平成二十九年六月四日、浦安で崎門研第五回保建大記の勉強会を開催した。当日は折本代表をはじめ有志四人が参集した。前回に引き続き栗山潜鋒「保建大記」を理解するため、谷秦山の「保建大記打聞」(テキストは杉崎仁編注『保建大記打聞編注』を使用)を読み進めた。今回は、同書三十七ページから五十三ページまで輪読した。前回までで序論が終わっているので、今回から前回までの内容をより詳しく論じる形となる。
内容としては、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじられ、弟である近衛天皇に譲位するようお命じになった。崇徳天皇はせめて自らの養子とし、皇太子にしてから譲位することを望んだが、それすら鳥羽上皇に拒絶された。近衛天皇が若くして崩御されたのちは、崇徳上皇は自分が重祚するか自分の皇子である重仁親王が皇位に就くべきとお考えになったが、鳥羽法皇は近衛天皇の兄である雅仁親王(後白河天皇)が就くことに決めた。また、後白河天皇の皇太子は、重仁親王ではなく、後白河天皇の皇子であり、母を失ったため鳥羽法皇と美福門院によって育てられていた守仁親王(後の二条天皇)が就くこととなった。関白藤原忠通もそれをお諌めするどころか追従した。栗山潜鋒はこれらのことを嘆かわしいこととしている。天下は乱れ「トリ物(取り合うもの)」になってしまい、武家に奪われるきっかけになったと厳しく批判し、誰が見ても涙を流すことだと嘆いている。また、前述の通り、皇室だけでなく当時の摂関家にも、皇室を支える役割を忘れたと辛辣である。後三条天皇の親政を継いで白河鳥羽両上皇の院政が始まったが、万民を心服させるには至らなかったとしている。藤原氏の氏長者を巡って藤原忠通と藤原頼長の兄弟が争い始めたところに触れて今回の輪読は終了した。
なお、今回も終了後懇親会を行った。次回は七月二日同じく浦安で開催の予定。
(記:事務局 小野)