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高山彦九郎と久留米③─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●垂加神道の伝書を伝えた唐崎常陸介
 久留米への崎門学の浸透において、高山彦九郎の盟友・唐崎常陸介は極めて重要な役割を果たした。
 唐崎は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、櫛原村(現久留米市南薫町)の「即似庵」を訪れた。即似庵は、国老・有馬主膳の茶室である。主膳は崎門派の不破守直の門人である。不破は、久留米に崎門学を広げた合原窓南門下の岸正知のほか、崎門学正統派の西依成斎にも師事していた。
 即似庵は、表千家中興の祖と言われる如心斎天然宗左の高弟・川上不白の設計により、寛政元年に起工し、寛政二年秋に落成した。三上卓先生の『高山彦九郎』には、次のように描かれている。
 「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし、隠然として筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んでは其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅(べっ しょ)を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう。
 唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し、筑後の学風に更に一段の精采を付与した。…唐崎より有馬主膳に伝へた垂加神道の伝書其他の関係文献は今尚後裔有馬秀雄氏の家に秘蔵されて居る…」
 有馬秀雄は、明治二年に久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、帝国大学農科大学実科卒後、久留米六十一銀行の頭取などを務めた。その後、衆議院議員を四期務めた。
 唐崎から有馬主膳に伝えられた文献のうち、特に注目されるのが、伝書の末尾に「永ク斯道ニ矢ツテ忽焉タルコト勿レ」とある文言と、楠公父子決別の図に賛した五言律の詩である。
 百年物を弄するに堪へたり。惟れ大夫の家珍。孝を達勤王の志。忠に至る報国の臣。生前一死を軽んじ。身後三仁を許す。画出す赤心の色。図を披いて感慨新なり
 さらに、唐崎は垂加流兵学の伝書も伝授したらしい。
☞[続く]

合原窓南の門人②

 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●宮原南陸
 享保元年(一七一六)八月十五日、家老岸氏の家臣宮原金太夫の子として、十間屋敷(現・日吉町)に出生。名は存、半左衛門と称する。幼より至孝で学問に勉め、父職を襲って岸氏に仕えた。性は慎み深く、自分に厳格で、世事に練達し、主家三代に歴事した。学徳次第に世に高かまり、教を乞う者が多く、講義は本末を明らかにして懇切周到であったので、門人ますます増え、晩年には「門弟家にみつ」といわれている。当時の藩士で学問で名を成した者の多くは、南陸の門から出た。天明五年二月、藩校「講談所」が設けられると、藩主はその学徳をきき、特に抜擢して講官に任じた。陪臣の身で藩校教官となったのは破格の事であった。南陸の学統は山崎闇斎学派、師は合原窓南で実践をつとめ、空論を忌んだ。寛政四年(一七九二)六月十一日没。享年七七。墓は寺町真教寺。
●宮原国綸
 宮原南陸の嫡子で、名は国綸、通称は文之進、字は世経、桑州と号した。父南陸の学統闇斎学を奉じた。漢学ばかりでなく、柔剣術に長じ、また越後流兵法にも通じた。忠臣・孝子・節婦等の名を聞く毎に、その家を訪れ、善事善行を書き取り「筑後孝子伝」前後編、「筑後良民伝」を著し、藩主より褒賞を受けた。真木和泉守は、姉駒子が和泉守十二歳の時、国綸の長男宮原半左衛門に嫁した。この関係から和泉守は、国綸の教を受けた。文政十一年(一八二八)四月十七日没。享年六七。
『真木和泉守』(宇高浩著)より、
 「文政八年二月廿七日、和泉守の長姉駒子は、十九歳の春を迎へ、国老岸氏の臣、宮原半左衛門(得、字は多助)に嫁いだ。半左衛門は久留米藩校修道館教授宮原南陸の孫に当り、曽て和泉守が師と仰いだ宮原桑州の嫡男で、桑州は駒子が嫁いだ頃は未だ生存し、その後三年を経て、文政十一年四月十七日病没した。和泉守が桑州の門に学んだ頃までは、まだ弱冠で、充分に其の教えを咀嚼し得なかったであろうが、長ずるに及んで、南陸・桑州二人が読破した万巻の蔵書を、姉聟半左衛門に借覧して、勉学の渇を充分に医することが出来た。南陸父子の学は、山崎闇斎の門下、浅見絅斎に出で、筑後の合原窓南に伝わり、ついに南陸父子に及んだものである。崎門の学が、明治維新の大業に預って力があったことは、ここに吾
人の呶説を要しないところであるが、和泉守の思想の源流が、拠って来るべきところを知るべきである」 続きを読む 合原窓南の門人②

合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。
●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。
●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人①

高山彦九郎と久留米②─三上卓先生『高山彦九郎』より

 『高山彦九郎』(三上卓先生)は次のように、久留米における崎門学の浸透を描いている。
●極点に達していた久留米の唐崎熱
 〈しかも彼(合原窓南)が京都に師事した人は絅斎先生浅見安正であつた。蓋し佩刀のハヾキに赤心報国の四文字を刻し、平生特に大楠公を崇拝し、生涯遂に幕府の禄を食まなかつた闇斎の大義名分の思想は、窓南の教育によつて或は久留米城下に於て、或は上妻の僻村に於て、上は士大夫より下は農村の青年に至るまで、漸々として浸潤したのである。窓南先生こそ久留米藩学祖と称すべきであらう。
 すなはち藩の名門岸正知、稲次正思、教を窓南に乞ひて夙に名あり、藩士不破守直、杉山正義、宮原南陸も亦錚々の聞えあり、広津藍渓は上妻郡福島村の青年を以て馬場村退隠中の窓南門下より傑出した。そして不破守直は更に若林強斎門下の西依成斎及び松岡仲良門下の谷川士清に就いて教を受け、不破の門下に有馬主膳、尾関権平、不破州郎等あり、正義の子に杉山正仲あり、南陸は子に宮原国綸あり、弟子に樺島石梁あり、……しかも窓南の影響はこれのみには止まらなかつた。彼の退隠地馬場村の隣村津江の貧農に生れた青年高山金二郎は、夙に発奮して学に勉め、宝暦年間遂に崎門三宅尚斎の高足たる大阪の硯儒留守希斎の門に遊んで、……留学百カ日にして崎門学の大事を畢了して故郷に帰り、門下に幾多の青年を養成したのであるが、天明三年藩儒に登用され、同年不幸病歿した。享年五十八。けだし窓南歿後の窓南とも称すべきである。後世その号を以て之を敬称して高山畏斎先生と云ふは此人である。
 窓南先生の遺業は斯の如く広大であつた。かくて久留米一藩の支配的学風は全く崎門学派の影響下に在り、寛政、享和の頃に至つては、崎門の学徒は士民の隔てなく尨然たる交遊圏を構成し、名を文学に仮つて陰に大義名分の講明に務めて居たのである。唐崎常陸介が来遊したのも此時、高山先生が来訪したのも此時。そして寛政二年秋の唐崎の第一回久留米来遊は、この学的傾向を決定的に灼熱化し以て高山先生の来遊を準備したのであつた〉
 三上先生は、以上のように指摘した上で、尾関権平が湯浅新兵衛に宛てた書簡に基づいて、唐崎と久留米藩士との交遊は、伊勢の谷川士清を通じて、既に天明年間から十数年間の文通によって用意されていたと述べている。そして、寛政二年初秋頃、尾関権平や不破州郎らが唐崎に宛てたと思われる書簡を引いて、「久留米に於ける唐崎熱はその極点に達して居たことが窺われる」と述べている。
[続く]

高山彦九郎と久留米①─三上卓先生『高山彦九郎』より

●なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか
 なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか。それは、久留米における崎門学の興隆抜きには語ることができない。特に、この地の崎門学浸透を主導した合原窓南・その門人と、彦九郎の盟友・唐崎常陸介との交流は大きな意味を持っていた。
 自ら昭和維新運動に挺身した三上卓先生が、『高山彦九郎』(平凡社、昭和15年)を著したのは、昭和維新運動を高山彦九郎から真木和泉に至る朝権回復運動の継承と位置付ける意識が強まったからだと考えられる。『高山彦九郎』は、権藤成卿門下で久留米史研究者の井上農夫が収集した史料に基づいて書かれており、九州における崎門学派の思想と運動の展開について独自の意義づけをしている。
 同書に基づきながら、久留米が彦九郎終焉の地となった意味について考察していきたい。同書は合原窓南の役割に注目し、合原に師事した広津藍渓が書いた碑文を引いている。
 「先生生れて顛悟、自ら読書を好み、年十一出家僧と為り法を四方に求む。既に壮にして自ら其非を悟り、蓄髪儒と為り、講学愈々篤く、礪行益々精しく、名一時に震ふ。吾藩宋学の盛んなる、蓋し先生先唱を為せば也。寛永六年、梅巌公(第六代藩主・有馬則維、引用者)召して俸を賜ひ、以て学を士大夫に授けしむ。生徒日に夥し、居ること十余年疾を以て隠を上妻郡馬場村に請ふ。是に於て国老以下諸士、相追随して道を問ふ者日夜絶えず、僕従衢を塡む。大悲公(第七代藩主・有馬則維)立を延いて侍講と為し、更に稟米二十口を給し、秩竹間格に班す。又其老ひたるを優し、籃輿(らんよ)に乗つて以て朝し、且つ朝に在つて帽を著し寒を禦ぐを許す、蓋し異数と云ふ。元文二年八月二十日疾をもて卒す、享年七十五。〉
[続く]

沢之高と久留米藩難事件(明四事件)─滝沢誠『武田範之とその時代』

 日韓合邦運動に挺身した武田範之の父・沢之高は久留米藩難事件(明四事件)に関与した人物であった。以下、滝沢誠『武田範之とその時代』(三嶺書房、昭和61年)に基づいて、之高と久留米勤皇派との関わりについて紹介したい。
 〈範之の生家である沢(はじめ佐波)家は、伊勢桑名の出で、徳川初期の有馬氏久留米移封(元和六年、一六二〇年)に伴って、有馬家家臣団の一員として久留米に住みついた家柄である。久留米藩における沢家の家格は、代々御馬廻組として藩主に直接伺侯出来る〝お目見え〟の資格をもった家禄四百三十石取りの中士の上の家である。
(中略)
 幕末・明治初年の久留米藩における政治的党派には、〝尖り〟と呼ばれた尊王攘夷を標榜する勤皇派と、〝裏尖り〟と呼ばれた佐幕開国派、そして、実務官僚による中間派たる社稷党の三つがあった。之高はこのうちの勤皇派に属していたが、それは多分に之高個人の政治的信条によるというよりは、むしろ幕藩体制下で培われてきた血縁のつながりによる要因によるものではないかと考えられる。之高をめぐる久留米藩士内部の相関関係については詳にし得ないが、……之高の父市之助の妻は、同藩士で上士の小河吉右衛門の娘であり、之高の妻は、同藩士島田荘太郎の妹である。小河吉右衛門の家は、久留米藩勤皇派領袖で明四事件の責任者として斬罪の判決をうけた、応変隊参謀小河真文(小河家は代々当主が吉右衛門を名乗り、真文も一時期吉右衛門を名乗った)の家系である。また、島田荘太郎は久留米勤皇派の中核として、佐幕派政権のボスであった参政不破美作の刺殺事件、大楽源太郎暗殺事件に指導的役割を演じた人物で、明四事件では禁獄十年の判決をうけている。小河・島田は明四事件関係者中でも重い断罪をうけている。すなわち、範之の祖母は小河真文の直系者、範之の母は島田荘太郎の妹になる。〉

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南④─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 続いて、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南述『古語・仮字講義』の内容を紹介する。
  古語・仮字講義
朱子文集曰。平居暇日。琢磨淬厲。緩急之際。尚不免於退縮。
 朱子士風の衰へたるを嘆いて言ふ、平生家に居て暇有る日志を高うし氣を盛にして専ら文武をはげみ、是を精うする事工人の玉を琢て磨ぎ刀を淬(きたう)てとぐが如し、然るに急難起りて死生決する際に至ては、前後顧慮し志恐れて退き縮る事を兔れず、平生文武をとぎみがきするものさへ尚如此。
況游談聚議。習爲軟熟卒然有警。何以得其仗節死義乎。
 況や平生あそび聚りて無盆の咄をし、国家の用にもあらぬ世説の沙汰をいたし、彼処の風景此処の草花を亙に争ひ議かり、酒茶の会碁画の翫等の柔弱なる事になれ染み、これを風雅の事として日を送るもの、卒に事の出来て一大事と云ふ場に臨むで、何を以て身を節に仗り命を義に隕(おと)す事を得むや。
大抵不顧義理。只計較利害。皆奴婢之態。殊可鄙厭。
 凡そ士たる者は義を精ふし事理を明にして、身も心も義理のうちへ入れ置くべし、義理を後にして不顧明暮利害を計較して身の勝手便を求るものは、皆下部奴婢の態にして君子の殊に鄙み厭ふべき事也。
☞[続く]

藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

 明和事件で山県大弐とともに刑死した藤井右門の思想については、『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘している。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 彼の思想について考察する唯一のてかがりが、彼の著作とされる『皇統嗟談』である。佐藤種治は以下のように書いている。
 〈右門の学説については彼の著述といふ「皇統嗟談」に於て伺うことができる。此所は九州四国其外有志の輩へ頒つたものであるが、これに描いてあることは山本新兵衛の所蔵のもの等によると、昔年北条貞時が奸計にて最も惶(かしこ)き皇統を二流に做(な)し奉り、天子の大威徳を分ちまゐらせんと揣(はか)りしにより大覚寺殿と持明院殿と御子孫各々る迭代に皇位に即き給ふべしと奏し定めまゐらせにき。抑々大覚寺殿と申し奉るは亀山天皇の御子孫也。然るに亀山天皇脱履の後は、嵯峨なりける大覚寺を仙洞に做し給ひしかば、是よりその皇統を大覚寺殿と称し給ひしなり。持明院殿と申すは、後深草天皇の皇統にて、中古後堀河天皇の外祖なる持明院基家卿の宅をもて仙洞に做し給ひしより、幾代の御子孫の天皇この所を仙洞となし給ひしかば、後深草天皇の皇統を持明院殿と申す也。然れば梅松論に拠るときは、後嵯峨天皇の御譲位の勅語に、一の御子久仁親王(後深草院是也)御即位あるべし、脱履の後は後白河法皇の御遺領なる長講堂領百八十箇所の荘園を御領として、御子孫永く御即位の望を止めらるべきもの也。却っ次々は後深草の御母弟恒仁王(亀山院是也)ありて、御治世は後々まで御断絶あるべからず、仔細あるによりて也と定めさせ給ひにけり。これにより亀井天皇の春宮後宇多院御即位ありしを、後々に至りては彼の北条の拒みまうして、後宇多・後深草・両帝の子孫をかはりがはりに皇位に即けまつりしがは、伏見(後深作院第二皇子)・後伏見(伏見院第一皇子)・後二条(後宇多院第一皇子)・花園(伏見院第三皇子)・後醍醐(後宇多第二皇子)に至らせ給ふまで、多くは御子に皇位を伝へ給ふことを得ず、是を以つて北条高時が計ひ稟して、後伏見の第二の御子量仁(かづひと)親王(光厳院是也)を後醍醐天皇の東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、当今を推む退けまつり、東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、後嵯峨天皇の遺詔のごとく、唯当今の御子孫の継体の君たるべきを、武家(北条を云)の悖逆なる世を経る累年、陪臣にして皇位を自由に致すことやはある。高時一家を誅戮して、先皇(後鳥羽並亀山帝云)泉下の御欝憤を慰めさせ給へかしと、思はぬ者はなかりける。是内乱の根本なとなれり。 続きを読む 藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南③─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●「以大事小者楽天者也、以小事大者畏天者也」
 〈当時米柳両藩の境界を流れたる矢部川(当時御境川と称す)の水害防禦の為互に堤防を固め、彼一層高く築き出せば我亦更に高く築き出して、競争絶ゆる期無かりしかば、国老有馬河内先生の意見を問ひしに、先生『以大事小者楽天者也、以小事大者畏天者也』(大を以て小に事(つか)うる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事うる者は、天を畏るる者なり)と孟軻は論ぜられしを以て篤と賢考ありたしと対へられければ米藩即ち築堤を停止せしに柳藩亦其工事を中止し、双方の争論日ならずして消尽したりといふ。
 明治三十六年十一月、八女郡教育会が同郡の先賢祭を営み『先賢育英之一班』と題せる書冊を刊行するや、筑後の儒宗として劈頭第一に窓南先生の事蹟を掲げ、我郡中初めて咿晤(いご)の声を挙げたるは実に先生の力なりといへり。
 先生没歿後一百八十三年、即ち大正九年の秋十月、安武村の有志者相謀り、福岡県教育会三瀦郡教育支会及び筑後史談会の後援を得て先生の遠忌祭を行ひ、且其遺著古語仮字講義一篇を印刷して之を公にし、一は永く先生の学徳を景仰せしめ、一は以て世道人心を振作せしめんとせり、先生在天の霊亦自ら慰むる所あるべきなり。
 塾址 八女郡上妻村大字馬場字北屋敷八百八番地に在り、今は田二反余歩となれり、先生歿後所有者転々して、目下は同所安達貞雄氏の所有となり、昭和十一年七月八女郡上妻村教育会に於て標木を建設して不朽に伝へんとせり。」
[続く]

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南②─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●「廉潔実に感ずべきなり」
〈先生易簀(えきさく)の後門人等力を戮(あわ)せ金を醵して塚壙(ちょうこう)を営み、且永く追遠の誠を致さんが為祭祀田九畝同畠八畝を附して歳次の弔祭怠らざりしが、再来物換り星移りて百数十年、住吉村光白に於ける田一反一畝二十歩及び同村字石迥なる畑七畝十八歩の祭田は何時しか福山氏の管する所となり、明治十八年二月転じて田畑共に船津仙吉兄弟の私有に帰し、畑地は同四十五年二月更に宅地百二十二坪と同百五十坪とに分裂して地目変換せらるゝに至り、されど其土地今尚合原どん(合原殿の義)の屋敷と称せ
られ、墓守福山氏は毎年八月二十一日隣保の人を招きて先生の追弔供養を為せりといふ。
 先生初め立石氏を娶る早く歿す一女あり又夭す、継室長岡氏一男を生む名は藤太郎景修と称し父の任を以て月俸を受け中士に列せしが先ちて歿せり。先生著す所四書資講、太極図説資講、初学筮要(ぜいよう)、読書録類纂、易本義頭書、鬼神魂塊二弁、古語仮字講義、久留米城之記其他詩文遺稿等あり。
 先生資性恭謙よく人と感化す、其致仕して馬場村に退隠せしより以後俸米は之を庭内に積みて一も消費せざりきといふ、盖し公職なくして禄を受け之を私するに忍びず、蓄へて以て窮民を恤み或は善行者を賞し、若くは村邑公共事業の資に供せしならん、其廉潔実に感ずべきなり。〉
[続く]