副島種臣に強い影響を与えたのが、神道霊学中興の祖・本田親徳である。本田が再編した神道霊学とはいかなるものだったのか。宗教学者の鎌田東二氏は、『神界のフィールドワーク―霊学と民俗学の生成』(創林社、昭和60年)において、次のように指摘している。
〈……安政四年(一八五七)頃に、本田親徳は神祇伯白川家の最後の学頭であった高浜清七郎と交わっているので、高浜より伯家神道の神事秘法について教示された可能性もある。かつて平田篤胤も伯家の古学方教授やのちには学頭に就任したことがあるが、この伯家神道すなわち白川神道には「十種神宝(とくさのかんだから)御法」という行法が伝わっている。……文久二年(一八六二)の八月一日付で、その頃備前国岡山に住んでいた高浜清七郎は、「十種神宝御法口授」の認可を受けたことが『白川家門人帳』に「高濱清七郎(源政一) 右今般依願、十種神宝御法被口授訖。万事正路之心得を以、可令修行。伯王殿被命処也、仍執達如件」と記されている。本田親徳はこの高浜清七郎について、「三十年来余と友人たり」とある書簡に記しているから、高浜より伯家神道の祭式や修行法を教わった可能性はかなり高い〉
では、「十種神宝御法」とはいかなる行法なのか。鎌田氏は次のように続ける。
〈「十種神宝」については、平安時代にまとめられた物部系の伝承を伝えたとされる『先代旧事本紀』に出てくる。物部氏の祖神饒速日神が天降りするとき、高天原で天照大御神より授けられた瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるかへしのたま)・道反玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種の天爾玉瑞宝を、「もし痛む処有らばこの十宝をして、一二三四五六七八九十(ひふみよいつむななやここたり)といひてふるへ。ゆらゆらとふるへ。かくせば死人も反り生きむ。これ即ち布瑠(ふる)の言の本なり」といわれるごとく、揺すり振るいながら生命のさきはいを祈ったのが物部系鎮魂祭の初めとされる。この祭祀は宮中の鎮魂祭祀に吸収されたが、伯家の「十種神宝御法」には、そうした古代祭祀や呪術に加うるに、吉田神道の行法の影響があったのではないかと私は思う。菅田正昭によれば、この「十種神宝御法」の行は「目をつぶったままで行なう幽祭修行で、十種神宝を十個の徳目にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯を一歩ずつのぼっていこうというもの」とされる。また、そこでは手かざしによる浄霊(鎮魂)が行なわれていたという。そのほか、伯家には気吹の法や永世の法なる一種の呼吸長生法が伝わっていた。
こうしてみれば、本田親徳の再編した「鎮魂帰神術」は、物部石上系の魂の医療技術としての鎮魂(招魂)法と、神功皇后が厳修したといわれる神教を請う方法としての神懸り(帰神)の法とを合体させ、それを導く「霊学」原理として「審神者」の法を確立した点にその特徴があるといえよう〉
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大本開祖出口なおと本田親徳の邂逅
大本開祖出口なおの天職を見ぬいた人物こそ、本田親徳翁であった。大正9年に服部静夫が著した『大本教祖出口直子伝』(明誠館)には「本田親徳翁の眼識」と題して、次のように書かれている。
〈今の綾部町皇道大本の境内の一部に石の御宮と称する一区画がある、これぞ綾部町字本宮坪の内の元屋敷で、刀自(出口なお)は其の昔其処にささやかなる茅屋を建てゝ、貧苦と戦つて生活をしてゐた、明治二十一年三月即ち刀自が神懸り以前の事であつたが、或る日所用のため隣郡船井郡鳥羽村はづれの八木島の手前まで差掛つた時、途上に異様の風をした一人の老翁と遭遇した事があつた、其の翁は不意に刀自に向つて最も荘厳な口調にて、先づ敬神の必要から説話し始め、刀自が変性男子の霊性を具備してゐることや、尚八人の子女の母であることまで看破して、後年必ず重大なる天職の任命が下る時期の来る事など淳々と述立られたので、最初刀自は奇意の思に駆られて、其の意の何たるかをを、半信半疑で其の返答にさへ煩つた、挨拶もそこそこ其の儘立ち別れて仕舞つた、此の異様の人物こそ後年に至つて実に本田親徳翁であつた事が判つた〉