平成29年12月25日、崎門学正統派を継いだ近藤啓吾先生が亡くなられた。それからおよそ半年、『日本』平成30年7月号に皇學館大学教授の松本丘先生が「近藤啓吾先生を偲ぶ」と題して、追悼文を書かれている。
〈先生の学問が、資料の博捜と、厳密な考証の上に成り立つてゐたことは勿論であるが、その一貫した姿勢は、
私は、今日「論文」と称するものに多い、科学的研究とか実証的研究を看板として、古人を自分と同列に引きさげ、第三者の目をもってこれを冷たく観察し評価する態度に同感することができない。私にとつて古人は私の生き方の目標であり手本であり、みづから反省する鑑である。(『続々山崎闇斎の研究』緒説)
といふ述懐に端的に示されてゐる。そしてそれは、闇斎・絅斎・強斎三先生の学問への景仰となつた。
いつしかこの先学が苦しみつつたどつた道程、すなはち現実より根源、倫理より信仰、儒学より神道へといふ道を、私もたどるやうになってゐた。(『講学五十年』)
かくの如く、三先生の辛苦の跡を、そのままみづからの問題として究明し続けられたご生涯であつた〉
そして、松本先生は次のように結んでいる。
〈終はりに、御病床の枕元に遺されてゐた先生の歌稿のうちの二首を掲げて拙文を終へることとする。
先学のゆきにしあとにつづかむと
つとに誓ひし我れにありしが
一系の千代を祈るの外に何
ねがひありしや我が生涯は 〉
「国体思想」カテゴリーアーカイブ
葦津珍彦の山県大弐論
葦津珍彦は「万世一系と革命説─日本思想史における放伐論の展開」(『天皇─日本のいのち』所収)において、明治維新の原動力としての山県大弐『柳子新論』について、次のように書いている。
〈山県大弐は、激烈な放伐論の主張者として名著『柳子新論』を書いた。かれは天の民とその志を同じうし、天の民を救ふがために、国君を放伐するのは義であると断じた。しかもかれは、それを抽象的な政治哲学上の理法としてではなく、当時の社会情勢の現実が、人民を苦しめてゐる実情を大胆に列記し指摘して、正義の士が決起して放伐のために行動すべきことを訴へたのである。大弐の放伐論は、明らかに孟子の流れをくむものではあるが、その論は、孟子よりもさらに精鋭に理をつくし、さらに烈々たる実践的情熱に燃え立ってゐる。かれは明和四年に捕へられて死罪となった。あたかも明治維新をさかのぼること満百年、討幕のために一命をささげた最初の人となった。この山県大弐の『柳子新論』は、日本の政治思想史の上で、異彩を放つものである。それは、民と志を同じうする者の放伐を義としたのみでなく、あらゆる点で、新しい世代への予告を暗示する多くの思想をしめしてゐる。……それは権力の実際的行使者(幕府の征夷大将軍や藩の国君)に対する放伐を痛論してゐるのであって、皇位に対する尊王の大義は、厳としてこれを固守してゐる。これは公然たる尊王討幕の先駆的宣言である。
江戸時代には封建武士的な意味での忠義の意識が強固であった。尊王の意識は大きくとも、武士は藩主に対して忠、藩主は将軍に対して忠、将軍も亦天朝に対して忠との系列において忠が考へられた。それ故に幕末の政局が動揺し、幕府の政策に対する批判の声が高まった時代になっても、先覚者たちもほとんどが、幕府の天朝に対する忠誠的協力を要望するいはゆる「公武一和」のイディオロギーの上に立って、幕政の改革を主張するにとどまって、幕府への放伐(討幕)を主張する思想は、なかなかに生じなかった。
(中略)
私は、幕末の志士の中で『柳子新論』の読者が、どの程度の範囲に及んだかは詳かにしえないけれども、この書が公武一和的なイディオロギー教条の中に低迷してゐた封建武士を、断固として討幕へと踏みきらせた力は、大きかったと思ふ。
(中略)
明治維新といふ大きな変革の史的意味は、複雑であって必ずしも一概には断じがたいものがあるけれども、これを王政復古、討幕であったとすれば、その討幕とは、まさに大弐が主張したところの権力行使者(幕府)に対する放伐以外のなにものでもないといふことができるであらう〉
葦津珍彦の真木和泉論
葦津珍彦は「禁門の変前後」(『新勢力』昭和39年7月号)で、以下のように書いている。
〈真木和泉の「出師三策」は、その後段に、真木の武力行使論に反対する長州人士にたいして、あくまでも説得しようとして、問答形式の論が書き列ねてある。この問答は、真木の思想を知る上に、とくに大切な文章であると思はれるが、そこには次のやうな論理が展開されてゐる。
「ある人びとはいふ。我藩は入朝の停止を命ぜられてゐるのだから、強ひて入朝しようとすれば、勅命をもって停止させられるのは必然ではないか。勅命に抗するわけにはいかぬ、と。しかし今日の勅は、中川宮の偽勅と称すべきであって、真の勅ではない。私は諸君に問ひたいが、もしも中川宮の徒が長州の封土を没収しようとして来た場合に、諸君は易々と封土を没収されるつもりなのか。おそらく違勅になるからといって、祖先伝来の封土を明け渡すわけにはいくまい。しかしその時になって、はじめて偽勅などと云ひ出しても論理は立たないぞ。この勅は、中川宮の偽勅だと初めから断ずることが大切なのだ。ある者によれば、八月十八日、あの緊迫した時に、長州は戦はずして退いた、いま戦ふのは暴逆ではないかといふ。かやうな論をなす者は卑怯者のみである。今日のことは、ただ戦ひの勝敗のみがすべてを決する時なのである。この道理を知る者のみが目的を達する。
─―われわれの策は、その行為の形からみれば不義である。しかしその心情は光明正大であり、天地鬼神もこれを知る。断じて恥づるところではない。
『真木和泉守遺文』所収「出師三策」に曰く、
「……今我之所為、則世之所不測 所謂動千九天之上者 既褫其胆 焉得有以兵加我者乎 此為以攻為守也。而其迹之不義 則我心光明正大 天地鬼神知之 非所恥也。
或曰 既停入朝 強而入則以勅停之必也 曰 今日之勅云者 中川賊所為也 非真也。若以此為真 則我無可為者 仮令有来奪我封者 則我甘納之乎 不納之 則果為違勅乎。特至此時而為偽非也。或曰 八月十八日賊軍士卒既内 銃礮既擬 而未発 而我今以戦臨之似暴 何如 曰為此言者非慎也 怯也 今日之事唯在干戦之勝敗 能了此意者得志耳。」
かれは「今日の勅といふは、中川賊の偽勅であって真の勅でない」といふ断定に立ってゐる。しかし偽勅とは何であらうか。天皇の意思に無関係に、あるいは天皇の意思に反して発せられた勅であるとの意味なのであらうか。それは必ずしもそのやうな意味なのではない。かれがその後に起草した上奏文によれば、天皇が側近の「讒誣欺子」のために誤られて、八月十八日以前の意思と異なる勅を発せられ、ために天下は危機に瀕してゐるが、いまにして正しい判断に戻らなければ、まことに重大事に立ち至るであらうと申し上げてゐる。これによってみれば、真木の偽勅といふ意味は、ほぼあきらかである。天皇が、中川宮の邪説に誤られて同意された勅なのであって、聖天子に相応しい正義の勅ではないといふほどの意味である。真木は、あきらかに天皇にたいして、諫争することの緊急を痛感してゐるのである。 続きを読む 葦津珍彦の真木和泉論
【書評】里見岸雄博士『天皇とプロレタリア』
展転社から里見岸雄博士の『天皇とプロレタリア』が普及版として復刻された。『月刊日本』平成30年7月号に掲載した書評を紹介する。
〈安倍政権が推進する新自由主義とグローバリスムによって、ますます貧困と格差が拡大しつつある。ところが、いわゆる保守派の多くはこの問題に沈黙している。本書は、そうした保守派に対する鋭い批判の書として読むこともできる。
資本家の横暴に対する「無産階級」の反発が強まり、やがて昭和維新運動の台頭を迎える昭和4年に刊行された本書は、国体の真髄を理解しない為政者や「観念的国体論者」に強烈な批判を浴びせている。〉(後略)
「新田義貞・高山彦九郎ゆかりの地を訪ねる」
崎門学研究会主催「新田義貞・高山彦九郎ゆかりの地を訪ねる」。一般参加も歓迎です。
●日時:平成30年8月5日(日)
●集合時間:10時30分(18時解散予定)
●集合場所:太田駅(東武鉄道伊勢崎線)
●参加費:1000円(資料代として。交通費・入場料自己負担)
■新田義貞(1301~1338)
後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉を攻撃、元弘3(1333)年幕府を滅ぼした。建武中興で、越後守・上野介や武者所頭人に任ぜられた。足利尊氏と対立。楠木正成とともに尊氏と戦ったが敗れ、恒良・尊良両親王を奉じて越前金崎城によったが落城。足羽郡藤島で斯波高経と交戦中討ち死に。
■高山彦九郎(1747~1793)
13歳の頃『太平記』を読んで建武中興の忠臣の志に感動。宝暦・明和事件などの幕府による勤皇派弾圧事件の挫折を乗り越えんとし、勤皇の大義を唱える。光格天皇の実父典仁親王への尊号宣下実現運動に奔走するも、幕府に追い詰められ、寛政5年6月27日久留米で自刃。
主な訪問予定地
新田荘歴史博物館 新田氏の活躍した史跡「新田荘遺跡」に代表される歴史資料などを展示
生品神社 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすために挙兵した場所
反町館跡 新田義貞が築城したとされる城館跡
高山彦九郎記念館 彦九郎の旅と足跡をテーマとし、旅道具・書簡・日記などのほか、映像などを利用して分かりやすく紹介
高山神社 明治6年(1873)創建。彦九郎を祭神として祀る
主催:崎門学研究会(orimoto1@gmail.com、090-1847-1627)
「楠公精神を体現した真木和泉」(『あゝ楠公さん』第10号)
平成30年4月、久留米水天宮内の真木和泉守記念館を見学、真木自筆の原稿や遺品などから、改めて楠公精神を体現した真木の生涯を思い起こした。
湊川神社社報『あゝ楠公さん』第10号巻頭に掲載していただいた拙稿「楠公精神を体現した真木和泉」の一部を引く。
〈真木は、文化十(一八一三)年に久留米水天宮祠官、真木旋臣の子として生まれ、若き日に宮原南陸の子桑州に師事した。南陸は絅斎門人の合原窓南に学んだ人である。
郵政大学校副校長を務めた小川常人は、真木の学問には絅斎、強斎の思想が流れていたと推測されると書いている。真木が、絵本楠公記を読み、強く楠公に心服していったのも、若き日に崎門の学にふれていたからであろう。
むろん、真木の学問の中心をなしたものは水戸学である。弘化元(一八四四)年に水戸遊学を許され、真木は四度にわたり会沢正志斎を訪ねている。真木は弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めようとはしなかった。
その十三年前の天保五(一八三四)年、正志斎は国民が祀るべき祭日を挙げ、その意義を解説した『草偃和言』を著していた。そこで楠公湊川戦死の日である「五月二十五日」を挙げ、次のように書いていたのである。
「楠氏の子孫、宗族、正行、正家、正朝、正高等を始として、相踵て義に死し、命を塵芥よりも軽くして、忠烈の気、天地に塞る……されば貴賤となく、此日に遇うては、殊に同志の友をも求めて、相共に義を励し、其身の時所位に隨て、国家に忠を尽さん事を、談論思慮して、風教の万一を助け奉るべき也」
真木が楠公祭を開始した直接的な理由は、この正志斎の言葉にあったのかもしれない。 続きを読む 「楠公精神を体現した真木和泉」(『あゝ楠公さん』第10号)
明治政府の警戒感を高めた初岡敬二
木戸孝允は、すでに明治二(一九六九)年九月時点で、古松簡二、河上彦斎、大橋照寿、初岡敬二の四人に対する警戒感を高めていた。
初岡は秋田藩勤皇派の代表的人物であり、幕末から活動、藩校明徳館の本教授を務めた。戊辰戦争で苦戦する中で上京し、公務人として政府出兵のため強力な要請運動を行った。
明治二年七月初め、初岡は招魂社大祭にキリストを踏みつけている武者像の大幟を秋田藩から献納しようとした。幟には「天涯烈士皆垂涙、地下強魂定嚼臍」と書かれていた。しかし、軍務局から献納を却下されている。
九月になると、初岡は「奸可斬、夷可払」とうたいながら剣舞するという事件を起こした。いわゆる「剣舞事件」である。ここで言う「奸」とは、木戸孝允、大村益次郎、後藤象二郎を指したものと解釈されたのである。実際、同月大村は暗殺されている。
宮地正人氏は、次のように書いている。
〈このような対立は月が進むにつれてより深刻なものとなり、ますます維新政府の権力基盤を不安定化させてゆく。「集議院廃セラレザレドモ、公議人ハ皆帰休ヲ命ゼラレタル由、弁官ニテ議ヲ発スレバ集院之ヲ討テ非トシ、集議院建白スレバ弁官害アリトシテ不行、毎事ニ途ニナリテ不一揆、政事是ガ為ニ壅滞シ、両党相争ノ姿アリ、不可両立勢也卜云」と、一八七〇年一月段階では受けとめられるようになる。まさに「両党相争」の事態である。これが同年九月段階にいたると、権力基盤の不安定化は極限状態に達する。同月一〇日集議院が閉会、その後の見込が立たなくなるのである〉
中沼了三から十津川郷士への通信─洋癖批判
宮地正人氏の「廃藩置県の政治過程」によると、明治二(一八六九)年六月十日、十津川郷士に以下のような通信があったという。
「朝廷ニハ追々御変革ニて、議院は頗る正論、屹度国家ノ柱礎と相成申侯、洋癖は大ニ折れ侯……段々有志ノ者ニも沸騰ニ付、驕奢ノ体は大ニ相折れ」
洋癖と驕奢に対する批判の高まりを示すものである。
これを書いたのは、崎門学派の中沼了三らしいと見られている。中沼は、明治四年には明治政府から排除される。
大久保利通らにとって不可欠だった神祇官再興・祭政一致の思想
明治維新が成ったときから、天皇親政の國體恢復を願う純粋勤皇派と、権力の奪取・維持を最優先する者たちとの間には隔たりがあった。神祇官再興や祭政一致についての考え方においても、両者は異なる考え方を抱いていたのではなかろうか。
安丸良夫氏は『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)において、次のように書いている。
〈岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正統化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ……」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ヅ。妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス、何ゾ其レ亡礼ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』)と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興や祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう〉
高山彦九郎の精神と久留米藩難事件
平成30年4月15日、同志ととともに久留米城跡に聳え立つ「西海忠士之碑」にお参りした。
碑文は、真木和泉のみならず、明治4年の久留米藩難事件に連座した小河真文、古松簡二らを称えている。
碑文の現代語訳は以下の通りである。
「明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など、数えれば数十名をくだらない。
これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命をおとし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心においては変りなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉をうけている。このような賞罰に関する朝廷の明白な処置に対しては国中の者がこぞって服し、ますます尊王の風を慕うようになっている。まことに国運が盛大をきわめるのも当然のことである。
こんにち朝廷では国民に忠義の道を勧められているが、この趣旨をよく体得すれば、国民として何か一つなりとも永遠に残る事業をなさねばならない。しかもわれわれにとっては、勤王に殉じた人びとは早くから`師として仰いだ友であり、またかっては志を同じくして事にあたった仲間である。いまここに彼等を表彰してこれからの若い人への励ましとすることは、たんに世を去った者と生存している者とが相酬い合うというたけでなく,国家に報いる一端ともなるものである。
このような意味から、場所を篠山城趾にえらび、神社の傍に碑石を建て、有栖川熾仁親王から賜わった「西海忠士」の大書をこれに刻記した。思うに、この語句は先の孝明天皇の詔勅の文からとられたものであろう。世冊この碑を見るものは、おそらく誰でも身を国に捧げようという感奮の念にかられることであろう。昔、高山彦九郎は、九州方面で同志を募るためにしばしば筑後を訪れ、久留米の森嘉善ともっとも親密な仲となり、ついに彼の家で自殺する結果となった。これはまったく、二人が勤王の同志として許し合う間柄であったからである。このために二人を併せて追加表彰することにしたが、これによって筑後の勤王運動の源泉が遠い時期に在ったことを知るべきである。
明治25年10月 内藤新吾識」
碑文が、時代を遡って高山彦九郎のことに言及していること(*抜粋意訳には抜けている)が、極めて重要だと考えられる。
明治2年に、久留米遍照院で有馬孝三郎、有馬大助、堀江七五郎、小河真文、古松簡二、加藤御楯らが、高山彦九郎祭を行った事実を考えるとき、彦九郎の志が久留米藩難事件関係者に継承されていた事実の重みが一層増してくる。