次に「神道の本質」章について、そのポイントは以下の通りです。
①本章は筆者の講演録で、尊皇で有名な歴史上の人物が登場します。
順不同にまず源実朝。この人は鎌倉幕府の将軍でありながら、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふたごころわが有らめやも」(天皇に対して奉っては、どんな大変動が起こっても、私に二心はありませんという意)という有名な歌を残しています。大変な尊皇家です。
次に和気清麻呂。この人は、宇佐八幡の託宣を字信じて皇位に就こうとした道鏡の野望を挫き、ご皇室をお護りした。よって彼もまた大変な尊皇の功臣です。
次に菅原道真ですが、彼の何が偉いかは後で述べます。
②上述した人物のうち、和気清麻呂と菅原道真に関して特筆すべきは、その子孫末裔もまた立派であるということです。例えば清麻呂の子孫で和気長成と いう人は、承久の変で隠岐にお流されになった後鳥羽上皇に19年もの歳月、最期まで侍医としてお供申し上げた方です。また菅原道真公の子孫である菅原長成 というお方は、わが国に服従を要求する蒙古の通牒に対して、ご皇室を称える堂々たる名文で返牒を書いた人物なのです。
このように、ただ人物一代限りで天皇様にお仕え申し上げるというのではなくて、子々孫々にわたってご皇室をお護り申し上げるということに、前回の楠公の精神にも通じる、わが国の類まれな美点が存するといえましょう。
③同様のことは、山崎闇斎先生の末弟で、土佐で崎門学を説いた谷秦山(じんざん)という先哲についてもいえます。というのも、秦山の玄孫は西南の役 のときに熊本鎮台司令官を務めた谷干城将軍であり、彼は家訓として「京都に万一のことが有った場合には、何をさしおいても京都へのぼれ。もし旅費がないと いうのであれば、乞食をしていけ。行って陛下をお守り申し上げろ。もしどうにもしようがなくて、力尽きたというときには、しようがない。御所の堀に寄りか かって死ね。死んでも御所の塀の土になって、御所を守れ」(497)という教えを受けた人です。干城将軍は、大西郷といえども、勅命によらざる以上は城下 を通すわけにはいかぬといって、薩摩軍と相まみえました。
そして、このたとい相手に義ありといえども、承詔必謹を貫くという思想は、山崎先生の教えによるものです。山崎先生は、もとより唐宋八大家でも有名 な韓退之(韓愈)が書いた『拘幽操』という詩集を重視しこれを講義の眼目にしたといわれます。すなわち、昔、殷の紂王は不徳の君主でありながら、そのとき 家臣であった無実の文王を投獄した。しかしそれにもかかわらず、文王はいささかも紂王を恨む気持ちがなく、むしろお上の怒りを招いた自分の不徳を恥じたの であります。
山崎先生は、この文王の態度を、臣道の極致であるとして高く評価し、そこから君主に徳がなくなると、天命が尽き、皇帝の姓が革(あらた)まるという「易姓革命」思想を排し、「たとえ君は君たらずとも、臣は臣たらざるべからず」というわが国国体の真髄を闡明されたのです。
こうしてみることで、最初に登場しました菅原道真公がどうして偉いか解ります。というのも、菅公は無実の罪で流謫の悲境にありながら、すこしもその 境遇をお恨みするどころか、お上の御恩を感謝し、お上のご安泰を祈るという姿勢を貫かれたからです。その意味で「天神様―菅公と『拘幽操』というものは、 両々相俟ってわれわれの仰ぎ見るべきものである」(487)ということができましょう。