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川面凡児の伊吹の法①

川面凡児
 古神道では独特の呼吸法が伝えられた。川面凡児の伊吹の法もその一つである。彼は、以下のように書いている。
 「鼻より空気に通じて宇宙根本大本体神の稜威を伊吸ひ込み、腹内より全身の細胞内に吸ひ込みて、充満充実すること三分五分乃至十分間ほどにして口を開き、静かに長くこれを伊吹くなり。ある限りを吹き出すなり。更にまた鼻より吸込みてかくの如くすること三度五度乃至八度十度十二度十六度等に及ぶ。そのいづれの度数にても、最後の時には口よりは吹き出さず、全然腹内、細胞内に吸ひ込み呑み込みて静かに全身の毛穴より出しつゝ徐々と唇を緩めつゝに出すなり。否最後の時には呑み込み吸ひ込むと同時に、神を拝して向はんとするところに行き、なさんとする事業に執りかゝるなり」(『日本最古の神道』)

本田親徳と白川神道の「十種神宝御法」

 副島種臣に強い影響を与えたのが、神道霊学中興の祖・本田親徳である。本田が再編した神道霊学とはいかなるものだったのか。宗教学者の鎌田東二氏は、『神界のフィールドワーク―霊学と民俗学の生成』(創林社、昭和60年)において、次のように指摘している。
 〈……安政四年(一八五七)頃に、本田親徳は神祇伯白川家の最後の学頭であった高浜清七郎と交わっているので、高浜より伯家神道の神事秘法について教示された可能性もある。かつて平田篤胤も伯家の古学方教授やのちには学頭に就任したことがあるが、この伯家神道すなわち白川神道には「十種神宝(とくさのかんだから)御法」という行法が伝わっている。……文久二年(一八六二)の八月一日付で、その頃備前国岡山に住んでいた高浜清七郎は、「十種神宝御法口授」の認可を受けたことが『白川家門人帳』に「高濱清七郎(源政一) 右今般依願、十種神宝御法被口授訖。万事正路之心得を以、可令修行。伯王殿被命処也、仍執達如件」と記されている。本田親徳はこの高浜清七郎について、「三十年来余と友人たり」とある書簡に記しているから、高浜より伯家神道の祭式や修行法を教わった可能性はかなり高い〉
 では、「十種神宝御法」とはいかなる行法なのか。鎌田氏は次のように続ける。
 〈「十種神宝」については、平安時代にまとめられた物部系の伝承を伝えたとされる『先代旧事本紀』に出てくる。物部氏の祖神饒速日神が天降りするとき、高天原で天照大御神より授けられた瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるかへしのたま)・道反玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種の天爾玉瑞宝を、「もし痛む処有らばこの十宝をして、一二三四五六七八九十(ひふみよいつむななやここたり)といひてふるへ。ゆらゆらとふるへ。かくせば死人も反り生きむ。これ即ち布瑠(ふる)の言の本なり」といわれるごとく、揺すり振るいながら生命のさきはいを祈ったのが物部系鎮魂祭の初めとされる。この祭祀は宮中の鎮魂祭祀に吸収されたが、伯家の「十種神宝御法」には、そうした古代祭祀や呪術に加うるに、吉田神道の行法の影響があったのではないかと私は思う。菅田正昭によれば、この「十種神宝御法」の行は「目をつぶったままで行なう幽祭修行で、十種神宝を十個の徳目にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯を一歩ずつのぼっていこうというもの」とされる。また、そこでは手かざしによる浄霊(鎮魂)が行なわれていたという。そのほか、伯家には気吹の法や永世の法なる一種の呼吸長生法が伝わっていた。
 こうしてみれば、本田親徳の再編した「鎮魂帰神術」は、物部石上系の魂の医療技術としての鎮魂(招魂)法と、神功皇后が厳修したといわれる神教を請う方法としての神懸り(帰神)の法とを合体させ、それを導く「霊学」原理として「審神者」の法を確立した点にその特徴があるといえよう〉

副島種臣「王道論」─「国を治むるの要は民を安んずるに在り」

 副島種臣は「王道論」で次のように書いている。
 「帝王の道は国を治むるに在り、国を治むるの要は民を安んずるに在り。民を安んずるの要は人を得るに在り。国体の異なるを問わず、政治の同じからざるを論ぜず、一にこれ皆、国治を以て主となす。民安んじて国治まると称すべし。(中略)このゆえに明王は人を得るに勤む。吐哺握髪なおこれを失わんことを恐る。民をしておのおのその知るところを言わしむ。故に大、得ざるなきなり。故に情、通ぜざるなきなり。かくのごとき精神を以て下に臨めば、すなわち士またおのずから見(あら)わるる者なり。何ぞ得ざるを憂えん。その得ると得ざるとはこれ他なし。ただ君を立つるは民のためなりの旨を持すると持せざるとにあるのみ。これを持する者は必ず盛んに、これを持せざる者は必ず衰う。これ王道盛衰の源なり」

副島種臣と佐賀開進会

 副島種臣は、明治十四年十月に設立された佐賀開進会とも関わりを持っていた。
 同会は、士族反乱の系譜をひく憂国党、国権論を重視する共同社、米倉経夫らの民権派の三派が合流して設立された。
 その主義書は次のように謳っている。
 「我輩ハ開進党ナリ、蒙昧ヲ開キテ善良ニ進ムナリ、凡事漸ニスベキアリ急ニスベキアリ一途ニ拘ベカラズ、漸ニスベキトキハ則漸ニスルヲ以テ漸進党ト謂レテモ可ナラン、風俗教化ノ如キハ漸ヲ以テ成ルモノナリ、更革ノ際ハ急激ニスルコトモアルベシ、急進過激党ト謂レテモ不可ナラズ、尚モ小民社約ノ困難ハ解カシメンコトヲ要ス、此小民ナルモノハ後ガ後程多クナルモノナリ、今ヨリ後人口繁桁セバ土ニ開クベキノ資ナクシテ而食ヲ仰グノ取ルベキナケン、此時ニ当テ流離顛沛ヲ余所目ニ視流スハ人類同儕ノ意ニ非ズ、夫人生ルヽ時ヨリ国民ノ名ヲ被ラザルハナシ、宜ク亦撰挙被撰挙ノ権ヲ有スベキナリ、此理ヲ以テセバ社会党ナリ、我国アリテヨリ君父アリ、栄貴ノ二字ヲ君父ニ譲ルゾ忠孝ノ本意ナレ、斯クテハ王党トアルモ何ノ不可カ之有ン、道義ヲ以テ起チ道義ヲ以テ処ル、我道義ハ天ノ賦スル侭ノ自由ナリ、仁ニ当テハ師ニサヘモ譲ラズ純然タル自由党ナリ、此数党備テ而後ニ開進党ナリ、偏言偏行ハ完璧ニ非ルナリ、且我輩之ヲ観ル王者党ナシ決ヲ多類ニ取ル、苟も此義ヲ推セバ天下ノ公道成ル」
 この主義書は、副島が口述したものを筆記したものである。また、米倉の日記からは、米倉のグループと副島の関係の深さが窺える。
 同会が設立された当時、副島は北海道開拓使官有物払下げ事件に憤慨し、同会メンバーを糾合しようとしていたのである。

副島種臣宛て明治天皇御宸翰(明治13年3月31日)

 副島種臣は明治12年から侍講を務めていたが、明治13年に入ると体調を崩し、進講を中絶し辞意を示すようになった。同年3月31日、副島の辞意を知った明治天皇は、その夜宸翰を認め、侍補土方久元に即刻、副島邸にもたせた。
 「卿ハ復古ノ功臣ナルヲ以テ朕今ニ至テ猶其功ヲ忘レス、故ニ卿ヲ侍講ノ職ニ登庸シ以テ朕ノ徳義ヲ磨ク事アラントス、然ルニ卿カ道ヲ講スル日猶浅クシテ朕未タ其教ヲ学フ事能ハス、頃来卿病蓐(びょうじょく)ニ在テ久ク進講ヲ欠ク、仄ニ聞ク、卿侍講ノ職ヲ辞シ去テ山林ニ入ントス、朕之ヲ聞ク驚駭ニ堪ヘス、卿何ヲ以テ此ニ至ルヤ、朕道ヲ聞キ学ヲ勉ム、豈一二年ニ止マランヤ、将ニ畢生ノ力ヲ竭サントス、卿亦宜ク朕ヲ誨ヘテ倦ムコト勿ルヘシ、職ヲ辞シ山ニ入ルカ如キハ朕肯テ許ササル所ナリ、更ニ望ム、時々講説朕ヲ賛ケテ晩成ヲ遂ケシメヨ」
 この御宸翰に感泣した副島は、翌朝参内し、侍講の継続を誓った。以来、明治19年侍講職が廃止されるまで副島は進講を続けた。

「副島建国策」─延喜天暦の治の理想

副島種臣
 明治初年、岩倉具視が「建国ノ体ヲ昭明ニシテ以テ施政ノ基礎ヲ確定スル」ため、参議たちに意見を求めたのに対して、副島種臣は明治3年9月頃、「副島建国策」を起草した。注目すべきは、その一項目に「延喜天暦」とあることだ。
 「皇綱紐ヲ解テヨリ以来、武人天下之権ヲトル、頼朝、尊氏、豊臣氏、徳川氏ノ如キ、一時天下之政ヲ為ストイヘトモ、抑一家ヲ営ムノ政タリ、万民ヲ保全セシムルノ政府ニアラサルナリ、荀モ此義ヲ審ニスレハ、建国之体可弁也」(「岩倉具視関係文書」)
 ここからは、明治政府が天皇親政の雛形である「延喜天暦の治」を目指すべきだという副島の考え方が窺える。

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』参考文献①

◎国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な書籍

 庵原小金吾『名古屋史談』東壁堂、明治26年
 井上哲次郎・有馬祐政編『武士道叢書 中巻』(特に兵要録抄録等)、博文館、明治39年
 荻野錬次郎『尾張の勤王』金鱗社、大正11年
 河村秀根『書記集解 首巻』国民精神文化研究所、昭和15年
 近松彦之進編『昔咄 抄録』国史研究会、大正4年
 近松茂矩他著『円覚院様御伝十五箇条』名古屋史談会、明治45年
 佐賀楠公会編『楠氏余薫』木下泰山堂、昭和10年

 佐藤堅司『日本武学史』大東書館、昭和17年
 佐野重造編『大野町史』(特に第18節「勤王と大野」)大野町、昭和4年
 山本信哉編『神道叢説』国書刊行会、明治44年
 山野重徳『国会請願者列伝 通俗 初編』(特に荒川定英)博文堂、明治13年
 手島益雄『愛知県城主伝』東京芸備社、大正13年
 小菅廉編『尾参精華』秀文社、明治32年
 西村時彦『尾張敬公』名古屋開府三百年記念会、明治43年
 天野信景『塩尻 上』帝国書院、明治40年
 天野信景『塩尻 下』帝国書院、明治40年
 田部井鉚太郎編『愛知県史談』片野東四郎等、明治26年
 徳川宗春『温知政要』秋廼屋秋楽、天保7年
 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店、昭和9年
 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第2』川瀬書店、昭和9年
 名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市、大正4年
 名古屋市教育会編『済美帖』名古屋市教育会、大正4年
 名古屋市立名古屋図書館編『郷土勤皇事績展覧会図録』郷土勤皇事績展覧会図録刊行会、昭和13年
 野村八良『国文学研究史』(特に13 吉見幸和及び河村秀穎、同秀根)、原広書店、大正15年
 『越中史料 巻3』富山県、明治42年
 『吉見幸和集 第1巻』国民精神研究所、昭和17年
 『吉見幸和集 第2巻』国民精神研究所、昭和17年

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

大久保利通暗殺事件斬奸状

大久保利通暗殺
明治11(1878)年5月14日に、「紀尾井坂の変」(大久保利通暗殺事件)に際して、実行犯の石川県士族・島田一郎らが持参した斬奸状を紹介する。起草したのは陸九皐(くが・きゅうこう)。

〈石川県士族島田一郎等、叩頭昧死(こうとうまいし、頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して)仰で 天皇陛下に上奏し、俯して三千有余万の人衆に普告す。一郎等、方今我が皇国の時状を熟察するに、凡政令法度上 天皇陛下の聖旨に出ずるに非ず。下衆庶人民の公議に由るに非ず。独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。夫れ要路の職に居り上下の望に任する者、宜しく国家の興廃を憂る。其家を懐ふの情に易へ、人民の安危を慮る。共身を顧る心に易へ、志忠誠を専らにし行ひ、節義を重じ事公正を主とし以て上下報対すべし。然り而して、今日要路官吏の行事を親視するに、一家の経営之れ務て出職を尽す所以を計らす。一身の安富之れ求て其任に適ふ所以を思はず。狡詐貪焚上を蔑し、下を虚し過に以て無前の国恥千載の民害を致す者あり。今其罪状を条挙する左の如し。

曰く、公議を杜絶し民権を抑圧し以て政事を私する。其罪一なり。
曰く、法令漫施請託公行恣に威福を張る。其罪二なり。
曰く、不急の土木を興し無用の修飾を事とし以て国財を徒費する。其罪三なり。
曰く、慷慨忠節の士を疎斥し憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する。其罪四なり。
曰く、外国交際の道を誤り以て国権を失墜する。其罪五なり。 続きを読む 大久保利通暗殺事件斬奸状

『GHQが恐れた崎門学』書評7(平成29年11月)

『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)
 『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を掲載していただきました。
〈著者は日本経済新聞社に入社し記者として活動するが、平成元年に退社してフリーランスとなり、現在は『月刊日本』編集長などを務めている。坪内氏は『月刊日本』で平成二十四年から「明日のサムライたちへ」と題する記事を連載し、明治維新へ影響を与えた国体思想の重要書を十冊紹介した。本書はそこから特に五冊を取り上げ再編集したものである。GHQは日本占領の際、政策上都合の悪い「国体」に関する書籍を集め焚書した。崎門学の系統の書籍がその中に入っており、本書の題名の由
来となっている。
 近年は明治維新の意義や正統性に疑義を呈する研究が盛んである。それに対して、本書は明治維新を実現させた志士たちの精神的な原動力として山崎闇斎の崎門学をあげ、その「日本」の正統をとり戻した意義を一般に啓蒙せんとしている。崎門学は天皇親政を理想とし、そこでは朱子学は易姓革命論を否定する形で受容された。後に、闇斎は他の複数の神道説の奥義を学んだうえで自ら垂加神道を確立する。
 本書で取り上げた崎門学の系譜を継ぐ五つの書とは『靖献遺言』、『保建大記』、『柳子新論』、『山陵志』、『日本外史』であるが、書籍ごとに章を立て(『保建大記』と『山陵志』は同章)広く関連人物にも解説は及んでいる。特に、闇斎の弟子・浅見絅斎著『靖献遺言』は幕末の下級武士のバイブル的存在であったし、『日本外史』は一般にも読まれ影響力大であった。五つの書の中で、著者は『柳子新論』に対してだけは、湯武放伐論を肯定している箇所について部分的ではあるが否定的評価をしている。補論では、著者が大宅壮一の影響下にあるとみなす原田伊織の明治維新否定論への異議申し立てを展開している。「魂のリレーの歴史」として、「日本」の正統を究明せんとする崎門学の道統についての入門書として、有志各位にお勧めする。〉