以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●法衣を脱し浅見絅斎門に入る
〈合原藤蔵名は餘修初め権八と称す、三潴郡住古村の人なり、本姓は草野氏山本郡(今三井郡)発心の城主草野右衛門督鎮永の後裔にして、父を道秋と云ひ医を業とす、母は牛原氏寛文三年三瀦郡往吉村に生る、先生幼にして穎悟大に読書を好む、年十一出家して僧と為り十七歳にして説法明弁なり、後京都及び江戸に遊び傍ら儒教を学び、壮年に及んで自ら其非を悟り、翻然として法衣を脱し髪を蓄へ浅見安正(浅見絅斎)の門に入り道を信ずること愈篤く、行を砺くこと盆々精く、特に性理易学に長じ其名京師に震ふ、宝永六年久留米藩主有馬則維公召して儒官とし一藩士太夫の子弟を教授せしむ、生徒の従学する者頗る多し、米藩宋学の盛なる蓋し先生を以て先唱とすべし。
正徳三年御条目御事目の制定せらるゝや先生其議に参与し同法令発布の際には湯川丙次(号東軒)と共に之が説明の任に当れり、斯くて在官十余年、享保八年の秋病を以て上妻郡(今八女郡)馬場村(今の上妻村大字馬場)に隠遁して窓南と号す、時に年六十一、是に於て国老以下諸士相追随して往いて道を問ふ者日夜絶えず。
先生上妻の僻村に在りて士民と教育すること十一年門人数百人に及ぶ、享保十八年八月藩侯有馬頼徸(よりゆき)復公再び先生を登用して侍講とし稟米二十九地を給し秩竹間格に班す、又其老を優待し轎(きょう)に乗りて出勤し且庁に在りて帽を冠り寒を禦ぐことを許さる、時に年七十二、元文二月八月二十日病んで歿す享年七十又五、住吉村東南原山先塋の次に葬る、碑面題して「合原窓南之墓」と曰ふ遺命に従ふなり。〉(一~二頁)
*なお、同書において、「合原」は「あいはら」ではなく「ごうばる」のルビが振られている。
☞[続く]
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藤井右門公園(富山県射水市)
平成29年6月末に富山県射水市にある藤井右門公園を訪れた。
右門は、朝権回復を目指して桃園天皇側近に講義をした竹内式部が京都から追放された宝暦事件(一七五八年)に連座し、さらに明和事件(一七六七年)で、山県大弐とともに処刑された。まさに、維新の先覚者である。 明治二十四(一八九一)年十二月十七日、右門に正四位が追贈された。ジャーナリストの福地桜痴は、その翌年、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
藤井満氏の記録に基づき、右門処刑から、同公園ができるまでの経緯をここに記録しておく。
明治四十二(一九〇九)年、東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓に際し、小杉青年団において記念事業として碑が建立が決まり、旧小杉小学校校庭に「贈正四位藤井右門先生里閭碑」が建立された。
その八年後の大正六年(一九一七)には、藤井右門百五十年祭が執行されている。その後、毎年命日の八月二十一日に右門廟前で右門祭が行われている。
その後、富山県議会議長であり右門遺烈顕彰会会長の片口安太郎が中心となり史料を集めて調査研究をした結果、昭和十一(一九三六)年に、東京世田谷の妙高寺に右門の墓があることが判明した。そして、百七十年祭に当たり、遺骨を分骨して墓碑を藤井家の菩提寺の日澄寺横(社会福祉会館の裏)右門の生誕地にも近い一角に建立することが決まった。その間、片口は東京、京都の関係者に依頼、説得、町民への協力要請などに奔走し、ついに念願の墓碑(廟)建立に漕ぎつけたのである。
筆者の手許には、墓碑建立のための工事が進められていた昭和十一年八月二十六日に富山放送局において、片口が放送した原稿がある。 続きを読む 藤井右門公園(富山県射水市)
射水市・日澄寺に安置される藤井右門像(宮原白水作)
平泉澄は、「闇斎先生と日本精神」において崎門の学統を称揚し、次のように山県大弐と並んで藤井右門の名前を挙げている。
「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり…」
一方、明治25年にジャーナリストの福地桜痴は、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
右門が崎門の流れをくみ、維新運動の先覚者の一人であったことは間違いない。ところが、右門についてはその肖像画も像も、一般的には知られていない。
平成29年6月、富山県射水市にある藤井右門公園を訪れ、右門の木造が、同公園に隣接する日澄寺に安置されていることがわかった。日澄寺のご住職にお願いし、木造を拝見することができた。
射水市の彫刻家・宮原白水が昭和12年に制作したもので、高さ38.1センチ、幅43.6センチ、奥行き24.9センチの木造の像である。
実は、2015年9月から11月にかけて、射水市の「太閤山ランドふるさとギャラリー」で開催された企画展「射水市ゆかりの作家たち」で、宮原の藤井右門像は展示されたので、地元では知られていたことになる。
藤井右門の思想形成─佐藤種治『勤王家藤井右門』の見解
平成29年6月、富山県射水市を訪問し、維新運動の先覚・藤井右門関係資料を入手した。彼の思想形成に関して、新たに発見した事実を記録しておく。
右門の父・藤井又左衛門宗茂は、もともと赤穂浅野家に仕えていたが、元禄の赤穂事件を契機に富山に移り、津幡江村(現射水市津幡江)の若林源吾宅助のもとに寄寓することになった。この宅助との出会いが、宗茂の日蓮信仰をさらに強めるきっかけとなったのである。
宗茂が日蓮宗の信仰家であることを知った宅助は、宗茂を射水市小杉・日澄寺の日珠上人のもとへ案内した。当時、日珠上人は気概に溢れる青年僧侶であり、日蓮聖人遺文録を講義して人々に感化を与えていた。福島瑞岳は「日珠上人と藤井右門先生」において、次のように書いている。
「又左衛門は日珠上人に接するや其熱心と國體観念に造詣の深かりしに敬信し、講義のある毎に欠かした事はなかった。…其後又左衛門は、日珠上人と別懇の間柄となり、遺文録を自ら求め宅助方にて拝読し、研究したのである」
こうした宗茂の日蓮信仰が右門にも影響を与えることになったのである。『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘する。
「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
伊藤東涯(1670~1736年)は、伊藤仁斎の長男であり、孔子、孟子の原点に帰ることを主張した古学派の思想を継承していた。つまり、右門の思想には、崎門学とともに古学派と日蓮思想が影響を与えていた可能性がある。さらに、佐藤は右門に対する山鹿素行の影響を次のように指摘している。
「日本主義の儒学者たる山鹿素行は浅野長矩・長広等の師である。従つて藤井又左衛門の如き、此の学問は徹底とまでは進まずとも香はかいでいゐるわけであり、彼の子右門にも家庭に於て間接の影響は無いとは断言できぬ」「素行精神と日蓮精神と合一し融和し調和し消化せられた家庭の感化が影響したのであらう」
権藤家と朝権回復運動─権藤宕山と田中宜卿(『久留米人物誌』より)
権藤家のうち、朝権回復運動に関わる人物に関して、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
権藤宕山(とうざん)
寛文四年(一六六四)、権藤種良の長男として出生。名は栄政(よしまさ)、医名は寿堅、宕山と号する。祖父種茂の親友であった柳川の安東省庵(京都堀川講習堂の開祖松永尺五の門下で、柳川藩の碩学)に師事した。省庵は明の鄭一元が長崎に亡命して来た時、宕山を長崎にやって、薬学を鄭一元に学ばせた。その後、江戸に行き、権藤種賢(祖父の兄八右衛門種公の第二子)について診察術を学んだ。業成って帰郷したが、その医名は四方に聞え、諸侯から招かれたがすべて辞退した。
元禄年中(一六八八─一七〇三)京より逃げきて高良山五十世座主寂源をたずねて、高良山に隠棲し、帰雲翁と称した大中臣友安に就いて典制の学を学んだ。秘書「南淵書」を授けられた。この南淵書こそ、昭和初期の社会運動に大きな思想的影響をあたえた、宕山の裔「権藤成卿」の思想の原拠である。
宕山は医業を子の寿侃(じゅがん)にゆずり、帰雲翁に啓発された制度律令を専心に研究し始め、愛宕山の南に居を新築し、「宕山隠士」と号した。来り学ぶ者が多かった。宕山は実学を重んじ、高良山座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を植えさせ、また二子の種英を三潴郡一丁原に移住させ、農聖北村正典の遺法を継ぎ、原野の開墾をさせた。宕山の学はかく実用を主として「我が道は飲食・男女・衣服・住居にあり」と言い、安民八綱・五刑の論を立て、礼刑の別を正した。享保十五年(一七三〇)四月六日没。享年六七。墓は御井町隈山墓地。宕山没すると、愛宕山の宕山の塾は、その高弟田中宜卿(ぎけい)が塾師として、宕山の学統を継いだ。
田中宜卿
田中勘兵衛道経(玄樹と称し、医師、宝永三年三月二十一日没、享年七八)の長男、浩蔵と称し、名は宜卿。医名は玄伯、初め医業を大坂に開いたが、のち府中に来って権藤宕山に儒医を学び、高弟第一となる。宕山没後は遺塾の塾師となり、宕山の学続を伝えた。
宜卿はかって尊王首唱者の竹内式部と交った。宝暦八年、幕府が公卿十七人の官爵を削り、式部等二十余人を都の外に追放した事件は、遠く府中に在る宜卿の身にもその嫌疑が及んだ。宜卿は師宕山の没後、二十有余年間の熟師としての身を、それ以来、客にも接せず、十七年間謹慎した。しかし、この間、宕山の嫡孫寿達に、宕山よりわが学び得たところを伝えた。安永四年(一七七五)二月二十六日没。墓は御井町隈山の権藤家墓域。
宕山が高良山の隠士帰雲翁から授与された秘書「南淵書」は、宕山没後、宜卿が秘蔵していたが、宜卿の没後。転々とした(「府中「権藤氏」について」8頁参照)末、大正の初年になって、宕山五世の孫の権藤成卿の手に帰し、成卿の思想の淵源となった。
篠原正一『久留米人物誌』掲載の権藤家略系図
拙著『GHQが恐れた崎門学』第二章『柳子新論』(山県大弐)において、昭和維新運動のイデオローグ権藤成卿の家系に言及した。例えば、権藤の曾祖父・権藤壽達(凉月子)は高山彦九郎とも交流があった。さらに、壽達の祖父宕山は、大中臣氏の制度律令に関する家説を受けて、「漢唐三韓」歴代の礼制、刑律に関する書を集めて研究し、独自の学問を確立した人物であり、竹内式部と交流のあった田中宣卿の師でもあった。
竹内式部以来の権藤家と崎門学の関わりを究明するために、同家のさらなる分析が必要とされる。今回、筆者が新たに入手した篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)には、権藤家の人物誌とともに同家略系図が掲載されており、今後の研究の参考となる。
『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)
『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉
明治維新の本義をなぜ語らないのか─『会報 保守』(平成29年6月)掲載の拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」
保守の会の会報『保守』第5号(平成29年6月)に拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」を掲載していただいた。冒頭で、明治維新の本義をなぜ語らないのかという問題提起をした。
〈明治維新百年を控えた昭和四十一年三月、佐藤栄作内閣の橋本登美三郎官房長官は、次のように語った。
「維新百年に回帰しようなどと大それた考えを持っているのではありません。戦後二十年の民主主義の側に私どもも立っております。…ことさら明治維新を回想するというわけではございません」
これに対して、憲法憲政史研究所長の市川正義氏は同月、佐藤首相に質問主意書を提出、「明治百年の重要性は明治維新にある」と糺した。一方、大日本生産党も「明治維新百年祭問題」において、「政府の考え方は〈明治維新百年祭〉ではなく単なる〈明治百年祭〉であって、単なる時間の流れの感慨にしかすぎない」と批判した。
昭和三十六年十二月に大東塾の影山正治塾長が「明治維新百年祭のために」を発表して以来、愛国陣営は明治維新の意義について活発な議論を展開していたのである。例えば、安倍源基氏は「明治維新の意義と精神を顕揚して、衰退せる民族的自覚、愛国心の喚起高揚を図る有力なる契機としなければならない」と説いていた。また、昭和維新運動に挺身した福島佐太郎氏は「明治維新を貫く精神は建武の中興、大化の改新と、さらに肇国の古に帰るという王政復古の大精神であった」「われわれは懐古としての明治維新でなく、維新が如何なる精神で行なわれたかを三思し、現代日本の恥ずべき状態に反省を加え、もって未来への方向を誤らしめてはならぬ」と主張していた。それから五十年。明治維新百五十年を来年に控えた我々は、改めてこれらの意見に耳を傾けるべきではないのか。
ところが、またしても政府は「明治維新」ではなく「明治」という捉え方をし、明治維新の意義を顧みようとしない。政府は昨年十一月に「明治百五十年」関連施策各府省庁連絡会議を設置し、わずか二カ月間の議論を経て施策の方向性を決めてしまった。政府は、明治という時代を、欧米に倣った近代化成功の時代としてのみ理解し、「明治期の若者や女性、外国人などの活躍を改めて評価する」方針を示した。筆者は、ここにわが国の保守派の歪みが集約されていると感じる。
明治維新の最大の意義は、幕府政治に終止符を打ち、わが国本来の姿に回帰したことにある。わが国本来の姿とは、天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治である。天照大神が瓊瓊杵尊に下した天壌無窮の神勅にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地也。宜しく爾皇孫、就きて治せ」こそ、民情を詳らかに認識して、仁愛をもって治めるわが国統治の真髄が示されている。〉
日本人の歴史に流れる「一つの精神」─平泉澄『明治の源流』
『明治維新という過ち』、『官賊と幕臣たち』などを著した原田伊織氏によって、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歪んだ歴史観が流布されている。原田氏の一連の著作は、長州に対する会津の恨みに発しているように見受けられるが、その言説が明治維新の意義を覆い隠していることは決して看過できない。
原田氏は江戸幕府体制の弊害を見つめることなく、江戸時代は平穏な社会であったと強調し、明治維新は薩長による大義なき権力奪取だったと主張する。彼の視野にあるのは、江戸と明治の対比のみであり、承久の変、建武の中興、明治維新の連続性は全く視野に置かれていない。これでは歴史に値しない。
明治維新の最大の意義は、700年に及ぶ幕府政治に終止符を打ち、天皇親政に回帰したことにある。その意義は、維新の源流に遡ってこそ明瞭になる。
筆者は、拙著『GHQが恐れた崎門学』においては、原田氏を厳しく批判したが、明治維新の意義を確認し、さらに日本人にとっての歴史とは何か考える際、極めて重要な示唆を与えてくれるのが、以下の平泉澄先生の言葉である。昭和45年4月に書かれたものである。
「歴史は、伝承であり、保持であり、発展である。もしそれ無くして、断絶があり、変易に過ぎないならば、それは厳密なる意味に於いて、最早歴史では無い。這般の道理は、精神の分裂錯乱が、人格の破滅である事を考へる時、おのづから明瞭であらう。
斯くの如く伝承を本質とする歴史の典型的なるものは、実に我が国の歴史であり、その最も光彩陸離たるものは、明治維新である。その原動力が遠く五百年を遡って建武の昔に存し、年暦を経る事久しくして却って感激の白熱化した事は、真に偉観と云って良い。
然るに建武の中興は、更に遡って承久の昔に発源し、承久と建武と明治と、一連の運動であり、一つの精神、脱然として六七百年を貫いて流れてゐる事は、一層大いなる感激で無ければならぬ。
之を理解する上に一つの障碍となるは、鎌倉、特に北条の政治を賞讃し、従って承久・建武の討幕運動を、いはれなく、勝つべき道理なしとする史論の存する事である。蓋し史伝真相を伝へず、泰時・時頼等、誤って賢人の名、善政の誉をほしいままにした為であり、一面には先哲仮託して人々の反省を求めた為に外ならぬ。
よって今本書は、短篇ながら是等の点を究めて、明治維新の源流を明かにしようとした。その時代を降るにしたがって簡略に附したのは、他に之を記述するもの、少なくない為である。前年刊行した父祖の足跡五冊と本書とは、実は相互照応するもの、願はくは聊か以て国史の理解に貢献せむ事を」(『明治の源流』はしがき」)
日本人が日本人の歴史を取り戻す上で最も重要なことは、日本人の歴史に流れる「一つの精神」であり、それを歴史に確認する際の「大いなる感激」であろう。
明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?
徳川幕府の専横に対する皇室の嘆き
徳川幕府成立からおよそ百五十年後の宝暦六(一七五六)年、崎門学派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義をし、熱く訴えかけました。
今の世の中は、将軍がいるのを知っているが、天子様がいるのを知らないありさまである。これは、つまり関白以下の諸臣が学に暗く、不徳であったためにほかならない。もし、諸臣が学問に励み、徳を磨いたならば、天下の人心は朝廷に集まって、将軍も政権をお返しするであろう、と。
式部の言葉を聞いた公卿たちは、ハッと目が覚める思いで、自らの使命を改めて考えたことでしょう。公卿たちが皆、公城のような姿勢であったなら、すでにこのとき王政復古に向けた静かな運動が開始されていたかもしれません。しかし、王政復古が実現する慶応三(一八六八)年まで、徳川幕府はその後百十年も続いていくのです。
いまだ式部の時代には、彼の講義が幕府の忌憚にふれる危険なものだと考え、自己規制してしまう公卿が少なくなかったのです。それほど徳川幕府の朝廷対策は徹底されていました。幕府は、彼らに反感を抱いた大名が朝廷を中心に事を挙げることを強く警戒していたのです。
徳川幕府は、慶長十八(一六一三)年に公家衆法度を出し、行儀、法度に背く公家を流罪に処すことなどを定めました。同年に出された「勅許紫衣の法度」も、朝廷の権限を制限するものでした。「紫衣」とは高僧だけが着用できる紫色の袈裟で、古くからその着衣の許可は朝廷によって下されていました。ところが幕府は、この法度によって、大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・栗生光明寺の七カ寺に対して、「紫衣」の勅許を得る場合には、事前に幕府へ願い出て幕府の許可を得るようにと定めたのです。
幕府は元和元(一六一五)年七月十七日に、禁中並公家諸法度を発布しました。この法度は十七条にわたり、その第一条は「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」と定めました。第十一条には、「関白・伝奏並びに奉行職事など申し渡す儀、堂上地下の輩相背くにおいては、流罪となすべき事」と謳われています。関白は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)が就任する朝廷官職のトップですが、その任免は天皇の自由にはならず、すべて幕府との協議と承認を必要とするようになりました。
幕府は、関白とともに、幕府と朝廷の交渉・連絡役の「武家伝奏」、様々な朝儀を執行した蔵人役の公家「奉行職事」らによる朝廷統制体制を固めたのです。さらに、直接朝廷を統制、監視するために京都所司代を置きました。
徳川幕府の専横に対する皇室の嘆きは、例えば、後水尾天皇(在位:一六一一~一六二九年)がお書きになった『御訓誡書』の冒頭にはっきり示されています。
「むかしこそ何事も勅定をばそむかれぬ事のやうに候へ、今は仰出し候事さらにそのかひなく候、武家は権威ほしきままなる時節の事と候へば、仰にしたがひ候はぬも、ことはりと申べく候歟」
宝暦事件に至る朝幕関係において特筆すべきは、霊元天皇(在位:一六六三~一六八七年)による大嘗祭再興です。学習院大学教授の高埜利彦氏は、霊元天皇が目指した朝廷復古の動きは伏流し、「宝暦事件」に際して顕在化したと書いています。
大嘗祭は、文正元(一四六六)年に室町時代の後土御門天皇即位に伴って挙行されて以来、霊元天皇が貞享四(一六八七)年八月十三日に大嘗会を簡略な形で復興するまでの二百四十年間、中断されていたのです。
皇室再興と独自の政策展開を目指した霊元天皇は、幕府と距離をとり、左大臣近衛基煕ら「親幕派」の公卿による統制を退けようとしました。
ここで注目すべきは、霊元天皇と崎門学派との関係です。藤田覚氏によると、闇斎から垂加神道の奥義を伝授された正親町公通は、霊元天皇に山崎闇斎の『中臣祓風水草』を献上していました。また、近藤啓吾先生が指摘している通り、徳川光圀(義公)は延宝八年、平安時代から江戸初期までの各種古典の序・跋・日記などを収録した『扶桑拾葉集』を、後西上皇と霊元天皇に献上しましたが、そのとき水戸から上京した使者は、闇斎の門人だった鵜飼錬斎でした。さらに、中院道茂、土御門泰福らの闇斎門下もこれに協力していました。
近藤先生は、さらに一条兼輝が垂加神道の相伝を得ていた事実や後西天皇の第八皇子、八条宮尚仁親王に師としてお仕えしたのが闇斎高弟の桑名松雲や栗山潜鋒らだった事実を挙げています。潜鋒については、第三章で改めてふれることにします。 続きを読む 明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?