倒することによつて、自己弁護をしたやうな多数の進歩主義者の便乗家とはちがつて、私の印象では清潔な人物だつた。極めて頑迷固陋といはれたが、筋が通つてゐた。勿論日本浪曼派とは無関係な人である。ずゐ分困らされたといふ人がゐるときいたが、世間栄達に無関心なものなら、何も困る必要はない。世渡りの妥協を自他に顧ない人で、世間の世渡りの思惑を無視する人があるものだ。困らされる人が、本当の学者なら、困るといつてはならぬ。文士とか政治家とは、みなさういふ超世間的のものだ。しかし世間なみの公務員や会社員の職をおびやかすやうなことには、よほどの思慮がなくてはならぬが、文士同志学者同志では、さういふ世俗の思慮は無用でよい。教授の職より学を愛することの出来る人なら、蓑田氏を怖れる必要がなかつた筈だ。権力地位より正論に謹んだ人で蓑田氏を怖れた例を私は知らない。『保田與重郎全集』第三十六巻193頁。旧字体を新字体に改めた。
これほど蓑田を正面からまともに評した人は他にはいないだろう。蓑田は己の主張に一本筋が通った人で、ときに論証が至らぬままに早急に結論を出しすぎていると感じる部分もあるが、それは文章を書くものなら誰でも陥る可能性のある範囲内であり、決して狂人扱いされるものではなかった。
例えば立花隆は『天皇と東大』で蓑田を、狂信的に赤狩りを行ったといった類の評価しかしていないが(下巻55頁等)、蓑田胸喜の思想は全くそういうものではない。片山杜秀が「彼らには彼らなりの批判の論理が一応あったのであり、その思想排撃の論説の中には、今日もなお読み込むに値するものがある」から、「どうして「戦時中の一時期の悪夢としか言いようのないもの」とまとめて片づけてしまうことができようか」。と言い、蓑田の思想をその師三井甲之とともに「天皇の存在する日本は何もせずともそのままでよい国のはずで、どこが悪いからいじろうとか、体制を変革しようとか、余計なことを考える必要はないということである」と評して、彼らが左翼だけではなく北一輝や大川周明、権藤成卿も激しく批判していることに注目している(『近代日本の右翼思想』93~97頁)ように、蓑田は決して単に赤狩りをしていたわけではないし、東大への私怨によるものでもない(こともあろうに東大で反国体的教説がなされるとはけしからん、と思っていたことは確かだろうが)。
ちなみに片山は蓑田の思想を、天皇の存在する日本はこのままで良い国だから体制を変革する必要はない、という考えだと単純化して述べている。たしかに蓑田は左右に関わらず体制を変革する思想を攻撃し、「マルクス主義である」と決め付けたが(蓑田にとっての「マルクス主義」とはカール・マルクスの思想と言うよりは現行の秩序を乱す思想の象徴であっただろう)、現状にまったく問題がないと思っていたわけでもない。蓑田は反共的であったが、いわゆる資本主義的な発想を擁護したわけでもないし、資本主義の進展により貧者が生活難に陥っている事態をよしとしたわけでもない。蓑田は言う。「筆者がかくいふ(=国家社会主義批判の中で私有財産制度を廃止することの不可能性を説いた)のは、断じて『私有財産制度の神聖不可侵』を説かんとするものではない。かかる観念はことに日本の国法上には本来ないのである。帝国憲法第二十七条に曰く、『日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニヨル』」と。而して伊藤公『憲法義解』は右後に註していふ、『所有権ハ国権ニ服属シ法律ノ制限ヲ受ケサルヘカラス…無限ノ権ニ非サルナリ…各個人民ノ所有ハ各個ノ身体ト同ク国権ニ服属ノ義務ヲ負フ者ナルコトヲ認知スルニ足ル者ナリ』『公益ノ為ニ必要ナルトキハ各個人民ノ意向ニ反シテ其ノ資産ヲ収用シ以テ需要ニ応セシム此レ即チ全国統治ノ最高主権ニ根拠スル者ニシテ而シテ其ノ条則ノ制定ハ之ヲ法律ニ付シタリ』『普天之下莫非王土、率土之浜莫非王臣』―これ実に林氏らの希求せる『国家社会主義』の最高の理想的原理ではないか? 何を苦しんで西欧起源の『国家主義と社会主義の結合』といふ如きつぎはぎものを模索するの要あらん。われら日本国民は帝国憲法を遵守することによつて、資本主義または私有財産制度の弊害はこれを公然論議しまた合法的に改革し得るのである」(『蓑田胸喜全集 四巻』767~768頁)。蓑田のこの帝国憲法解釈は拡大解釈であろう。だがあえて帝国憲法に即して論じているところに蓑田の思想的特徴がよくあらわれているように思えてならない。

日本文化は、混淆の文化ともいわれる。岡倉天心が「シルクロードの終着駅」と呼んだように、アジアの様々な文化が日本で溶け合い、さらに、明治維新頃からは西洋の文化をも取り込んだ。これを雑種の文化と呼ぶ人もいる。だが、世界に於いて雑種ではない文化など存在しない。そして、雑種の中にも異文化を取りこむ芯がなければ、異文化に飲み込まれて、日本は今の姿を保てていなかっただろう。その芯とは何かを考え続けた人物の一人に、蓑田胸喜がいるのではないだろうか。
竹内洋は蓑田やその師三井甲之について、こう述べる。「明治の知識人にとって、西欧は外側にあるぶん和魂洋才がありえた。しかし、しだいに西欧は知識人の身体文化となった。西欧は知識だけでなく、風物にも食い込んだ。しかるに満州事変の勃発もあいまって、人々は民族のアイデンティティを求めざるを得ない。そうした時代に、本郷知識人のアウトサイダーであった蓑田や三井は、帝大教授の身体に洋魂洋才(「半西欧人」)の生ける凝縮つまり万悪の根源をみる」(「帝大粛正運動の誕生・猛攻・蹉跌」『日本主義的教養の時代』44頁)。
蓑田胸喜は親鸞や山鹿素行などを多く引用し、しかも非常に好意的に評価している。思うに蓑田は仏教という外来思想を日本化した親鸞を称揚し、儒教と言う外来思想を日本化した山鹿素行を称揚したのであろう。西洋思想は誰であろうか。蓑田は自分であるという自負があったかもしれない。すでに「原理日本」最初の号に書いた「高畠素之氏の「反訳思想」」においてこう述べているのである(ちなみに「反訳」とは「翻訳」のこと)。「東洋文明の摂取に当つてもその過程には単なる反訳模倣時代と人物とがあつたけれども、日本人はそれに止らず進んで創造的開展を与へたのであつた。儒教仏教によって代表される印度支那の東洋思想は先には聖徳太子によつて、後には親鸞素行によつて折伏摂取されてしまつたので、日本の仏教と儒教とは本来の意味での仏教儒教ではないもになつたのであつた。若しさうではなく日本が何処までもそれらの東洋思想に反訳模倣的態度で終始したであらうならば、日本もまた印度支那と同一の運命に陥つてをつた筈である。さうならなかつたところにこそ日本精神日本思想に「東洋一の美点」ともいふべきものが潜んでいるので、真の日本精神は「知識を世界に求め」つつ「大いに皇基を振起」し来つたのである。それが日本精神に独自のものであつた」(『蓑田胸喜全集 一巻』269頁)。長々と引用したが、ここには日本思想の優越が語られる一方、外来の排除とも無制限の需要とも違う、蓑田の外来思想に対する考えがよくあらわれている。

三井甲之は昭和二十年七月、「天壌無窮必勝の信念」と言っているだけではダメで、「億兆一心義勇奉公」を果たさなければ、という当時の意見を明確に否定した。何よりも「天壌無窮神州不滅」であることを確信することが先決であり、「億兆一心義勇奉公」はそれに伴う結果でしかなかった。それは「億兆一心義勇奉公」によって「天壌無窮神州不滅」を達成しようという平泉澄らの議論とは対立するものであったという(昆野信幸『近代日本の国体論〈皇国史観〉再考』7頁)。「観念右翼」の面目躍如と言ったところであろうか。
なるほどこういう議論を眺めていると、三井や蓑田は「天壌無窮」「神州不滅」をひたすら叫ぶだけの狂人として理解されかねないだろう。だが、彼らの議論が常に人間の在り方から出発していることを忘れてはならない。彼等は自らの思想の実効性など気にしているわけではない。百年前、千年前の先人から声を聴き、百年先、千年先の日本人に働きかけている。「億兆一心義勇奉公」を重んじたとき、それは「現実的」のようでいて、実はその目線が「今」にしか向いていない。時空を超えた長い目で見たとき、「天壌無窮」「神州不滅」と「億兆一心義勇奉公」のどちらが上位の概念化と言えば、「天壌無窮」「神州不滅」に決まっているのである。
三井や蓑田は親鸞の絶対他力の思想に傾倒していた。人為的に世の中の在り方を変えようなど自力救済の不遜極まる行為である。天皇のもとにある「あるがままの日本」を深く自覚し、それに身をゆだねることで一体となっていく。それこそ悠久の大義に沿う行為なのである。
三井や蓑田は百年前、千年前の先人から声を聴き、百年先、千年先の日本人に働きかけることを目指していたに違いない。それがなかなか理解されない時に、彼等はその苛立ちをもっとも煽情的な言葉で表現したのではないだろうか。

平泉澄や崎門学などの考えでは日本の国体が無窮であるということは、皇室や国民のたゆまぬ努力によって支えられてきたのであって(「億兆一心義勇奉公」)、そのまま与えられたものではないという観点に立つ。それは確かに細かく見れば三井蓑田の世界観と対立するものであっただろう。だが一方で、大きく見れば三井蓑田も「億兆一心義勇奉公」を否定したわけではないという点で両者に大きな違いを認めることはできない。三井蓑田はまず「天壌無窮神州不滅」の深い確信を求めたのであって、それのない中での「億兆一心義勇奉公」の奨励はつまらぬ制度変革の議論に終始しかねない。それでは西洋思想に毒されたわが国の社会科学的知識を改めるには至らないどころか、むしろ悪化させることになりかねないのである。多文化を包摂した日本。それはアジアの各思想から、明治維新後は西洋思想にまで及んだ。しかしその中には一本貫く中心がある。その主体なしに外国の文化文明を取り込むことなどできようはずがない。その中心こそ「天壌無窮神州不滅」である。その中心への深い確信なくして如何なる議論も始まるはずがない。

細かい議論の際は置いておいて、戦前昭和の時代は人間の生死の問題や如何にして生きるのかという問題がそのまま政治的大義に直結する時代であった。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。例えば林房雄は『青年』で、次のように言うのである。
「人間のすべての社会的活動を、その努力を、その創造を否定するならば、人はただ、生まれ、食べ、交尾し、子供をうみ、そして死ぬてんとう虫と異なるところはない。だが、人間はてんとう虫ではない。人間を「万物の霊長」と称する古典的解釈は、けっしてまちがいではなかった。虫は自然の意志のままに生きそして死ぬ。人間は自然の意志に従うと同時にこれに逆らって、生き、死に、しかも、ついに大自然の意志を完成するのだ。
大義のために死し、わが名を青史に列ねようとする努力―これこそ人間として誇りうるただ一つの人間的努力である。自分はまちがっていなかった。迷う必要はない。」(『現代日本文学館28 林房雄・島木健作』112頁)

なお、三井や蓑田、あるいは平泉澄も含め戦前には天皇親政論者が多かったが、蓑田も含めた天皇親政論者が天皇の独裁を主張しているかのような誤解もいまだに多い。上杉愼吉は「国体に関する異説」で「仮令心に君主々義を持すると雖も、天皇を排し人民の団体を以て統治権の主体なりと為すは、我が帝国を以て民主国なりと為すものにして、事物の真を語るものに非ずと為すのみ」と言う(『近代日本思想体系33 大正思想集Ⅰ』6頁)。あるいは蓑田胸喜は「帝国憲法第十条に曰く『天皇ハ行政各部ノ官制及文武官の俸給ヲ定メ及文武官を任免ス』と。(中略)行政法を講ずるもの、その直接の第一依拠を本条に求めざるもの一人としてなきにも拘らず、美濃部氏を始め従来殆どすべての行政法学者は異口同音に『行政権の主体は本来国家である。』の語を以てその論理を進むるのである。これいふまでもなく憲法論上に於ける『国家主体・天皇機関説』の行政法論へのそのままの適用である。即ち、『統治権の主体』を以て国家となすの結果、その統治権の一成素たる『行政権の主体』も亦国家なりとするのである」(蓑田胸喜『行政法の天皇機関説』原文旧字、蓑田胸喜全集第六巻231頁)という。
両者がここでこだわっていることが『統治権の主体』という言葉であることに注目したい。「統治権の主体」即ち「主権」なのだが、現代風に言い換えれば、政治の正当性あるいは正統性の所以ということではないだろうか。なぜ政府は行政的命令を国民に発する権限があるのか、その由来は天皇ではないのか、単に国民としてしまってよいのか、と問うたのである。あるいは、行政官は天皇に任命されるが、それは天皇が大権を持っているからではないのか。大権を持っていないものがどうして任命できるのか、と問うたのである。
蓑田胸喜は「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」という。天照大御神も八百万の神の意向を確認し、孝徳天皇は臣下と共に治めたいと欲せられ、明治維新の際には万機公論に決すとされた。独裁は天皇みずから取られなかっただけではなく、国家機関(=政府)にも許さなかったことを強調した(「天皇親政と輔弼機関の分化重層」『蓑田胸喜全集』第六巻964~966頁)。蓑田は決して議会が存在することを否定していない。議会が政党に私物化され浅はかな民意が大手を振うことに嫌悪感を示したのである。天皇親政論は天皇独裁論ではない。

蓑田胸喜を「全体主義者」「ファシスト」とレッテルを貼って片づけようとする議論も後を絶たない。だが先ほど蓑田が「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」と論じていたことを引用したように、当然と言えば当然だが、蓑田もまた独裁政治を厭う人間だったのである。そして戦前昭和では日独伊三国同盟を結んだ頃から、ナチスドイツやムッソリーニのファシズムに対する軽薄な共感を示すことも多かった。近衛文麿もヒトラーのコスプレをしたこともあった。しかし蓑田は、ヒトラーやムッソリーニに対し痛烈な批判を加えていたのである。
もっとも、蓑田は最初からヒトラー、ムッソリーニに批判的だったわけではない。ムッソリーニが出てきた当初は、蓑田はムッソリーニに「宗教的信念」と「道徳的感激」が政治の上に集中させられつつあると、祭政一致の大理想を見ていた(『学術維新原理日本』蓑田胸喜全集第三巻305~306頁)。ムッソリーニは「まことの人生宗教、祖国愛の熱烈なる求道者」であると絶賛している。
しかし『学術維新』においては「ナチス精神」は國體の相違から来る思想を除いてはわが国の武士道と通じるものがあると述べている(『学術維新』蓑田胸喜全集第四巻715頁)ものの、この時すでに『我が闘争』に見えるアーリア民族優越論と日本文化に対する蔑視的個所を指摘し、抗議していることは注目すべきことである(同724~725頁)。蓑田はそのうえでナチス追随の日本の言論の風潮を批判したのである。
ここでは蓑田がヒトラーやムッソリーニをどう評価していたかと言うよりも、彼らに対する評価基準に祭政一致ともいうべき道徳と政治の統一を望んでいたことの方が重要である。

蓑田胸喜は「日本」という概念を原理的に信仰した。蓑田は日本文化が支那文明もインド文明も包摂しうる強固な理念であると考えた。それらを熱烈に進行することに因って自ずから物事は展開していくのであって、人為的な力で変革しようなどという自力救済の思想を蓑田は認めなかった。
蓑田の思想を一言でいえば、「国家は改造できない」と言うことであろう。国家改造とは国家が機械的に改変できると考えているということであり、国家を唯物的に考えているということだ。制度が変われば、システムが変わればバラ色の未来が訪れる。そんな妄想を垂れ流せるのは国家がシステムによって運営されていると信じているからである。国家はシステムではない。国家は生命体であり、共同体である。したがって改変の方法は構成員一人一人が自覚し、覚醒していくことだ。

一読者として、政策の議論にはある特有のつまらなさがある。それは「仏作って魂入れず」になりはしないかという懸念である。政策を論じるならば、そこに込めた精神を論ずるべきであり、そうでなければ片手落ちになのである。
政策の議論をすれば「具体的」で精神の話をすれば「抽象的」で「口先だけなら何とでも言える」。そのような陳腐な心性に甘んじることはできない。何のために政治を論じるのか。それはわれわれが政権担当者となって甘い汁を吸うためではない。果たすべき大義を先人から預かっているからだ。それを果たすには通り一遍の政策の議論で済むはずがない。
蓑田が明治天皇御製をその著作に挟み込むのはつまらぬこけおどしでもなければ狂信的な精神でもない。そこに先人から受け継いだ大義が宿っているからだ。