次に、「真木和泉守」、「楠子論講義」章について、そのポイントは、
①「凡そ明治維新の偉大なる改革の殆ど全部は真木和泉守の方寸より出で来たもの」(p38)で、これまで玉松操が岩倉具視に進言したとされてきた明 治維新の目標を建武中興からさらに神武創業に立ち返るべしとの建言も、実は和泉守によるものだそうです。他にも和泉守は「経緯愚説」のなかで五等の爵位や 近衛兵の設置、廃仏毀釈などを発案したりしましたが、なかでも最大の功績は明治4年に断行された廃藩置県を言いだしたことで、これも巷間流布する平野國臣 起源説は謬見とのことです。なお和泉守は久留米の出身ですが、弘化年間に水戸に会澤正志斎を訪うて水戸学の学統を継いでいます。
②明治維新の一連の改革は、決して歴史の必然ではなく、その証拠として大政奉還に際して紀州徳川氏は水戸徳川氏らと共に反抗の態度をとり、譜代らに 呼び掛けて飽くまで徳川への忠誠を主張しました。また譜代中には官位を返上して徳川の家来に帰ろうとする大名まであったのです。
③廃藩置県を唱えた和泉守の思想は「日本国民たる者は悉く、上御一人(天皇陛下)に帰順し奉るべし」という精神でありました。「しかるに、天下滔々 としてデモクラシーの叫びに脅かされ、あたかも自ら国家の主権者たるの如き、浮薄なる言辞を弄するもの天下に充満し、そしてお上に対し奉っては誠に恐れ多 い態度」(50p)がまかり通っているのは痛恨の極みです。
次に真木和泉守の「楠子論講義」。楠公こと楠木正成はなぜ偉いのかというと、それは彼が天子の位を盗みとろうとした足利高氏の野望を打ち砕き、その ためには親も陛下に命を捧げ、子にも死ねと言ってはばからない純忠の至誠を見事に貫いたからです。今の世に新田氏や菊池氏はありといえども、楠氏は全部な くなりました。一族郎党皆死しても、天壌無窮の神勅を奉じて万世一系の皇統をお護りする。ここに楠公の最も偉大なる所以があるといえましょう。