次に「闇斎先生と日本精神」章について、そのポイントは
①山崎闇斎先生の経歴はというと、先生は最初仏門に入って比叡山や妙心寺の僧侶となりますが、やがて谷時中の講ずる朱子学を聴いて還俗し、儒教研究 を開始しました。しかしそのうち日本精神に開眼して神道に入り、垂加神道を樹立しました。ことに先生は我が国の真姿を顕すものとして日本書紀を尊重し、こ の日本書紀の編纂総裁であった舎人親王を深く尊敬していました。
②先生は荻生徂徠はじめ当時多くの儒者が中華思想に偏するのを批判し、この卑屈の態度を排斥しました。中華思想とは、シナ中国を尊貴とし、他を卑賤 とする考えです。そこでたとえば先生は、「嘗て門人に試問して、孔孟来襲の時汝等いかにすべきと尋ねられたのに、門人一人として之に答えないのを見て、い うまでもない、我は奮戦して孔孟を斬るのみであると示された」(95)という逸話もあります。
③先生の思想(崎門学)は門人を通じて脈々と伝播しましたが、就中特筆大書すべきは、それが義公(光圀)に発する水戸学に与えた影響です。例えば鵜飼錬斎や栗山潜鋒、三宅観瀾、打越樸斎の四人は皆崎門の人でありながら、義公の招聘に応じて水戸彰考館の総裁を務め、大日本史の編集に携わったのでした。