「山崎闇斎」カテゴリーアーカイブ

内田周平先生の筑後崎門派論


 内田周平先生は「崎門尊王論の発展」において、筑後崎門派について次のように書いている。
〈此の人(本荘星川)は筑後上妻郡の人である。この郡は昔絅斎先生の門人合原窓南が長く子弟を教授した処であつて、其の流風余韻が幾らか残つて居つたと見える。高山彦九郎や唐崎常陸介が筑後に遊んだ時は、いづれも上妻に逗留し、彦九郎は殊にその士風を褒めた事が星川の伝の中に載つて居ります。……宝暦十二年に闇斎先生墓所修繕の事があつて、其の寄付金張が残つて居る。……殊に目立つて見えるは、筑後の人が十八人出て居る。九州では筑後一州の外、日向に一人あるのみにて、其の他は載つて居らぬ。高山彦九郎は筑後に逗留して筑後で終つた。維新前に於ても筑後は勤王志士の潜匿所のやうである。是れには何にか因縁があらふと思ひます〉

『神道叢説』(国書刊行会、明治44年)目次

 『神道叢説』(国書刊行会、明治44年)には、垂加神道の重要文献も含め主要な神道文献が収録されている。以下、目次を掲げる。
卜部兼直「神道由来記」
度会家行「神道簡要」
吉田兼倶「神道大意」
船橋国賢「慶長勅版 日本紀神代巻奥書」
林羅山「神道伝授」
熊沢蕃山「三輪物語」
出口延佳「神宮続秘伝問答」
河辺精長「依勤績并高年申加階状」
吉川惟足「神道大意註」
橘三喜「神道四品縁起」
真野時綱「神家常談」
山崎闇斎「藤森弓兵政所記」
山崎闇斎「持授抄」
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有馬主膳と高山彦九郎─『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』より

 
●垂加翁伝来神道奥秘口訣を相伝許可される
 昭和18年、高山彦九郎先生慰霊会によって『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』が刊行された。日記原本は有馬主膳が所有していたものであり、その後、有馬秀雄が襲蔵していた。同書には、「有馬守居翁小伝」として以下のように書かれている。
〈別名 有馬守居、初め純次と称し、後主膳と改む 其の邸宅が久留米城内二ノ丸の東南隅なる傾斜路の辺に在つたので阪低窩と号し、剰水或は是誰とも称した。是誰の雅号は京都大徳寺の大順師の撰ひ所である
又書屋名を「虚受軒」と名づけ所蔵の文籍には、虚受軒蔵書又は虚受庫の印章を捺してゐた。「虚受」の語は、晋書礼志中の「君子虚受、心無適莫」に取つたので、これ「己を空うして、人言を容れる」の義である
守居が藩老として寛裕博く忠言を求めて、修省献替に努めたことが察知せらるゝ。
即似庵 篠山城東郊外─森嘉善宅の北方約二丁、現今久留米市東櫛原町久留米商業学校の北部─なる翁の別墅の廬舎を「即似庵」と称した これは寛政の初年、茶道の師たる孤峰不白の設計指揮によりて築造されたもので、園内に数百年を経て枝葉欝蒼として四辺を圧する一大樟樹があつたが、惜い哉近時柯葉次第に枯槁するに至つたので、此の名本も遂に伐斫された。
此の庵室は明治の中期、久留米藩番頭稲次家の後裔亥三郎氏が買収して、市内篠山町なる自邸に移したが今に現存してゐる
翁は皇室尊崇の念が篤かつたので、寛政の比尊皇斥覇の潜行運動に奔走した、上毛の俊傑高山彦九郎、芸州の志士唐崎常陸介等が、相前後して久留米に来た時は、此の別業を中心として、森嘉善・樺島石梁・尾関正義・権藤壽達・高良山座主伝雄等と交通往来し、雅雛に託して国事を談じたのである
(中略)
晩年深く山崎闇斎の垂加神道を信じて……唐崎常陸介に就いて、同神道の「三種神宝極秘伝」「神籬磐境秘伝」其の他垂加翁伝来神道奥秘口訣等、悉く相伝許可を得た人である。〉

合原窓南の門人②

 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●宮原南陸
 享保元年(一七一六)八月十五日、家老岸氏の家臣宮原金太夫の子として、十間屋敷(現・日吉町)に出生。名は存、半左衛門と称する。幼より至孝で学問に勉め、父職を襲って岸氏に仕えた。性は慎み深く、自分に厳格で、世事に練達し、主家三代に歴事した。学徳次第に世に高かまり、教を乞う者が多く、講義は本末を明らかにして懇切周到であったので、門人ますます増え、晩年には「門弟家にみつ」といわれている。当時の藩士で学問で名を成した者の多くは、南陸の門から出た。天明五年二月、藩校「講談所」が設けられると、藩主はその学徳をきき、特に抜擢して講官に任じた。陪臣の身で藩校教官となったのは破格の事であった。南陸の学統は山崎闇斎学派、師は合原窓南で実践をつとめ、空論を忌んだ。寛政四年(一七九二)六月十一日没。享年七七。墓は寺町真教寺。
●宮原国綸
 宮原南陸の嫡子で、名は国綸、通称は文之進、字は世経、桑州と号した。父南陸の学統闇斎学を奉じた。漢学ばかりでなく、柔剣術に長じ、また越後流兵法にも通じた。忠臣・孝子・節婦等の名を聞く毎に、その家を訪れ、善事善行を書き取り「筑後孝子伝」前後編、「筑後良民伝」を著し、藩主より褒賞を受けた。真木和泉守は、姉駒子が和泉守十二歳の時、国綸の長男宮原半左衛門に嫁した。この関係から和泉守は、国綸の教を受けた。文政十一年(一八二八)四月十七日没。享年六七。
『真木和泉守』(宇高浩著)より、
 「文政八年二月廿七日、和泉守の長姉駒子は、十九歳の春を迎へ、国老岸氏の臣、宮原半左衛門(得、字は多助)に嫁いだ。半左衛門は久留米藩校修道館教授宮原南陸の孫に当り、曽て和泉守が師と仰いだ宮原桑州の嫡男で、桑州は駒子が嫁いだ頃は未だ生存し、その後三年を経て、文政十一年四月十七日病没した。和泉守が桑州の門に学んだ頃までは、まだ弱冠で、充分に其の教えを咀嚼し得なかったであろうが、長ずるに及んで、南陸・桑州二人が読破した万巻の蔵書を、姉聟半左衛門に借覧して、勉学の渇を充分に医することが出来た。南陸父子の学は、山崎闇斎の門下、浅見絅斎に出で、筑後の合原窓南に伝わり、ついに南陸父子に及んだものである。崎門の学が、明治維新の大業に預って力があったことは、ここに吾
人の呶説を要しないところであるが、和泉守の思想の源流が、拠って来るべきところを知るべきである」 続きを読む 合原窓南の門人②

合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。
●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。
●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人①

志士の魂を揺さぶった五冊

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) 拙著『GHQが恐れた崎門学』では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』の五冊に焦点を当てた。
 この五冊の概要について紹介した箇所を引く。
①浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。
②闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。
③闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)
④蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。
⑤全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
 山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。

【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

 日本の自立と再生には、日本人が自らの歴史と思想を取り戻すことが不可欠である。その際、GHQによって封印された國體思想を解き放つことが重要な課題だと思われる。
 著者の平泉澄博士は、昭和45年に刊行した『少年日本史』の前書きで次のように書いている。
 「正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている」
 実際、平泉の重要論文「闇斎先生と日本精神」を収めた同名の書籍(昭和七年)は、GHQによって没収された。本書には、この因縁の論文も収められている。
 平泉隆房氏が「序」で的確な紹介をされている通り、本書は『平泉澄博士神道論抄』の続編として、平泉の著述の中から、主に神道論に関わる論文を集録したものである。「序論」には、「神道と国家との関係」を、「前篇 神道史上の人物論」には、菅原道真、明恵上人、北畠親房、山崎闇斎、遊佐木斎、谷秦山、佐久良東雄、真木和泉についての論文を収録している。闇斎を論じた論文が「闇斎先生と日本精神」であり、崎門の真髄を次のように描いている。
 「君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」(本書125頁)。 続きを読む 【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

山崎闇斎墓所

平成24年8月、『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)の取材のために、金戒光明寺を訪れ、絅斎の師・山崎闇斎のお墓参りをした。
三重塔(国・重要文化財)を目指して階段を上り、塔の前を左に曲がり、最初の通路を右に折れてしばらく進むと、闇斎のお墓がある。

下御霊神社御札─山崎闇斎の垂加霊社

 
崎門学研究会代表の折本龍則氏が平成28年9月に京都を訪れ、崎門学の祖・山崎闇斎先生縁の下御霊神社をお参りした。
神社境内には、闇斎が自らの心神を祀った垂加社がある。今回、折本氏より有り難くも、御札を頂戴した。
垂加とは伊勢神道の『倭姫命世記』にある次の言葉に由来する。
  神垂以祈祷為先(かみはたるるにねぎごとをもってさきとなし)
  冥加以正直以本(くらきはくはふるにしょうじきをもってもととなせり)

この言葉を記した御札が入っている。

坪内隆彦「幕末志士の国体観と死生観」

 『国体文化』平成28年4月号に拙稿「幕末志士の国体観と死生観」を掲載していただいた。誠にありがとうございます。
本稿は、平成27年12月19日に開催された「国体学講座 第七講」における同名の講演録。
崎門学、水戸学の国体観、死生観を概観した後、梅田雲浜、吉田松陰、真木和泉の三人を具体的事例として、幕末志士の国体観、死生観の意義について語ったものである。