「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

葦津珍彦の真木和泉論

 葦津珍彦は「禁門の変前後」(『新勢力』昭和39年7月号)で、以下のように書いている。
 〈真木和泉の「出師三策」は、その後段に、真木の武力行使論に反対する長州人士にたいして、あくまでも説得しようとして、問答形式の論が書き列ねてある。この問答は、真木の思想を知る上に、とくに大切な文章であると思はれるが、そこには次のやうな論理が展開されてゐる。
 「ある人びとはいふ。我藩は入朝の停止を命ぜられてゐるのだから、強ひて入朝しようとすれば、勅命をもって停止させられるのは必然ではないか。勅命に抗するわけにはいかぬ、と。しかし今日の勅は、中川宮の偽勅と称すべきであって、真の勅ではない。私は諸君に問ひたいが、もしも中川宮の徒が長州の封土を没収しようとして来た場合に、諸君は易々と封土を没収されるつもりなのか。おそらく違勅になるからといって、祖先伝来の封土を明け渡すわけにはいくまい。しかしその時になって、はじめて偽勅などと云ひ出しても論理は立たないぞ。この勅は、中川宮の偽勅だと初めから断ずることが大切なのだ。ある者によれば、八月十八日、あの緊迫した時に、長州は戦はずして退いた、いま戦ふのは暴逆ではないかといふ。かやうな論をなす者は卑怯者のみである。今日のことは、ただ戦ひの勝敗のみがすべてを決する時なのである。この道理を知る者のみが目的を達する。
 ─―われわれの策は、その行為の形からみれば不義である。しかしその心情は光明正大であり、天地鬼神もこれを知る。断じて恥づるところではない。
 『真木和泉守遺文』所収「出師三策」に曰く、
 「……今我之所為、則世之所不測 所謂動千九天之上者 既褫其胆 焉得有以兵加我者乎 此為以攻為守也。而其迹之不義 則我心光明正大 天地鬼神知之 非所恥也。
 或曰 既停入朝 強而入則以勅停之必也 曰 今日之勅云者 中川賊所為也 非真也。若以此為真 則我無可為者 仮令有来奪我封者 則我甘納之乎 不納之 則果為違勅乎。特至此時而為偽非也。或曰 八月十八日賊軍士卒既内 銃礮既擬 而未発 而我今以戦臨之似暴 何如 曰為此言者非慎也 怯也 今日之事唯在干戦之勝敗 能了此意者得志耳。」
 かれは「今日の勅といふは、中川賊の偽勅であって真の勅でない」といふ断定に立ってゐる。しかし偽勅とは何であらうか。天皇の意思に無関係に、あるいは天皇の意思に反して発せられた勅であるとの意味なのであらうか。それは必ずしもそのやうな意味なのではない。かれがその後に起草した上奏文によれば、天皇が側近の「讒誣欺子」のために誤られて、八月十八日以前の意思と異なる勅を発せられ、ために天下は危機に瀕してゐるが、いまにして正しい判断に戻らなければ、まことに重大事に立ち至るであらうと申し上げてゐる。これによってみれば、真木の偽勅といふ意味は、ほぼあきらかである。天皇が、中川宮の邪説に誤られて同意された勅なのであって、聖天子に相応しい正義の勅ではないといふほどの意味である。真木は、あきらかに天皇にたいして、諫争することの緊急を痛感してゐるのである。 続きを読む 葦津珍彦の真木和泉論

「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

 在野の興亜論者たちは、アジア諸民族が対等の立場で協力するという理想を追求し続けた。「東亜連盟建設要綱」(改定版 昭和18年6月)にもそれは明確に示されている。同要綱は、次のような章立てとなっている。
 序篇 大東亜戦争と東亜連盟
 第一篇 東亜連盟の理念
  第一章 東亜連盟の名称
  第二章 東亜連盟の範囲
  第三章 連盟の指導原理
  第四章 連盟結成の基礎条件
   一、国防の共同 二、経済の一体化 三、政治の独立 四、文化の溝通
  第五章 連盟の統制
  第六章 東亜連盟の盟主
 第二篇 東亜連盟の各国家
  第一章 日本皇国
   一、国防の担任 二、経済建設の指導 三、国內に於ける民族問題
  第二章 満洲帝国
   一、満洲国独立の理由 二、満洲国の責務 三、独立の完成
  第三章 中華民国
   一、支那事変の処理及び中国の連盟加入 二、中国当面の国內問題 三、独立の完成
  第四章 南方諸国
   一、南方開発の根本方針 二、南方統治に就いて
 特に筆者は、「東亜連盟の盟主」の次の一節に注目している。
 明治維新は封建制度を打破して民族国家を完成するのが、その政治的目標であった。国内の諸問題については世界史上無比の輝かしき成果を挙げ得たのであるが、一面他民族、特に東亜諸民族に対しては、勢の赴くところ徒に軽侮の悪風潮を生じ、安価な優越感をふりまわし、台湾・朝鮮の統治および満州国の建設に於て、文化の急速なる発展に大なる寄与をなし、諸民族を幸福とせることは否定し難きに拘らず、東亜諸民族の民心把握はむしろ失敗し、今なお漢民族を挙げて抗日に動員せられている現状である。
 東亜連盟の結成をその中核問題とする昭和維新のため、我等は先ずこの事実を率直に認めることが第一の急務である。 続きを読む 「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

「新田義貞・高山彦九郎ゆかりの地を訪ねる」

崎門学研究会主催「新田義貞・高山彦九郎ゆかりの地を訪ねる」。一般参加も歓迎です。
●日時:平成30年8月5日(日)
●集合時間:10時30分(18時解散予定)
●集合場所:太田駅(東武鉄道伊勢崎線)
●参加費:1000円(資料代として。交通費・入場料自己負担)

■新田義貞(1301~1338)
 後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉を攻撃、元弘3(1333)年幕府を滅ぼした。建武中興で、越後守・上野介や武者所頭人に任ぜられた。足利尊氏と対立。楠木正成とともに尊氏と戦ったが敗れ、恒良・尊良両親王を奉じて越前金崎城によったが落城。足羽郡藤島で斯波高経と交戦中討ち死に。
■高山彦九郎(1747~1793)
 13歳の頃『太平記』を読んで建武中興の忠臣の志に感動。宝暦・明和事件などの幕府による勤皇派弾圧事件の挫折を乗り越えんとし、勤皇の大義を唱える。光格天皇の実父典仁親王への尊号宣下実現運動に奔走するも、幕府に追い詰められ、寛政5年6月27日久留米で自刃。
主な訪問予定地
 新田荘歴史博物館 新田氏の活躍した史跡「新田荘遺跡」に代表される歴史資料などを展示
 生品神社 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすために挙兵した場所
 反町館跡 新田義貞が築城したとされる城館跡
 高山彦九郎記念館 彦九郎の旅と足跡をテーマとし、旅道具・書簡・日記などのほか、映像などを利用して分かりやすく紹介
 高山神社 明治6年(1873)創建。彦九郎を祭神として祀る
主催:崎門学研究会(orimoto1@gmail.com、090-1847-1627)

「楠公精神を体現した真木和泉」(『あゝ楠公さん』第10号)

平成30年4月、久留米水天宮内の真木和泉守記念館を見学、真木自筆の原稿や遺品などから、改めて楠公精神を体現した真木の生涯を思い起こした。
 
湊川神社社報『あゝ楠公さん』第10号巻頭に掲載していただいた拙稿「楠公精神を体現した真木和泉」の一部を引く。
〈真木は、文化十(一八一三)年に久留米水天宮祠官、真木旋臣の子として生まれ、若き日に宮原南陸の子桑州に師事した。南陸は絅斎門人の合原窓南に学んだ人である。
 郵政大学校副校長を務めた小川常人は、真木の学問には絅斎、強斎の思想が流れていたと推測されると書いている。真木が、絵本楠公記を読み、強く楠公に心服していったのも、若き日に崎門の学にふれていたからであろう。
 むろん、真木の学問の中心をなしたものは水戸学である。弘化元(一八四四)年に水戸遊学を許され、真木は四度にわたり会沢正志斎を訪ねている。真木は弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めようとはしなかった。
 その十三年前の天保五(一八三四)年、正志斎は国民が祀るべき祭日を挙げ、その意義を解説した『草偃和言』を著していた。そこで楠公湊川戦死の日である「五月二十五日」を挙げ、次のように書いていたのである。
 「楠氏の子孫、宗族、正行、正家、正朝、正高等を始として、相踵て義に死し、命を塵芥よりも軽くして、忠烈の気、天地に塞る……されば貴賤となく、此日に遇うては、殊に同志の友をも求めて、相共に義を励し、其身の時所位に隨て、国家に忠を尽さん事を、談論思慮して、風教の万一を助け奉るべき也」
 真木が楠公祭を開始した直接的な理由は、この正志斎の言葉にあったのかもしれない。 続きを読む 「楠公精神を体現した真木和泉」(『あゝ楠公さん』第10号)

明治政府の警戒感を高めた初岡敬二

 木戸孝允は、すでに明治二(一九六九)年九月時点で、古松簡二、河上彦斎、大橋照寿、初岡敬二の四人に対する警戒感を高めていた。
 初岡は秋田藩勤皇派の代表的人物であり、幕末から活動、藩校明徳館の本教授を務めた。戊辰戦争で苦戦する中で上京し、公務人として政府出兵のため強力な要請運動を行った。
 明治二年七月初め、初岡は招魂社大祭にキリストを踏みつけている武者像の大幟を秋田藩から献納しようとした。幟には「天涯烈士皆垂涙、地下強魂定嚼臍」と書かれていた。しかし、軍務局から献納を却下されている。
 九月になると、初岡は「奸可斬、夷可払」とうたいながら剣舞するという事件を起こした。いわゆる「剣舞事件」である。ここで言う「奸」とは、木戸孝允、大村益次郎、後藤象二郎を指したものと解釈されたのである。実際、同月大村は暗殺されている。
 宮地正人氏は、次のように書いている。
 〈このような対立は月が進むにつれてより深刻なものとなり、ますます維新政府の権力基盤を不安定化させてゆく。「集議院廃セラレザレドモ、公議人ハ皆帰休ヲ命ゼラレタル由、弁官ニテ議ヲ発スレバ集院之ヲ討テ非トシ、集議院建白スレバ弁官害アリトシテ不行、毎事ニ途ニナリテ不一揆、政事是ガ為ニ壅滞シ、両党相争ノ姿アリ、不可両立勢也卜云」と、一八七〇年一月段階では受けとめられるようになる。まさに「両党相争」の事態である。これが同年九月段階にいたると、権力基盤の不安定化は極限状態に達する。同月一〇日集議院が閉会、その後の見込が立たなくなるのである〉

中沼了三から十津川郷士への通信─洋癖批判

 宮地正人氏の「廃藩置県の政治過程」によると、明治二(一八六九)年六月十日、十津川郷士に以下のような通信があったという。
 「朝廷ニハ追々御変革ニて、議院は頗る正論、屹度国家ノ柱礎と相成申侯、洋癖は大ニ折れ侯……段々有志ノ者ニも沸騰ニ付、驕奢ノ体は大ニ相折れ」
 洋癖と驕奢に対する批判の高まりを示すものである。
 これを書いたのは、崎門学派の中沼了三らしいと見られている。中沼は、明治四年には明治政府から排除される。

森田節斎撰「小楠公髻塚碑」

 楠木正行(小楠公)は、父正成(大楠公)との桜井での決別の後、父の遺志をついで、南朝の復興につくしたが、四条畷の戦いで、一族郎党百四十三人とともに討ち死にした。
 小楠公らが出陣に先立ち如意輪寺に奉納した髻(もとどり)は、その後、御陵の西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつった。安政4(1857)年、この五輪塔を廃して碑を建て、上方に「正行公埋髻墳」、下方に「精忠兼至孝至節在天聞五百年前月今仍照髻墳 芳山司職免堂撰」と刻した。
 慶応元(1865)年、髻塚に対して、正成の18世の子孫にあたる津田正臣によって「小楠公髻塚碑」が建てられた。碑の選文をしたのが、森田節斎であった。
小楠公髻塚碑文
 正平3年正月車駕吉野に在り、賊将高師直大挙来り冠す。楠左衛門尉其の族党百四十三人と行宮に詣で、陛辞し畢り、後醍醐帝陵に拝訣し、如意輪寺に入り各髻を截り、姓名を壁に題す。然して後、進み戦うて克たず、皆之に死す。今茲に乙丑の秋、益(註節斎の名)備中より郷に帰り、将に談山に登り遂に芳山に遊ばんとす。会 津田正臣石を建て以て左衛門尉の髻塚を表せんと欲し、来りて文を益に請う。益曰く、余旦に二山に遊ばんとす。子姑く之を待てと。己にして談山に登り藤原大織冠の廟に謁す。規模の宏敞殿宇の壮麗人をして敬を起さしむ。芳山に登るに及んで首めて某所謂髻をうずめし処を問えば、蔓草寒烟の中に在って過る者或は知らざるなり。是に於て益低徊去る能わず潜然泣下して曰く、左衛門尉と大織冠とは皆王朝のじん臣なり。而して大織冠は大熟を一撃に斃し天日を将に墜ちんとするに回し、位人臣を極め子孫蔓行し百世に廟食す。左衛門尉は即ち賊を討ちて克たず、身を以て難に殉ず。南風競わず宗族殆ど尽く。今其遺跡を求めんと欲してにわかに得べからず。嗚呼何ぞ其幸不幸の異なるやと。巳にして益涙を拭いて為へらく。其幸不幸異なると雖も、其功未だ嘗て同じからずんばあらざるなり。夫れ大織冠回天の績は偉なり。然るに之を左衛門尉父子の大節と比するに、彪炳日月と並び懸り、綱常を無窮に存ずる者未だ其のいずれが愈されるを知らず。故に曰く、其幸不幸異なると雖も其功未だ嘗て同じからずんばあらざる也と。益既に帰る。正臣復来り促す乃ち前言を挙げて之に告ぐ。且つ曰く、方今夷猖蕨九重宵肝士力を国家に効すの秋なり。事成らば即ち大織冠と為りて百世に廟食し、成らずんば則ち左衛門尉となりて節に死し名を竹帛に垂る。豈に大丈夫平日の志願に非らずやと。正臣躍然起て曰く、是以て左衛門尉髻塚を表すべしと。遂に書し以て之に与う。正臣字は仲相監物と称す。世々紀藩に仕え、楠中将十八世の裔と言う。
 慶応紀元冬十月大和処士森田益撰 伊勢三井高敏書

高山彦九郎の精神と久留米藩難事件

平成30年4月15日、同志ととともに久留米城跡に聳え立つ「西海忠士之碑」にお参りした。
 
碑文は、真木和泉のみならず、明治4年の久留米藩難事件に連座した小河真文、古松簡二らを称えている。
 碑文の現代語訳は以下の通りである。
「明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など、数えれば数十名をくだらない。
 これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命をおとし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心においては変りなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉をうけている。このような賞罰に関する朝廷の明白な処置に対しては国中の者がこぞって服し、ますます尊王の風を慕うようになっている。まことに国運が盛大をきわめるのも当然のことである。
 こんにち朝廷では国民に忠義の道を勧められているが、この趣旨をよく体得すれば、国民として何か一つなりとも永遠に残る事業をなさねばならない。しかもわれわれにとっては、勤王に殉じた人びとは早くから`師として仰いだ友であり、またかっては志を同じくして事にあたった仲間である。いまここに彼等を表彰してこれからの若い人への励ましとすることは、たんに世を去った者と生存している者とが相酬い合うというたけでなく,国家に報いる一端ともなるものである。
 このような意味から、場所を篠山城趾にえらび、神社の傍に碑石を建て、有栖川熾仁親王から賜わった「西海忠士」の大書をこれに刻記した。思うに、この語句は先の孝明天皇の詔勅の文からとられたものであろう。世冊この碑を見るものは、おそらく誰でも身を国に捧げようという感奮の念にかられることであろう。昔、高山彦九郎は、九州方面で同志を募るためにしばしば筑後を訪れ、久留米の森嘉善ともっとも親密な仲となり、ついに彼の家で自殺する結果となった。これはまったく、二人が勤王の同志として許し合う間柄であったからである。このために二人を併せて追加表彰することにしたが、これによって筑後の勤王運動の源泉が遠い時期に在ったことを知るべきである。
    明治25年10月      内藤新吾識」
 
 碑文が、時代を遡って高山彦九郎のことに言及していること(*抜粋意訳には抜けている)が、極めて重要だと考えられる。
 明治2年に、久留米遍照院で有馬孝三郎、有馬大助、堀江七五郎、小河真文、古松簡二、加藤御楯らが、高山彦九郎祭を行った事実を考えるとき、彦九郎の志が久留米藩難事件関係者に継承されていた事実の重みが一層増してくる。

日本の歴史を棄てた明治政府

 平泉澄先生は「日本精神について(下)」(『日本』平成十八年正月号所収、二~三頁)において、次のように述べている。
 〈明治五年に教育制度が発動されてをります。驚くべきことに明治五年の学制には日本の歴史を教授するといふことが出てをらない。一国の教育がその国の歴史を無視してなされるといふことは実に驚くべきことであります。
 これは明治元年の大精神には断じてないことであります。明治元年の大精神が四、五年ですっかり崩れてをります。明治維新の精神はその時は日本の古典を用んとして、一方に支那の漢籍、一方に西洋の学問、それを両翼として進まうといふことを新定学制に示されてをります。
 実に偉い精神でありますが、これは間もなく崩れて、明治五年の学制においては日本の歴史は教育から棄てられてしまった。その後小学校においてその非を悟って、国史を加へましたのは明治十四年のことであります。十四年に初めて日本の初等教育に日本歴史が入って来たのであります。これは明治天皇の特別の御注意を戴いて出来たことださうであります。
 しかしそれ以上の学校においては、まだ日本歴史は加へてをりませぬ。中等以上の学校においてはバーレーの「萬国史」が用ひられてをりました。その後高等の学校に初めて日本歴史が入って来たのは明治十六年であります。これはドイツ語の先生のグルートといふ人が注意をしたので、初めて国史が入って来た。ただし大学にはまだ国史は出てをりませぬ。大学において国史、日本歴史が一科として立てましたのは明治二十一年になります。
 さうしてその翌二十二年に国史科が新設されてをります。この時に渡邊総長の意を受けて色々案を立て、これを実施する上において努力しましたのがドクトル・リースの力であります。その時までは国語を棄てようとしたほどでありますから、日本歴史を棄ててしまって、外国人から注意されなければ日本の歴史は閑却してしまってゐた〉

久留米勤皇志士史跡巡り③ 高山彦九郎から真木和泉へ

真木と彦九郎の遺児
 彦九郎は幕府に追い詰められ、寛政五(一七九三)年六月二十七日、森嘉膳宅で自刃した。その三年後の寛政八(一七九六)年十一月十八日には、唐崎常陸介が、彦九郎の後を追って竹原庚申堂で自刃した。
 さらに、享和二(一八〇二)年五月二日には、天草の西道俊が彦九郎の墓前で割腹している。道俊は、若い時代から彦九郎と結び、尊号宣下運動でも彦九郎と行動をともにしていた。しかし、寛政五年春、彦九郎が幕吏に追われて長崎へ逃れた際も道俊は行動をともにし、海路上京しようとした。しかし、果たさず虎口を脱して天草に逃れた。
 彦九郎自刃後、ともに勤皇を語るべき友もなく、医を業として十年ほど過ごしていた。しかし、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともし難く、ついに天草を出て久留米の森嘉膳宅に向かったのである。そして、自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘り、自刃した。辞世は
 欲追故人跡 孤剣去飄然
 吾志同誰語 青山一片烟 山腰雅春『五和町郷土史第一輯』(昭和四十二年)
 道俊の墓は、彦九郎と同じ遍照院にある。ひょうたん型のお墓で、墓標は玄洋社の頭山満によるものだ。
 彦九郎の長男儀助が久留米を訪れたのは、その翌年の享和三(一八〇三)年六月であった。後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には次のように描写されている。
 〈後年先生屠腹の後、一子儀助、久留米に来つて、遍照寺畔なる父の墓を展した時も、石梁は彼を自家に宿せしめ、種々慰撫する所があつた。将に帰らんとするや、詩と涙とを以て之に贈つた、義心感ずべきものがある。
    高山儀助自上野来展其考仲縄墓
    留余家一句臨帰潜然賦贈
 悲哉豪傑士。化作異郷塵。山海三千里。星霜十一春。憐君来拝墓。令我重沾巾。孝道期終始。慇懃愛此身。
 情懐綿々として、慇懃極まりなきものがある。十有一年前、先生の死に対してそゝいだ其の涙は、今や孝子儀助の展墓によつて、再たび巾を霑さしめた。嘗て彦九郎先生の為に、
  赤城仙子在人間。明月為衣玉作顔。怪得煙霞嚢底湧。躡来三十六名山。
 を謳つた其の人が、遺孤の為に此詩を賦せんとは、恐らく石梁其の人もまた宿縁の浅からざるを感じたであらう〉
 石梁は、文政三(一八二〇)年五月に「宮川森嘉膳小伝」を著し、彦九郎について記している。つまり、石梁は彦九郎の志を語り継いだ重要人物だったということである。
 その八年後の文政十(一八二八)年に石梁は亡くなっているが、若き真木が樺島との接点を持っていた可能性はある。あるいは、石梁の思いを継ぐ者から、真木が彦九郎のことを伝えられた可能性もある。そして、真木自身が彦九郎への関心を強めていく。木村重任の『故人物語』によると、真木は天保九(一九三八)年頃、彦九郎の話を聞くために安達近江宅を訪れている。
 そして、天保十三(一八四二)年正月、真木は「高山正之伝」を筆写・熟読した。彼は感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げている。その年の六月二十七日、木村重任等とともに、高山彦九郎没五十年に当たり祭典を行った。
 そして真木は、まさに彦九郎の志を継ぐべく、立ちあがるのである。三上卓先生は、「真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである」と書いている。