「垂加神道」カテゴリーアーカイブ

尾張崎門学派・堀尾秀斎(春芳)の歩み

 
 尾張藩で多くの門人を育てた吉見幸和と、『名分大義説』を著した堀尾秀斎(春芳)は、ともに尾張崎門学の先駆者・小出侗斎の門人である。しかし、吉見と堀尾は同門でありながら、立場を異にした。以下、岸野俊彦氏の「尾張垂加派堀尾春芳の生涯」(『名古屋自由学院短大紀要』第二三号、一九九一年)に基づいて、堀尾の歩みを追う。
 堀尾は、正徳三(一七一三)年に生まれた。父親は、名古屋御園町に住む堀尾吉兵衛吉次、母親は、吉次の後妻で花木氏。堀尾は六才前後から、父親に実語教、小倉百首、小学等の初歩教育を受けた後、師について文武の芸を学んだ。剣術を長尾和太夫に学び、さらに兵術、鑓、組打類も学んだ。弓馬については野村源之進を師とした。
 そして、堀尾は浅見絅斎門下の小出侗斎に入門した。享保十二(一七二七)年には、春秋伝から引いた「春芳秋実」との称を贈られている。当時、侗斎はすでに還暦を過ぎていたこともあり、堀尾に対して、自分の門人の須賀精斎に学ぶように命じた。須賀精斎は、儒教を小出侗斎に学び、神道を吉見幸和に学んでいる。岸野氏は、次のように指摘している。
 〈吉見幸和が垂加神道の神典の主たるものであった伊勢の神道五部書を批判する「五部書説弁」を著し、垂加神道から独自の吉見神道へ移行していく契機になるのは一七三六(元文元)年であり、幸和五十三才、精斎四十七才、春芳二十三才であるので、春芳の幼少年期の幸和は反垂加にまだ転じてはいなかった。したがって、後年の春芳の崎門の学と垂加神道の基礎的枠組は須賀精斎によって与えられたとみることができるであろう〉
 岸野氏が指摘する元文元年以前の吉見とそれ以後の吉見とを峻別することは極めて重要だと考えられる。
 堀尾は、小出侗斎、須賀精斎による儒学の基礎教育の上に、享保十三(一七二八)年から、浅井周迪・勝永寿軒・桜井養益(養周)に医を学び始めた。一、二年の修学を経て、堀尾は名古屋の伝馬町で医を開業する。この伝馬町時代、堀尾は医業の他に、四書や近思録を講じ、さらに神書も講じていた。伝馬町時代の享保十五(一七三〇)年、知多郡横須賀村の人に招かれて、初めて横須賀で医療を行った。その五年後の享保二十(一七三五)年正月、堀尾は伝馬町から横須賀村へ移住した。

尾張藩における崎門学派と国学派②

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 [前回から続く]〈宣長学が、古典注釈学としての学問の領域にとどまる限り、それは尾張垂加派からみても決して否定するものではなく、むしろ評価すべきものとみていることは確認しうると思う。だが、宣長の学問は、彼の神への熱い思いと密接不可分のものであった。尾張垂加派の宣長批判は、まさにこの点にかかわっており、宣長の「我国の学、神道めきたる事」は「いとあやしき事のみぞ多かる」という(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)。
 ただ、宣長の神道に対しても全面否定するものではなかったことは、「宣長、大和魂を論じ出しよりして、我国漢学を宗とする者までも皇国皇統を推尊し、外国を賤しむるを知れり。其功、大なりといふべし」(深田正韶『正韶詠草一』など)と述べていることから理解することができる。高木秀條や深田正韶の少年期から青年期にかけて、名古屋を舞台に展開された宣長と徂徠学派の市川鶴鳴との『くず花』『末賀乃比礼』論争は、おそらく彼らの意識の中にあったと思われる。中国的価値に深くとらわれた儒者に対決する限り、宣長の神道論は、尾張垂加派にとっても十分に有用なものであった〉
 では、尾張垂加派は宣長の神道論のどこを問題視したのだろうか。岸野氏は、①「古伝」そのものの持つイデオロギー性、②両者の神道の支持基盤、③「日本魂」の本質理解、④死後の霊魂の問題──の四点を挙げて、以下のように説いている。 続きを読む 尾張藩における崎門学派と国学派②

尾張藩における崎門学派と国学派①

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 〈尾張藩教学に足場を固めつつあった本居門の学識は、尾張藩にとっても尾張垂加派にとっても認めざるをえないものであり、かつ有用であったことは、深田正韶自身が藩命による『尾張志』編纂の総裁として、校正植松茂岳、輯録中尾義稲を編纂スタッフに加え、その学識に依拠したことのうちにみてとることができる。この点、尾張垂加派が国学一般をどのようにみていたのか、以下の引用(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)によって確認しておこう。
 「古学……其始は契沖阿闍梨なんどより出て、もとは歌学の助けとして万葉集をはじめ古言古辞の解しがたきをわきまへ、夫よりして古事記はことに古書にて古言古辞の証拠と為べき書なれば、専らに穿鑿してやゝ発明の事ども多く、契沖より以後、加茂の真淵なんどにいたり、いよいよくわしくなりて、先輩の心つかさる事ども迄もよく釈出して、書どもあまた著し後学のためによき便となる。大幸といふべし」
 これは、高木秀條の理解であるが、契沖以後、宣長に至る国学の系譜と、その古典注釈学としての価値を正当に評価しており偏見はみられない。また、国学が漢文の影響の強い『日本書紀』よりも『古事記』を重視したことの意義についても、この限りでは冷静に理解しているといえる。このように学問領域に限定すれば、宣長に対しても「強記英才」と高い評価を与え、宣長の『古事記伝』もまた、「古言辞の解釈精密確実」と、その学問としての画期的意義を認めている。垂加派といえども、彼らの学識と文人としての良識は、学問としての合理性を持つ宣長学は理解の範囲内にあったことを確認しうるであろう。
 だが、同じく国学とはいえ、平田学については極めて否定的であった。
 「近頃、平田篤胤といへる者、もと宣長の門弟にて甚だ其流を信じ学びたるやうに聞えたれども、当時説く所、大に師説に悖りて、我ら如きの思ひもかけぬ珍奇の説をいひ出し(中略)かゝる事もいへばいはるゝ物かと思ふ計、奇々妙々の説ともなり、是また是非を論ずるに及ばず」
 篤胤の学問方法の特徴は、古典の注釈という外貌は持つが、宣長のように漢文の潤色のない『古事記』を絶対化するものではなかった。彼は「真の古伝」というものを仮想し、自らの作りあげたイメージに合うものは『古事記』『日本書紀』に限らず、儒教・道教・仏教・キリスト教であろうが、すべて「真の古伝」の残影とみた。この立場から『日本書紀』を否定する宣長を篤胤は、「漢土に遺れる古文なるを、我が真の古伝に合へる説なる故に、御紀の巻首に先これらを載られたる物なるべし、然るを師のいたく悪まれたるは一偏なり」と批判をする。この方法は、子安宣邦もいうように、「古典に対して注釈者の位置にいるのではなく」、古典を「増殖する彼の観念のてだて」とするものであり、国学を古典注釈学の系譜の内に理解しようとする尾張垂加派にとって、まさに「思ひもかけぬ珍奇の説」であり、学問として認めうるものではなかった。平田篤胤が、一八三四年(天保五)十一月に尾張藩から扶持を打ち切られる背景には、幕府の動向や、名古屋での本居門の反発などが予測されるが、尾張垂加派のこのような平田学への対応もまた一要因として考慮する余地があると思われる〉(百四十九、百五十頁)

尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張垂加派について以下のように書いている。
 [前回より続く]〈尾張垂加派が背後に持っている交友と文化的傾向について、深田正韶が主催した「天保会」という、文化的サロンを紹介することによって明らかにしたい。
 深田正韶は、天保改元を期に「天地万物人倫綱常、大小幽明変幻奇怪」にわたる情報を同好の士で出し合い記録すべく第一回の会合を開き、その会を「天保会」と名づけ、その記録を『天保会記』とした。これには、尾張垂加派のほか、榊原寧如(禄千四百石)・幡野忠孚(禄八百石の長子)・石井垂穂(禄二百五十石)・石黒済庵(奥医師)・長坂正心(藩主宗睦養女・近衛基前室付侍目付)・柳田良平(寄合医師)・大館高門(一条家侍医・宣長門豪農)らが参加した。
 これら主な参加者の特徴は、尾張藩士としては中級以上であること、藩主に近い位置にあること、京都の堂上公家との関係が強いもの等とみることができる。こうした構成上の特徴により、その情報は尾張地域やその周辺を基礎としつつ、それにとどまらない多彩さをみることができる。
 その一つは江戸文化との関係である。
 石井垂穂は、横井也有の『鶉衣続篇』等の校合で知られているが、深田らと同様、化政期をはさむ前後二十年の江戸勤番の経歴を持っている。石井は江戸を、「六十六ヶ国の寄合所、風月をたのしむ友多くば、勤番もまんざらでもなき物也」と天保会で述べている。事実、石井は江戸で唐衣橘洲に狂歌を学び、蜀山人・飯盛・真顔・種彦らと交わった。高木や深田ら江戸勤番の経験を持つ者は、程度の差はあれ同様の傾向を持つと思われる。
 その二は、京都文化、特に堂上公家の文化との関係である。…高木は日野資枝、深田は芝山持豊ら、和歌の師は堂上公家である。こうした和歌の師を堂上公家とするのは、藩主を初めとして中級以上の藩士には通常の関係であり、そのことが上層の社交と贈答関係を彩るものと理解されていた。また、彼らが尾張藩主を『天保会記』で「大納言の君」と記す意識のうちに堂上志向をみることができる。そればかりではなく、藩主自身も堂上公家との血縁的関係を持とうとした。長坂正心は藩主の養女が近衛家に嫁いだため、侍目付として京都定詰となっている。長坂は、京都定詰であり天保会には出席しなかったが、「当時在京長坂正心出之」との京都情報が天保会に届けられている。また、柳田良平は尾張藩では寄合医師で格は低いが、京都で医を学び日野資愛や富小路昌信らの堂上公家との関係が強かった。大館高門は、海東郡木田村の豪農で宣長門人として有名だが、宣長死後は医に志し京都へ行く。やがて彼は、一条家の侍医となり、堂上公家の歌会や茶会に同席した。文政から天保の初めには母親の病気もあって木田村に帰っており、天保会に出席した。 続きを読む 尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

尾張藩垂加派①─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より


 尾張藩の崎門学派は、浅見絅斎門下の小出侗斎に始まる。小出門下から出た吉見幸和は多くの門人を育てた。ただし、崎門正統派を継ぐ近藤啓吾先生が指摘した通り、吉見の考証重視の姿勢は学問的発展をもたらした半面、「神道そのものが、信仰としてでなく考証考古の対象として考へられるやうになり、合理実証のみが学問であるとする弊が生じ」る一因ともなった。
 一方、小出門人としては、『名分大義説』を著した堀尾秀斎(春芳)の名が知られる。岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張垂加派について以下のように書いている。
 〈尾張垂加派は…堀尾春芳に始まり、高木秀條・深田正韶・朝岡宇朝・細野要斎等へと継承される系譜を指している。このうち…文政から天保期の尾張垂加派は、堀尾春芳没後で、高木秀條・深田正韶を主力とし、この両者が中心となって宣長批判を展開するのである。以下、これらの人々が尾張地域ではどのような階級的・文化的位置にあるのか、その略歴をみておこう。
 堀尾春芳は、吉見幸和にやや遅れて京都で垂加神道を学び、一七七九年(安永八)に尾張藩の支藩美濃高須藩の家老高木任孚に認められ、以降約十五年間、同藩藩校日新堂で講義をし、寛政期に死去している。
 高木秀條は堀尾春芳を高須に招いた高木任孚の次男で、後、尾張藩の高木秀虔家を継ぎ、江戸で藩の世子(斉朝)の伴読をし、さらに奥寄合・中奥番等を歴任し、足高を合わせて二百五十石となる。秀條は、儒を崎門の須賀亮斎に学び、和歌は日野資枝に学ぶ。秀條は少年期から青年期にかけて高須にきていた堀尾春芳に垂加神道を学んだと思われる。
 深田正韶は、一七七三年(安永二)に生まれており、秀條より四歳年少である。深田家は、円空が義直の儒臣となって以来の儒者の家で、正韶は禄二百石を世襲した。正韶は、祖父厚斎、父九皐に家学を承け、崎門の中村習斎にも学ぶ。和歌は、芝山持豊・武者小路徹山らに学び、仏教にも関心を持った。亨和期から文政の初めの十八年間、江戸勤番となり、藩主斉朝の侍読となったり、高須藩の用人に一時なったりもする。秀條より正韶への垂加の伝授が、ほぼ前後して両者が幼年の藩主の教育にかかわった江戸か、文政期の名古屋であるのかは確認できないが、文政期には正韶ほまちがいなく垂加を標榜している。帰名後の正韶は、一八三二年(天保三)に『張州府志』改撰の命を受け、編纂総裁となり、後、和文の『尾張志』として完成させたり、一八四二年(天保十三)からは書物奉行となっている。 続きを読む 尾張藩垂加派①─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

伯家神道─清原貞雄『神道沿革史論』(大鐙閣、大正8年)より

 以下、清原貞雄『神道沿革史論』(大鐙閣、大正8年)より伯家神道の部分を引く。
 〈伯家神道は元、神祇伯の家に伝はつた神事から来たもので、白河家のものである、所謂神祇四姓(王氏即白河、中臣、忌部、卜部)の一で、花山天皇の皇子清仁親王の御子、延信王の神祇伯に任ぜられて以来、代々伯職を相続し、永く王氏を称したので、共儀式の事等に就ては伯家部類に詳しく見えて居るのが今一々述べぬ、其職掌は宮中及神祇官に於て神事を掌るもので、従来、神道説等に関係は無かつたのである、然るに吉田神道が段々盛になり、吉川神道、垂加神道が唱へらるゝに至つて、其風潮につれて伯家でも遂に神道説を起す訛に至つた。其神道説を覗ふべきものは多く遺つて居らぬが、神道通国弁義二巻、及び神祇伯家学則に依りて大体を知る事が出来る。神道通国弁義は神祇伯資顕王家の学頭森昌胤の名を以て書かれたもので、資顕王は宝暦九年に神祇伯となり、天明五年に薨じた人である(白河家系譜)。此学頭なるものは何時頃からあつたものか詳で無いが、伯家部類には白河家学頭臼井帯刀なるものが八神殿の御霊代を盗んで一条兼香に奉つた事が見えて居るのを見ると、遅くとも元禄か宝永頃にあつたものである。今其説の大要を述ぶれば、神道は天地の神気循環して万物生々化々する名であつて万物一般の大道である、神といふは大素の無の所から、有と天地開闢する運をなす活気を神といふので、共外に体が有る者では無い、凡て天地の万物は神化に出る、其神化の妙遷、理気質形と次第して見ると、理気の無形の幽隠と云つて目に見る事が出来ず、質形は有実の顕露と云つて目に見るの実である、幽隠は心に観じて見る所を云ひ、顕露は現在に見るといふのである、儒教に大極動て陽を生じ、静々して陰を生ずるとあるが、陰陽二気の神と云ふは諾冊二尊の事である。三は神道の成数で、事物皆三つを以て分るゝ、理と気と形が無ければ見る事が出来ず、質から目に見る者が出来て物我の別がある故に、皆天地にして日月星と分れ、又人は君臣と分れて居る。
 天御中主尊は理天地の理神、国常立尊は気天地の理神である。天地の開闢する理、気、質、形の次第、乾坤、陰陽、天地といふ差別をよく得心すれば、神代紀の旨自ら明かになるのである。天地の間は皆自然の神化あつて、神化即ち神道である、其神と云ふは聖にして知る可らざるもの、而も自然を主どるものである。神道の中に養はれて神を知らぬから身を知らず、身を知らぬから忠孝も知らぬのである、万国一般の神道から云へば、仏は迫害供養を行事とする天竺の神道、儒は五常五倫を行事とする唐の神道、日本は祈祷祭祀を行事とする日本の神道で、只其行事勤めかたの替があるばかりである。
 以上は其神道説の一班であるが、大体に於て之も又宋学の理気説等から脱化して属る事が判る。其外に従来の神道者流の秘伝口授等を設けた事を攻撃し、殊に吉田、吉川、垂加等の諸派を罵つて居る。
 神祇伯家学則は伯王殿御口授、御門葉等謹承、として書き出し、終りに神祇伯家四十二代文化十二年の奥書がある、四十二代は資顕王である、此学則は従来あつた所の伯家条目なものゝ最初に、「夫神道者万国一般之大道、古今不易之綱紀、神武一体法令之出処也、とあるのを始めとして、孝徳紀の惟神者謂随神道亦自有神道といふ言葉、古事記の序にある乾坤初分云々の文等を掲げ、之等を説明敷衍し、且つ固く体してよく守るべき旨を述べたものである。〉

「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

以下、崎門学研究会発行の『崎門学報』第13号に掲載した「『王命に依って催される事』─尾張藩の尊皇思想 上」を転載する。
●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 続きを読む 「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

久留米勤皇志士史跡巡り③ 高山彦九郎から真木和泉へ

真木と彦九郎の遺児
 彦九郎は幕府に追い詰められ、寛政五(一七九三)年六月二十七日、森嘉膳宅で自刃した。その三年後の寛政八(一七九六)年十一月十八日には、唐崎常陸介が、彦九郎の後を追って竹原庚申堂で自刃した。
 さらに、享和二(一八〇二)年五月二日には、天草の西道俊が彦九郎の墓前で割腹している。道俊は、若い時代から彦九郎と結び、尊号宣下運動でも彦九郎と行動をともにしていた。しかし、寛政五年春、彦九郎が幕吏に追われて長崎へ逃れた際も道俊は行動をともにし、海路上京しようとした。しかし、果たさず虎口を脱して天草に逃れた。
 彦九郎自刃後、ともに勤皇を語るべき友もなく、医を業として十年ほど過ごしていた。しかし、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともし難く、ついに天草を出て久留米の森嘉膳宅に向かったのである。そして、自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘り、自刃した。辞世は
 欲追故人跡 孤剣去飄然
 吾志同誰語 青山一片烟 山腰雅春『五和町郷土史第一輯』(昭和四十二年)
 道俊の墓は、彦九郎と同じ遍照院にある。ひょうたん型のお墓で、墓標は玄洋社の頭山満によるものだ。
 彦九郎の長男儀助が久留米を訪れたのは、その翌年の享和三(一八〇三)年六月であった。後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には次のように描写されている。
 〈後年先生屠腹の後、一子儀助、久留米に来つて、遍照寺畔なる父の墓を展した時も、石梁は彼を自家に宿せしめ、種々慰撫する所があつた。将に帰らんとするや、詩と涙とを以て之に贈つた、義心感ずべきものがある。
    高山儀助自上野来展其考仲縄墓
    留余家一句臨帰潜然賦贈
 悲哉豪傑士。化作異郷塵。山海三千里。星霜十一春。憐君来拝墓。令我重沾巾。孝道期終始。慇懃愛此身。
 情懐綿々として、慇懃極まりなきものがある。十有一年前、先生の死に対してそゝいだ其の涙は、今や孝子儀助の展墓によつて、再たび巾を霑さしめた。嘗て彦九郎先生の為に、
  赤城仙子在人間。明月為衣玉作顔。怪得煙霞嚢底湧。躡来三十六名山。
 を謳つた其の人が、遺孤の為に此詩を賦せんとは、恐らく石梁其の人もまた宿縁の浅からざるを感じたであらう〉
 石梁は、文政三(一八二〇)年五月に「宮川森嘉膳小伝」を著し、彦九郎について記している。つまり、石梁は彦九郎の志を語り継いだ重要人物だったということである。
 その八年後の文政十(一八二八)年に石梁は亡くなっているが、若き真木が樺島との接点を持っていた可能性はある。あるいは、石梁の思いを継ぐ者から、真木が彦九郎のことを伝えられた可能性もある。そして、真木自身が彦九郎への関心を強めていく。木村重任の『故人物語』によると、真木は天保九(一九三八)年頃、彦九郎の話を聞くために安達近江宅を訪れている。
 そして、天保十三(一八四二)年正月、真木は「高山正之伝」を筆写・熟読した。彼は感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げている。その年の六月二十七日、木村重任等とともに、高山彦九郎没五十年に当たり祭典を行った。
 そして真木は、まさに彦九郎の志を継ぐべく、立ちあがるのである。三上卓先生は、「真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである」と書いている。

久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁

真木と高山を繋ぐ宮原南陸
 
 平成三十年四月十五日、筑後市水田に向かい、真木和泉が十年近くにわたって蟄居生活を送った山梔窩(くちなしのや)を訪れた。
 やがて、真木は楠公精神を体現するかのように、行動起こすが、彼の行動は高山彦九郎の志を継ぐことでもあった。
 真木は、天保十三(一八四二)年六月二十七日に、彦九郎没五十年祭を執行している。では、いかにして真木は彦九郎の志を知ったのであろうか。それを考える上で、見逃すことができないのが、合原窓南門下の宮原南陸の存在である。
 文政七(一八二五)年、真木が十二歳のとき、長姉駒子が嫁いだのが、南陸の孫の宮原半左衛門であった。こうした縁もあって、真木は、半左衛門の父、つまり南陸の子の桑州に師事することになった。ただし、桑州は文政十一(一八二九)年に亡くなっている。しかし、真木は長ずるに及び、南陸、桑州の蔵書を半左衛門から借りて読むことができた。これによって、真木は崎門学の真価を理解することができたのではなかろうか。
 一方、彦九郎の死後まもなく、薩摩の赤崎貞幹らとともに、彦九郎に対する追悼の詩文を著したのが、若き日に南陸に師事した樺島石梁であった。石梁こそ、彦九郎の志を最も深く理解できた人物だったのである。
 石梁は、宝暦四(一七五四)年に久留米庄島石橋丁(現久留米市荘島町)に生まれた。これが、彼が石梁と号した理由である。三歳の時に母を亡くし、二十五歳の時に父を亡くしている。家は非常に貧しかったが、石梁は学を好み、風呂焚きを命じられた時でさえ、書物を手にして離さなかったほどだという(筑後史談会『筑後郷土史家小伝』)。
 天明四(一七八四)年江戸に出て、天明六年に細井平洲の門に入った。やがて、石梁は平洲の高弟として知られるようになった。石梁は寛政七(一七九五)年に久留米に帰国した。藩校「修道館」が火災によって焼失したのは、この年のことである。石梁は藩校再建を命じられ、再建された藩校「明善堂」で教鞭をとった。 続きを読む 久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁

久留米勤皇志士史跡巡り①

竹内式部・山県大弐の精神を引き継いだ高山彦九郎
 平成30年4月15日、崎門学研究会代表の折本龍則氏、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、久留米勤皇志士史跡巡りを敢行。崎門学を中心とする朝権回復の志の継承をたどるのが、主たる目的だった。
 朝権回復を目指した崎門派の行動は、徳川幕府全盛時代に開始されていた。宝暦六(一七五六)年、崎門派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義を開始した。式部らは、桃園天皇が皇政復古の大業を成就することに期待感を抱いていた。ところが、それを警戒した徳川幕府によって、式部は宝暦八(一七五八)年に京都から追放されてしまう。これが宝暦事件である。
 続く明和四(一七六七)年には、明和事件が起きている。これは、『柳子新論』を書いた山県大弐が処刑された事件である。朝権回復の思想は、幕府にとって極めて危険な思想として警戒され、苛酷な弾圧を受けたのだ。特に、崎門の考え方が公家の間に浸透することを恐れ、一気にそうした公家に連なる人物を弾圧するという形で、安永二(一七七三)年には安永事件が起きている。
 この三事件挫折に強い衝撃を受けたのが、若き高山彦九郎だった。彼は三事件の挫折を乗り越え、自ら朝権回復運動を引き継いだ。当時、朝権回復を目指していた光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていた。彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、なんとか尊号宣下を実現しようとした。結局、幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年に彦九郎は自決に追い込まれた。 続きを読む 久留米勤皇志士史跡巡り①