「国体思想」カテゴリーアーカイブ

堀尾秀斎(春芳)と吉見幸和─垂加神道をめぐって

 
 吉見幸和が垂加神道批判を開始するのは、堀尾秀斎(春芳)が横須賀村へ移住した直後の元文元(一七三六)年のことである。では、堀尾は垂加神道について、いかなる立場をとったのであろうか。岸野氏は以下のように明確に述べてある。
 〈春芳は、吉見幸和の実証主義を継承する方向ではなく、垂加の本流を求めてこの年(一七三六年)の春に京都に遊学し、玉木葦斎の講席に出て、垂加を継承する正親町家の神道と、葦斎が独自に展開した橘家神道を講習することになる。玉木葦斎はこの年の七月八日に急病で突如死去しているので、葦斎よりの直接の講習を受けた期間はそれほど長いものではなかったと思われる。晩年の葦斎は、垂加神道を基礎としつつ、垂加神道に従来なかった神道行事を導入し、橘家神軍伝を中心とする兵家神道をとり入れた独自の橘家神道を樹立している。春芳が、後に門人に伝えている垂加流の神道の内容をみると、短期の講習であったにせよ、葦斎流の橘家神道の特徴が色濃く出ているので、吉見幸和とは異なった方向での独自性という点で、春芳にとってこの京都遊学の意味は大きかったものと思われる〉
 堀尾はまた、京都遊学中、谷川士清や、京都の朝日神明社の神主で増穂残口の子、増穂鎮中等と交流していた。士清との交友は、その後も続き、増穂鎮中からは残口の『闇夜の礫』を与えられている。
 ところで、吉見と同様に実証主義の立場からの神典を展開していた人物に、多田義俊(義寛)がいる。壺井義知に有職故実を学び、芝山重豊や中山兼親らの公卿に近侍して研鑽を重ねた人物である。多田は、寛保元(一七四一)年から名古巣に滞在していた。多田の考え方について、岸野氏は、多田が寛保三(一七四三)年六月に著した『蓴菜草紙(ぬなはのそうし)』序に基づいて、次のように書いている。 続きを読む 堀尾秀斎(春芳)と吉見幸和─垂加神道をめぐって

尾張崎門学派・堀尾秀斎(春芳)の歩み

 
 尾張藩で多くの門人を育てた吉見幸和と、『名分大義説』を著した堀尾秀斎(春芳)は、ともに尾張崎門学の先駆者・小出侗斎の門人である。しかし、吉見と堀尾は同門でありながら、立場を異にした。以下、岸野俊彦氏の「尾張垂加派堀尾春芳の生涯」(『名古屋自由学院短大紀要』第二三号、一九九一年)に基づいて、堀尾の歩みを追う。
 堀尾は、正徳三(一七一三)年に生まれた。父親は、名古屋御園町に住む堀尾吉兵衛吉次、母親は、吉次の後妻で花木氏。堀尾は六才前後から、父親に実語教、小倉百首、小学等の初歩教育を受けた後、師について文武の芸を学んだ。剣術を長尾和太夫に学び、さらに兵術、鑓、組打類も学んだ。弓馬については野村源之進を師とした。
 そして、堀尾は浅見絅斎門下の小出侗斎に入門した。享保十二(一七二七)年には、春秋伝から引いた「春芳秋実」との称を贈られている。当時、侗斎はすでに還暦を過ぎていたこともあり、堀尾に対して、自分の門人の須賀精斎に学ぶように命じた。須賀精斎は、儒教を小出侗斎に学び、神道を吉見幸和に学んでいる。岸野氏は、次のように指摘している。
 〈吉見幸和が垂加神道の神典の主たるものであった伊勢の神道五部書を批判する「五部書説弁」を著し、垂加神道から独自の吉見神道へ移行していく契機になるのは一七三六(元文元)年であり、幸和五十三才、精斎四十七才、春芳二十三才であるので、春芳の幼少年期の幸和は反垂加にまだ転じてはいなかった。したがって、後年の春芳の崎門の学と垂加神道の基礎的枠組は須賀精斎によって与えられたとみることができるであろう〉
 岸野氏が指摘する元文元年以前の吉見とそれ以後の吉見とを峻別することは極めて重要だと考えられる。
 堀尾は、小出侗斎、須賀精斎による儒学の基礎教育の上に、享保十三(一七二八)年から、浅井周迪・勝永寿軒・桜井養益(養周)に医を学び始めた。一、二年の修学を経て、堀尾は名古屋の伝馬町で医を開業する。この伝馬町時代、堀尾は医業の他に、四書や近思録を講じ、さらに神書も講じていた。伝馬町時代の享保十五(一七三〇)年、知多郡横須賀村の人に招かれて、初めて横須賀で医療を行った。その五年後の享保二十(一七三五)年正月、堀尾は伝馬町から横須賀村へ移住した。

尾張藩における崎門学派と国学派①

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 〈尾張藩教学に足場を固めつつあった本居門の学識は、尾張藩にとっても尾張垂加派にとっても認めざるをえないものであり、かつ有用であったことは、深田正韶自身が藩命による『尾張志』編纂の総裁として、校正植松茂岳、輯録中尾義稲を編纂スタッフに加え、その学識に依拠したことのうちにみてとることができる。この点、尾張垂加派が国学一般をどのようにみていたのか、以下の引用(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)によって確認しておこう。
 「古学……其始は契沖阿闍梨なんどより出て、もとは歌学の助けとして万葉集をはじめ古言古辞の解しがたきをわきまへ、夫よりして古事記はことに古書にて古言古辞の証拠と為べき書なれば、専らに穿鑿してやゝ発明の事ども多く、契沖より以後、加茂の真淵なんどにいたり、いよいよくわしくなりて、先輩の心つかさる事ども迄もよく釈出して、書どもあまた著し後学のためによき便となる。大幸といふべし」
 これは、高木秀條の理解であるが、契沖以後、宣長に至る国学の系譜と、その古典注釈学としての価値を正当に評価しており偏見はみられない。また、国学が漢文の影響の強い『日本書紀』よりも『古事記』を重視したことの意義についても、この限りでは冷静に理解しているといえる。このように学問領域に限定すれば、宣長に対しても「強記英才」と高い評価を与え、宣長の『古事記伝』もまた、「古言辞の解釈精密確実」と、その学問としての画期的意義を認めている。垂加派といえども、彼らの学識と文人としての良識は、学問としての合理性を持つ宣長学は理解の範囲内にあったことを確認しうるであろう。
 だが、同じく国学とはいえ、平田学については極めて否定的であった。
 「近頃、平田篤胤といへる者、もと宣長の門弟にて甚だ其流を信じ学びたるやうに聞えたれども、当時説く所、大に師説に悖りて、我ら如きの思ひもかけぬ珍奇の説をいひ出し(中略)かゝる事もいへばいはるゝ物かと思ふ計、奇々妙々の説ともなり、是また是非を論ずるに及ばず」
 篤胤の学問方法の特徴は、古典の注釈という外貌は持つが、宣長のように漢文の潤色のない『古事記』を絶対化するものではなかった。彼は「真の古伝」というものを仮想し、自らの作りあげたイメージに合うものは『古事記』『日本書紀』に限らず、儒教・道教・仏教・キリスト教であろうが、すべて「真の古伝」の残影とみた。この立場から『日本書紀』を否定する宣長を篤胤は、「漢土に遺れる古文なるを、我が真の古伝に合へる説なる故に、御紀の巻首に先これらを載られたる物なるべし、然るを師のいたく悪まれたるは一偏なり」と批判をする。この方法は、子安宣邦もいうように、「古典に対して注釈者の位置にいるのではなく」、古典を「増殖する彼の観念のてだて」とするものであり、国学を古典注釈学の系譜の内に理解しようとする尾張垂加派にとって、まさに「思ひもかけぬ珍奇の説」であり、学問として認めうるものではなかった。平田篤胤が、一八三四年(天保五)十一月に尾張藩から扶持を打ち切られる背景には、幕府の動向や、名古屋での本居門の反発などが予測されるが、尾張垂加派のこのような平田学への対応もまた一要因として考慮する余地があると思われる〉(百四十九、百五十頁)

尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張垂加派について以下のように書いている。
 [前回より続く]〈尾張垂加派が背後に持っている交友と文化的傾向について、深田正韶が主催した「天保会」という、文化的サロンを紹介することによって明らかにしたい。
 深田正韶は、天保改元を期に「天地万物人倫綱常、大小幽明変幻奇怪」にわたる情報を同好の士で出し合い記録すべく第一回の会合を開き、その会を「天保会」と名づけ、その記録を『天保会記』とした。これには、尾張垂加派のほか、榊原寧如(禄千四百石)・幡野忠孚(禄八百石の長子)・石井垂穂(禄二百五十石)・石黒済庵(奥医師)・長坂正心(藩主宗睦養女・近衛基前室付侍目付)・柳田良平(寄合医師)・大館高門(一条家侍医・宣長門豪農)らが参加した。
 これら主な参加者の特徴は、尾張藩士としては中級以上であること、藩主に近い位置にあること、京都の堂上公家との関係が強いもの等とみることができる。こうした構成上の特徴により、その情報は尾張地域やその周辺を基礎としつつ、それにとどまらない多彩さをみることができる。
 その一つは江戸文化との関係である。
 石井垂穂は、横井也有の『鶉衣続篇』等の校合で知られているが、深田らと同様、化政期をはさむ前後二十年の江戸勤番の経歴を持っている。石井は江戸を、「六十六ヶ国の寄合所、風月をたのしむ友多くば、勤番もまんざらでもなき物也」と天保会で述べている。事実、石井は江戸で唐衣橘洲に狂歌を学び、蜀山人・飯盛・真顔・種彦らと交わった。高木や深田ら江戸勤番の経験を持つ者は、程度の差はあれ同様の傾向を持つと思われる。
 その二は、京都文化、特に堂上公家の文化との関係である。…高木は日野資枝、深田は芝山持豊ら、和歌の師は堂上公家である。こうした和歌の師を堂上公家とするのは、藩主を初めとして中級以上の藩士には通常の関係であり、そのことが上層の社交と贈答関係を彩るものと理解されていた。また、彼らが尾張藩主を『天保会記』で「大納言の君」と記す意識のうちに堂上志向をみることができる。そればかりではなく、藩主自身も堂上公家との血縁的関係を持とうとした。長坂正心は藩主の養女が近衛家に嫁いだため、侍目付として京都定詰となっている。長坂は、京都定詰であり天保会には出席しなかったが、「当時在京長坂正心出之」との京都情報が天保会に届けられている。また、柳田良平は尾張藩では寄合医師で格は低いが、京都で医を学び日野資愛や富小路昌信らの堂上公家との関係が強かった。大館高門は、海東郡木田村の豪農で宣長門人として有名だが、宣長死後は医に志し京都へ行く。やがて彼は、一条家の侍医となり、堂上公家の歌会や茶会に同席した。文政から天保の初めには母親の病気もあって木田村に帰っており、天保会に出席した。 続きを読む 尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より


尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
[前回から続く]〈●天明五(一七八五)年六月十三日、明倫堂東隣に聖堂を建つ。
「先聖殿」の額はここに移された。額はいま徳川美術館にある。
●寛政四(一七九二)年四月十九日、岡田新川、明倫堂督学となる。
この年、秦鼎(はたかなえ)教授となる。
●寛政七(一七九五)年七月二十三日、石川香山、督学並びに経述館総裁。
新川・香山の時、学生七十名程、朱子学を講じた。(典籍秘録)
●享和元(一八〇一)年六月十日、冡田大峰、御儒者として召出さる。
大峰が御儒者となってから、恩田薫楼、奥田鴬谷(仝二年)、高田権之丞、秦世寿(四年)、林南涯、児玉一郎兵衛、能井東九郎(六年)教授となる。
●文化八(一八一一)年五月十八日、冡田大峰、督学となる。
冡田大峰は寛政異学の禁以来用いられた朱子学を廃め古学に復し、平洲の学を継ぎ、治道と学問とを一致させようとした。平洲歿(享和元)時、弔文を書いたのは大峰である。明倫堂出身者の登用のため撰挙科目、読書次第を制す。(明治二年まで)「学問の用心、孝悌忠信を本とし、政事之道を心得て、もし一官一職に任ぜらるれば、其官職相応の謀慮を発し、治安の一助をなさんと志し、本業と助業とを分ちて孝経・論語をはじめ、経義を研究するを本業とし、史子、百書に博渉して、其時世の興廃、人物の得失を弁ずるを助業とする也。」 続きを読む 尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より

「王命に依って催さるる事」を伝えた近松茂矩─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 尾張藩初代藩主・徳川義直の「王命に依って催さるる事」を後世に残そうとした四代藩主・徳川吉通の命により『円覚院様御伝十五ヶ条』を編んだのが、近松茂矩である。
 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)の解説で、名古屋大学教授の佐々木隆美氏は近松について、以下のように書いている。
 「…近松茂矩は、その先は近江出身、永く美濃国山県郡に住し、祖父茂英の時、尾藩に仕えて代官となり、美濃郡奉行用水奉行等を歴任、父茂清も材木奉行御馬廻等を勤めている。茂矩は長子で、彦之進と称し、正徳二年末十六歳で以て通番(所謂表小姓)となつたが、時に藩主吉通は廿四歳であり、嗣子五郎太は僅か二歳である。翌年江戸に下り、五月側小姓となつて元服したが、七月には早くも吉通の死去に遭い、彼が側近に侍した期間は結局僅かに六十余日に過ぎない。而もこの主の知遇に対しての感激が彼の生涯の方向を決定した事は前述の通りである。更に十月十八日には五郎太も死去している。かくて彼はその九月下旬から兵学自叙を書き始め、その年の末御馬廻の閑職に転じて尾張に帰り、以来故主の意を体して兵学に精進する外、神道・和歌・俳諧・茶道等、多彩な才能を発揮している。
 正徳五年十九歳の若さで以て一派をたて、全流錬兵伝(後に一全流と改名)と称し、初めて錬兵堂に門を開いて教授を行ない、享保八年藩主の尋ねに応じて提出した武芸指南の年数並に門人の書上げについてみると、既に桀出した門人四十五名の多きに達している。彼が長沼流の兵学を苦心の末悉く皆伝された由来も、前述の如く故主の素志によるものであるが、その修行の経過も差出された長沼流留のうちに詳述されている。
 かくの如く当時一流の兵学者としての彼は、他面吉見幸和の高足としてその許しを得た神道学者であり、敬神の念の厚い信仰者でもあつた事は、伊勢神宮や熱田神宮への崇敬事実からも知られる。更には和歌を京都の観景窓長雄に、俳諧を支考後に里紅に学び、其他茶の道にも入つているが、恐らく之等は所謂文化的教養としてのものであつたろう。たゞ俳諧は比較的その交遊範囲も広く作句も一応の出来栄えの様である。要するに風流人としての半面を多分に所有していた訳である。享保の末の「当世誰か身の上」(筆者不詳)の跋に彼は三々良の名で「世はたゞ色に遊ぶべし、色に荒む事なかれ」云々等の粋な言辞を述べている。蓋し彼の青壮年時代は、恰も名古屋の都市文化爛熟の宗春の時代である事を思うならば、容易に首肯できる。その交遊に遊女あり俳優ありで、各所の宿坊に粋を仄見せた事実は随筆を通じても伺い知られる。
 
 著書も頗る多く而も多方面に亘り、御伝十五ヶ条を始めとして、尾藩君臣の言行故事旧聞を録した「昔咄」十三巻や、「道知辺」「錬兵伝」等の武道関係のもの、「本朝正教伝」「稲荷社伝」以下の神道もの、「視聴漫筆」「茶窓閑話」等の随筆類から和歌俳諧のものまで七十数種に及んでいる。
 安永七年二月十七日、八十二歳の長寿で歿している。(墓所 平和公園 旧は北押切の本願寺)」

戊午の密勅と尾張勤皇派・尾崎忠征


●戊午の密勅と安政の大獄
 安政五年三月十二日、関白九条尚忠は朝廷に日米修好通商条約の議案を提出した。これに対して孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にされ、参内した老中堀田正睦に対して勅許の不可を降された。
ところが、大老井伊直弼は、同年六月十九日、朝廷の勅許なしに日米修交通商条約に調印してしまった。これが尊攘派の激しい反発をもたらしたことは言うまでもない。
 八月七日の御前会議において、条約を調印しそれを事後報告したことへの批判と、御三家および諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、外国の侮りを受けないようにすべきとの命令を含む勅諚が降されることが決まった。戊午の密勅である。同日深夜、左大臣近衛忠煕(ただひろ)から水戸藩京都留守居・鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交された。
病床にあった吉左衛門に代わり、その子幸吉が密使として、夜半に乗じて東海道を東下。八月十六日、江戸の水戸藩邸に密勅が届けられた。
 老中堀田正睦に対して孝明天皇が下された勅答は、梅田雲浜が青蓮院宮尊融法親王(久邇宮朝彦親王)に建白した意見書が原案になったとされている。青蓮院宮家臣の伊丹蔵人、山田勘解由人は雲浜に入門して師弟の交わりを結んでいた。雲浜は、伊丹と山田を通じてその青蓮院宮の信任を得ることに成功した。
 また「戊午の密勅」もまた雲浜の働きかけによるものと考えられる。雲浜は鵜飼吉左衛門・幸吉父子、頼三樹三郎、薩摩藩の日下部伊三次らと密議して、水戸藩主・徳川斉昭(烈公)を首班とした幕政改革を行うことを企図していたからだ。吉左衛門は烈公から「尊攘」の二文字を賜るほどの信任を得ていた。
 強い危機感を抱いた井伊は、尊攘派弾圧に踏み切り、まず九月七日に雲浜が捕縛された。安政の大獄の始まりである。九月十八日には、吉左衛門・幸吉も捕縛された。翌安政六年八月二十七日、吉左衛門と幸吉は、安島帯刀や水戸藩奥右筆・茅根伊予之介とともに伝馬町の獄舎内で死罪に処された。吉左衛門は死に臨み、幕吏に「一死もとより覚悟の上。唯心に掛かるは主君(徳川斉昭)の安危なり」と尋ね、恙無きやを知ると、従容として死に就いた。 続きを読む 戊午の密勅と尾張勤皇派・尾崎忠征

尾張藩尊皇思想の変遷─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 平成三十一年二月、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)を入手した。以下のように、尾張藩尊皇思想の変遷を辿る上で貴重な文献が収録されており、名古屋大学教授の佐々木隆美氏が的確な解説を書いている。
 『君戒』(尾張藩初代藩主・徳川義直著)
 『初学文宗』(同)
 『円覚院様御伝十五ヶ条』(尾張藩四代藩主・徳川吉通の命により近松茂矩が編録)
 『円覚院様御伝十五ヶ条輯録来由』(近松茂矩)
 『温知政要』(尾張藩七代藩主・徳川宗春著)
 『温知政要輔翼』(中村平五著、深田慎斎校訂)
 『人見弥右衛門上書』(人見弥右衛門著)
 『吉見家訓』(吉見幸混撰述)
 『刻新 古事記述言』(稲葉通邦)
 『家訓』(石井垂穂著)
 『諸生規矩』(蟹養斎著)
 『諸生階級』(同)
 『読書路径』(同)
 『聖堂記(明倫堂始原)』(細野要斎編)
 『寛延記草』(中村習斎著)
 『新堂釈菜儀』(同)
 『新堂開講儀』(同)
 『明倫堂典籍記録』(正木梅谷著)

尾張勤皇派・植松茂岳─『名古屋市史 人物編 第一』より

 『名古屋市史 人物編 第一』には、植松茂岳について以下のように書かれている。
 〈植松茂岳、小字啓作、通称は庄左衛門、松蔭・不知等の別号あり。尾張の士小林和六常倫の第二子にして寛政六年十二月十日、名古屋流川の家に生まる。十歳にして父を喪ひ、兄伸弘等と兄弟四人、母北村氏に鞠育せらる。而して薄禄の家、母子五人を養ふに足らず、頗る窮乏を極む。茂岳、人と為り質実にして聴明なり。歳十三の時其算術の師岸上某歿す。依りて代りて其弟子に授く。兄仲弘、和歌を植松有信に学ぶ。時に支配勘定並として江戸詰たり。屡々詠草を送りて添削を有信に乞ふ。茂岳毎に其使をなす。有信の妻伊勢子、一日茂岳と語り、其窮乏を憐み、依りて其家に来り、勤学の傍版木彫刻を学びて生計を助けんことを慫慂す。茂岳悦びて之を母に謀り、即夜有信の家に至り。是より専ら国学と版木彫刻とを学ぶ。
 有信、茂岳の人と為りを愛し、子なきを以て遂に父子の約をなす。居ること五年、有信歿す。茂岳時に年二十なり。伊勢子其半途にして師を喪へるを憐み、和歌山に遣はして本居大平に学ばしむ。大平も亦茂岳を養ひて嗣たらしめむとす。茂岳既に有信と一旦の約あるを以て之を辞し、文化十三年、名古屋に帰りて植松氏を嗣ぐ。茂岳、国史・物語・語学・歌文達せざる所なく、皇道を弘むるを以て己が任となし、其忠誠熱烈言行に溢る、是を以て風を望み、教を請ふ者日に門に満つ。茂岳又江戸及び美濃・信濃・伊勢の諸国に遊び、門人益々進む。鈴木朖(あきら)・丹羽勗(つとむ)・大原寅三郎等、有信と旧故ある者、数々書を当路に上りて、茂岳を起用せんことを乞ふ。天保六年に至り、藩主五人扶持を給して用人支配となし、藩校明倫堂に出でて和学を教導せしむ、八年に至りて、班を進めて明倫堂典籍次座となす。
 天保十年藩主斎温薨じ、幕府田安斎荘をして封を襲がしむるや、藩論沸騰す。茂岳江戸に下り、高須秀之助をして、継嗣たらしめんとして大に周旋する所あり。事成らざりしと雖も、其忠諒にして義に進むの勇なる倍々正義の士の尊信する所となる。弘化二年、切米拾貳石、扶持三口を給ふ。是より先、藩命ずるに尾張志の撰述、古事記・六国史の校正、熟田文庫の建設、大須宝生院古写本の調査等を以てす。茂岳、藩内子弟の教導の傍、是等の事に従ひ、日夜務めて惓まず。嘉永二年、慶勝封を襲ぎ、励精治を謀る。安政元年、諸政を改革し、将に禄制を更めんとし、先づ自ら倹約の範を示す。茂岳、感奮して五年の間其禄を返上せんことを請ふ。人弥々、其忠直無私なるに感ず。二年四月、始めて慶勝に侍講す。是より月に四次奥入をなし、図書を講じ、又和歌を添削す。慶勝、其人と為りを重んじ、遂に国事の顧問に備ふ。茂岳感激して知りて言はざるなく、言ひて行はれざるなし。
 安政四年、明倫堂教授次座に進み、切米拾石を加へらる。五年、慶勝、幕府の譴を受けて戸山の邸に幽閉せらるゝや、茂岳も亦田宮如雲・阿部伯孝・間島冬道等と共に厳譴を受け、俸禄を減じて自宅に幽閉せらる。不知と号するは其幽閉中の名なり。文久二年九月、閉居を解かれ、尋いで職禄を復し、又譜代席に列せらる。翌年、慶勝の参内に扈し、且つ国学の造詣邃きを以て、永く徒格以上となし、三石を加給す。幾もなくして多年子弟の教養に務めたる功を賞し、永世目見以上となし、俸五十俵を元高とし、八拾七俵を給ふ。万延元年、明倫堂教授に進み、百俵を給ふ。慶応三年、明倫堂国学教授となリ、翌年、使番格に進み、明治元年に至り、更に側物頭格に進み、百五拾俵を給ふ。三年九月致仕を乞ふや、隠居料として扶持三口を給ふ。新藩主義宜、亦茂岳を師として優邁至らざるなし。又曽て慶勝に扈して京に入るや、華頂宮博経親王、其学徳を慕ひ、召して古事記を進講せしめたまふ事数次、恩賜頗る豊なり。近衛忠房亦召して講を聴く。明治六年、大講義に補し、翌年、慶勝の召に応じて東京に至る。蓋し宮内省より召さん為なりしが、其高年なるを以て、唯歌を詠進せるのみにして名古屋に帰れり。
 明治九年三月二十日、熱田の寓居に歿す。享年八十三。愛知郡高田熱田神官共有墓地に葬り、豊真菅彦道起根大人と謚す。明治三十六年十一月、特旨を以て従五位を噌らる。
 著す所天説弁・天説弁々之弁・皇国大道弁・鎮国説・父子説・君臣説・夫婦説・愛国一端・御供日記等あり。歌集を松蔭集といふ。茂岳、高木氏を娶りて五男四女を生む。二男有園、五男有経、並に家学を承けて名を著す。門人頗る多く数百人に達し、尾張勤王の士多く其門より出づ。間島冬道・奥田常雄・野呂瀬秋風・西郷暉隆・本多俊民・野村秋足・岡田高穎・田中尚房・千葉葛野・山田千疇・神谷永平・石橋蘿窓・三輪経年・内田成之等最も顕はる。名古屋藩に聘せられて仏国人ムリイ亦就いて教を受けしといふ〉

尾張崎門学の先覚・蟹養斎

 多くの門人を育てた尾張崎門学の先覚の一人として、蟹養斎の名を挙げることができる。手島益雄の『愛知県儒者伝』(東京芸備社、大正十三年)は、蟹養斎について以下のように書いている。
 「蟹維安、字は子定、養斎又は東溟と号す、安芸の人なり、幼にして尾張に来り、某氏に養はる、資性英邁、五歳字を写し、七歳書を読み、十歳四書を講ず、既に長じて京に入り業を三宅尚斎に受く、尚斎学堂を設け事に幹たるもの五人を置き五舎長と称す、養斎其一人となり、学成つて再び尾張に来り、教授を業と為す、延享甲子官月俸を賜ふ、寛延戊辰講堂を城西幅下に営む、官、金若干を賜ふて以て之を資く、嘗て門人の為めに諸生規矩、諸生階級の二組を著す、之を尾張公たる戴公に進む、公大に之を善みし、明倫を以て堂に命け、親書して以て賜ふ、門人益々盛なり、後故在つて俸を辞し、伊勢の桑名に行く、爾後四方に萍浮す、深く道を以て自ら任ず、権勢に阿らず、卑弱を慢まらず、正学を開き邪説を排するを務と為す、後ち伊勢浦田に在て歿す、安永戊戌八月十四日也享年七十四藤波神主山に葬る、著す所頗る多し」
 一方、『朝日日本歴史人物事典』には、蟹養斎について以下のように書かれている。
 「江戸時代中期の崎門派の儒者。名は維安、養斎は号。安芸(広島県)の人。幼時に名古屋にきて尾張(名古屋)藩士布施氏の養子となる。三宅尚斎に朱子学を学んだのち、名古屋で私塾を開いて教化に携わり、尾張藩から5人扶持を給せられた。尾張藩の保護を受けて新たに巾下学問所を開いたが、経営難に陥って閉鎖し、伊勢(三重県)桑名へ去った。各地を転々として伊勢浦田で病没。道学に任じて実践躬行を尊び、異端異学を排斥し、儒教的喪祭の定着をはかった。< 著作>『易学啓蒙国字解』『火葬弁』『士庶喪祭考』『弁復古』< 参考文献>『尾藩世紀』(名古屋叢書3編) 」(高橋文博氏)