愛国者を自認する人が増えてきたが、それは中国、韓国、北朝鮮に強硬な言辞を吐くことにしかなっておらず、真に祖国の風土や文化、信仰、歴史、共同体に想いを馳せることには繋がっていない。あまつさえ愛国の名のもとにヘイトスピーチを囀ずるなど論外で、かの国の「愛国無罪」を嗤うことはできない。
月別アーカイブ: 2020年1月
『副島種臣先生小伝』を読む②─兄枝吉神陽
副島種臣の思想形成に大きな役割を果たしたのが、兄枝吉神陽である。藤田東湖と並び「東西の二傑」と呼ばれ、また佐賀の「吉田松陰」とも呼ばれた神陽は、嘉永3(1850)年に大楠公を崇敬する「義祭同盟」を結成している。『副島種臣先生小伝』は、神陽について以下のように書いている。
〈先生の令兄神陽先生は、容貌魁偉、声は鐘の如く、胆は甕の如く、健脚で一日によく二十里を歩き、博覧強記、お父さんの学風を受けて皇朝主義を唱へ、天保十一年閑叟公(鍋島直正)の弘道館拡張当時は、年僅かに十九であつたが、既に立派な大学者で、国史国学研究に新空気を注入して、先生はじめ大木・大隈・江藤・島などの諸豪傑を教育し、天保十三年二十一で江戸に遊学するや、昌平黌の書生寮を改革し勤王思想を鼓吹して、書生問に畏敬され、後、諸国を漫遊して帰藩し、自から建議し、弘道館の和学寮を皇学寮と改めて、其の教諭となつたのは、其の二十七歳の時であつた。後文久二年は四十一歳で歿したが、臨終には蒲団の上に端坐し、悠然東方を拝して、『草莽の臣大蔵経種こゝに死す。』と言つて静かに暝目した〉
アマゾンレビュー 高橋清隆『山本太郎がほえる~野良犬の闘いが始まった』
政治に絶望しかけている人へ
徳川義直に対する正二位追贈宣命
尾張藩初代藩主・徳川義直の没後250年祭に当たる明治33年5月7日、その功を追褒し、正二位が贈られた。
以下はその宣命(西村時彦『尾張敬公』名古屋開府三百年記念会)。
いま日本精神を語る意義について
日本精神を語るとき、その日本精神論を説教的訓話とするのではなく、その日本精神にしたがって、日本をいかに再建するのかを見据えたものにしなければならない。
『副島種臣先生小伝』を読む①─国体と自由民権
国体を基軸に置く自由民権派の事例としては、例えば福井で「自郷社」を旗揚げした杉田定一の例が挙げられる。杉田は三国町・滝谷寺の住職道雅上人に尊皇攘夷の思想を学び、崎門学派の吉田東篁から忠君愛国の大義を学んだ。興亜陣営の中核を担った玄洋社の前身「向陽社」もまた、自由民権運動として出発している。
副島種臣の民選議院建白にも、国体派の民権思想として注目する必要がある。副島種臣先生顕彰会『副島種臣先生小伝』昭和11年は以下のように述べている。
〈明治七年一月十八日、先生は板垣後藤等と共に民選議院の建白書を提出した。これはもと英国から帰朝した古澤滋が英文で書いたのを日本文に訳したもので、君主専制を難ずるのが眼目であつた。先生は之を見て『抑も我輩が勤王運動をやつたのは何の為か。君主専制に何の不可があるか。』と言つた。板坦等が『それではそこを書き直すから同意して呉れ。』といふので、先生は「宜しい。有司専制と改めれば同意する。有司専制の弊を改める為に議院を作るに異議は無い。」といつて連署に加はつた。そして他にも大分文章に手を入れた。署名は先生を筆頭に、後藤・板垣・江藤其他四名になつて居る。
右の建白が採用されて、明治十四年十月、国会開設の大詔が渙発されたのに対し明治十六年七月、先生は三条太政大臣宛に口上執奏方を請うた。その覚書の中に「神武復古との御名言に背かせられず、尚御誓文中皇威を海外まで輝すこと御実践の儀懇望に堪へず」などいふ文句がある。即ち先生の思想は純然たる日本精神的立憲主義である〉
【書評】『アジア英雄伝』坪内隆彦著『産経新聞』2008年12月7日付朝刊,10頁
西欧列強に蹂躙されたアジアの国々で植民地支配からの解放に苦闘した「志士」たちを日本との関係に着目して描いた列伝。取り上げられるのは,朝鮮開化派の指導者,金玉均▽フィリピン独立運動の先駆者,アンドレス・ボニファシオ▽西洋近代を徹底批判したパキスタンの詩人,ムハマンド・イクバール▽インドの国父と慕われるチャンドラ・ボース▽ビルマ(ミャンマー)独立の父・アウン・サンなど25人。
著者は戦前に刊行された膨大な資料に当たり,「志士」たちを歴史的な文脈の中で生き生きと描く。同時に彼らと日本の「興亜陣営」の緊密な連携に迫る。そこから,かつてアジアには西欧に対抗すべく「汎アジア・ネットワーク」が構築されつつあったことが浮き彫りにされる。(展転社・2625円)
果たせぬ国家貢献への思い、東方政策『NNA経済情報』2003年10月29日付
マハティールが首相就任早々に打ち出した東方政策。欧米への強い反発心から、アジアに日本という経済発展の成功モデルを見出し、自国の新しい国づくりに利用した。同政策に伴う日マ関係の緊密化は、「東アジアの奇跡」を結果としてマレーシアにもたらし、マハティールをASEANの盟主に担ぎ上げた。後継者のアブドラは同政策の継承を表明しているが、解決すべき課題も多々ある。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策にも新機軸を打ち出すことができるのか。アブドラの手腕が試される。(玉井諭)
1981年7月、首相に就任したばかりのマハティールは首相官邸に有田武夫・駐マレーシア大使(当時)を招きこう告げた。「わが国は、日本と韓国に学ぶルック・イースト政策を採る。協力を願いたい」(坪内隆彦著『アジア復権の希望マハティール』)。日本とマレーシアの2国間関係の象徴となった東方政策の始まりだった。
マハティールは戦後の日本に経済成長をもたらした原動力が、個人の利益よりも集団の利益を重んじる価値観と規律・忠誠・勤勉といった労働倫理にあると信じていた。マハティールの考えは、これらを日本から直接学び取ることで、自国の開発独裁型の経済発展に活かすことだった。
日本政府はマハティールの唐突ともいえる提唱に戸惑ったが、マハティール政権を支援することで日マ関係を強化し、さらには東南アジアでのプレゼンスを高めることにつながると判断。要請の受け入れを決定した。
■「国家の発展のために」
東方政策のもと、82年に産業技術・経営実務研修生、84年に大学・高等専門学校への留学生の1期生がそれぞれ日本に派遣された。ねらいはマレーシアの経済発展の柱となるマレー人の育成だった。
「日本で学んだことを、1人(の留学生)が5人(のローカルスタッフ)に伝えていけば、波及効果となって国民の間に広く浸透していく」。
東方政策で留学した学生の同窓会ALEPSの会長ザバ・ヨウンさんは、マハティールがこう語るのを何度となく聞いた。東方留学生・研修生の1人1人が知識や技術を国民に伝播することへの期待の表われだった。
ザバさんは84年に高専に留学した東方留学1期生。国営放送RTMの電気技術者として働いていた時、突如政府から日本行きを命じられた。「日本に特別な関心があったわけではなかったが、国家政策とあっては選択の余地はなかった」。
当時は現在のような留学前の研修プログラム(1年8カ月)も準備されていなかった。日本語がわからない不安と未知の世界への期待。「国家の発展のために」という使命を胸に、60人の仲間とともに慌ただしく日本へ旅立ったという。
マレーシア政府は国費で03年までの22年間に、1万人を超える若者たちを専門的な知識と技術を身に付けさせるため送りだした。マハティールの息子もその1人。現在もマレー人を中心に1,600人の留学生が日本各地の大学や高専で学んでいる。
■日系企業支える東方留学生
東方政策の開始を合図に、日マ経済関係は緊密化の一途をたどった。両国間の貿易は急速に拡大、日本から大量の民間投資と政府開発援助(ODA)がマレーシアに流れ込んだ。
三菱自動車工業との合弁で東南アジア初の国産車プロトン・サガの生産を手掛けたことは日マ技術協力の象徴的な事例となっている。
特に、85年のプラザ合意以後は、円高を背景とした日本企業の海外進出ラッシュに合わせ、大幅な外資規制緩和策を実施。マハティールは同政策で培った日本政府との太いパイプを利用して次々と投資の呼び込みに成功した(第3回・経済編参照)。
マレーシア進出日系企業の活動を支える「橋渡し」の役割を担ったのが、日本で文化と技術を学び帰国した東方留学生・研修生たちだった。東方政策の留学生派遣で資金協力を行っている国際協力銀行(JBIC)の青晴海・クアラルンプール駐在員事務所首席駐在員も、「日系企業にとって活動しやすい基盤を作ってくれている」と評価する。
■空振りする国家貢献への思い
国家のために貢献したいというのが東方留学生の共通した思いだ。だが、3,000人の会員を抱えるALEPSによると、東方留学生の多くがその機会が持てないことに不満を募らせているという。
彼らの8~9割が就職するのが日系企業。単に通訳としてしか見られず、日本で学んだ専門的知識や技術をローカル・スタッフに伝える権限を持たせてもらえないことへのいら立ちがある。
技術移転も当初のねらい通りの成果をあげていないとされる。ある元留学生は「日本に留学させてくれたお礼を技術移転という形でしたいがそのチャンスがない」と不満をぶちまけた。
さらに、ALEPSの調査では、最近、日系企業にとっては人材の流出といえる現象が起きている。日本に留学後、待遇がよく昇進のチャンスにも恵まれた欧米系企業に最初から就職する例が増えているほか、日系企業に就職した者も、しばらくして欧米系企業に転職したり、自分でビジネスを始めるケースも目立っている。
会長のザバさん自身も、6年間働いた某日系電機メーカーを辞め自ら事業を興した。「技術的にも十分貢献したのに、待遇面で全く評価されなかった」とその理由を説明する。
■迫られる課題への取り組み
次期首相となるアブドラは7月、訪問先の東京で、「前の世代からの政策を継続していく。外交についても同様だ」と述べ、日本との連携を重視する立場から東方政策を堅持する姿勢を表明した。
だが、留学生を通じての技術移転がねらい通り進んでいないことにどのように取り組んでいくのか。アブドラは東方政策の織Vしい方向性については口を閉ざしたままだ。
日本の政府関係者はこう指摘する。「マハティールが創り出し推進してきた路線(東方政策)を、アブドラは今後どのように自ら味付けし、独自色を打ち出しながら継承していくのか見えてこない」。
一方、在マレーシア日本大使館、JBIC、国際協力機構(JICA)、マレーシア日本人商工会議所(JACTIM)など日本サイドは、東方政策の新しい枠組みづくりに向け動き出した。昨年秋から今年春にかけて東方留学生の動向調査を実施。優秀な人材の確保、東方留学・研修生の人材活用、技術移転の促進に向け新機軸を打ち出すべく検討を行っている。
「人材育成でのマハティールのねらいはほとんど達成されていない」。青春を東方政策に捧げたザバさんたちの指摘は重い。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策も大きな分岐点にさしかかっている。
第九回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会
『靖献遺言』は、山崎闇斎先生の高弟である浅見絅斎先生(一六五二年~一七一二年)の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享四(一六八七)年、絅斎先生が三十五歳の時に上梓し、君臣の大義を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の略伝と遺言を編纂しております。絅斎先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣内外の名分を正し、尊皇の大義を説きましたが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われ、尊攘派志士の領袖として討幕の端を開いた梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」とも評されました。かく評した松陰自身も野山獄でこの書を読み感銘を受けています。
これまで『靖献遺言』を読む上で最良のテキストは、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』(国書刊行会)を措いて他にありませんでしたが、同書は絶版の上に高価であり入手が困難でした。しかし、このたび皇學館大学の松本丘先生の再編集によって講談社学術文庫から同書が再刊されたことで、読者の広汎な拡大が期待されます。特に昨年は崎門学の学祖、山崎闇斎先生の生誕四百年を迎え、崎門学の必読文献である『靖献遺言』への注目もが高まっています。
そこで弊会では、月例の勉強会として、以下の要領で『靖献遺言』を読む会を開催し、崎門学への理解を深めると共に、絅斎先生が本書に仮託した尊皇斥覇の現代的意味について考えたいと思います。つきましては、多くのご参加をお待ち申し上げております。
記
日時 令和二年一月十九日(日曜日)
第一部 上野国立博物館「出雲と大和」企画展参観
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1971
十一時上野駅集合
第二部 勉強会
https://www.spacee.jp/pre_bookings/share/9b2eb254a33244ec8e2d1c2b2a6055e7
テキスト 『靖献遺言』(講談社学術文庫)。各自ご持参下さい。
連絡先 折本龍則(orimoto1@gmail.com、09018471627)
各位
(崎門学研究会)
天野信景『塩尻』の中の尾張氏
尾張藩国体思想の発展を支えた天野信景は随筆『塩尻』において、尾張氏について言及していた。
例えば、「尾張氏は天孫火明尊(ほあかりのみこと)の御子天香山命(あめのかぐやまのみこと)の後胤小豊命(おとよのみこと)の裔也。朝家に仕へて尾張の国造となれり。且代々熱田の祠を奉す。孝徳天皇御宇尾張宿禰忠命御神を今の宮所にうつし奉る」と書いている。また、尾張連については以下のように書いている。
「尾張連は天香山命の孫小豊命の子建稲種命より出、旧事記及び姓氏録に詳也。亦甚目連公(はだめのむらじのきみ)と同じ流れにや。清和帝貞観六年六月八日尾張国海部の人治部少輔従六位の上、甚目連公宗氏尾張の医師従六位上、甚目連公冬雄等同族十六人に姓を高尾張の宿禰と賜はりしよし。三代実録九に見えたり」
ちなみに、愛知県あま市には甚目寺がある。その東門前に漆部神社が鎮座している。同神社の祭神である三見宿祢命は漆部連の祖であり、『旧事本紀』天孫本紀によると、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子。甚目連公もまたその一族とされる。