「国体思想」カテゴリーアーカイブ

藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

 明和事件で山県大弐とともに刑死した藤井右門の思想については、『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘している。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 彼の思想について考察する唯一のてかがりが、彼の著作とされる『皇統嗟談』である。佐藤種治は以下のように書いている。
 〈右門の学説については彼の著述といふ「皇統嗟談」に於て伺うことができる。此所は九州四国其外有志の輩へ頒つたものであるが、これに描いてあることは山本新兵衛の所蔵のもの等によると、昔年北条貞時が奸計にて最も惶(かしこ)き皇統を二流に做(な)し奉り、天子の大威徳を分ちまゐらせんと揣(はか)りしにより大覚寺殿と持明院殿と御子孫各々る迭代に皇位に即き給ふべしと奏し定めまゐらせにき。抑々大覚寺殿と申し奉るは亀山天皇の御子孫也。然るに亀山天皇脱履の後は、嵯峨なりける大覚寺を仙洞に做し給ひしかば、是よりその皇統を大覚寺殿と称し給ひしなり。持明院殿と申すは、後深草天皇の皇統にて、中古後堀河天皇の外祖なる持明院基家卿の宅をもて仙洞に做し給ひしより、幾代の御子孫の天皇この所を仙洞となし給ひしかば、後深草天皇の皇統を持明院殿と申す也。然れば梅松論に拠るときは、後嵯峨天皇の御譲位の勅語に、一の御子久仁親王(後深草院是也)御即位あるべし、脱履の後は後白河法皇の御遺領なる長講堂領百八十箇所の荘園を御領として、御子孫永く御即位の望を止めらるべきもの也。却っ次々は後深草の御母弟恒仁王(亀山院是也)ありて、御治世は後々まで御断絶あるべからず、仔細あるによりて也と定めさせ給ひにけり。これにより亀井天皇の春宮後宇多院御即位ありしを、後々に至りては彼の北条の拒みまうして、後宇多・後深草・両帝の子孫をかはりがはりに皇位に即けまつりしがは、伏見(後深作院第二皇子)・後伏見(伏見院第一皇子)・後二条(後宇多院第一皇子)・花園(伏見院第三皇子)・後醍醐(後宇多第二皇子)に至らせ給ふまで、多くは御子に皇位を伝へ給ふことを得ず、是を以つて北条高時が計ひ稟して、後伏見の第二の御子量仁(かづひと)親王(光厳院是也)を後醍醐天皇の東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、当今を推む退けまつり、東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、後嵯峨天皇の遺詔のごとく、唯当今の御子孫の継体の君たるべきを、武家(北条を云)の悖逆なる世を経る累年、陪臣にして皇位を自由に致すことやはある。高時一家を誅戮して、先皇(後鳥羽並亀山帝云)泉下の御欝憤を慰めさせ給へかしと、思はぬ者はなかりける。是内乱の根本なとなれり。 続きを読む 藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南③─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●「以大事小者楽天者也、以小事大者畏天者也」
 〈当時米柳両藩の境界を流れたる矢部川(当時御境川と称す)の水害防禦の為互に堤防を固め、彼一層高く築き出せば我亦更に高く築き出して、競争絶ゆる期無かりしかば、国老有馬河内先生の意見を問ひしに、先生『以大事小者楽天者也、以小事大者畏天者也』(大を以て小に事(つか)うる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事うる者は、天を畏るる者なり)と孟軻は論ぜられしを以て篤と賢考ありたしと対へられければ米藩即ち築堤を停止せしに柳藩亦其工事を中止し、双方の争論日ならずして消尽したりといふ。
 明治三十六年十一月、八女郡教育会が同郡の先賢祭を営み『先賢育英之一班』と題せる書冊を刊行するや、筑後の儒宗として劈頭第一に窓南先生の事蹟を掲げ、我郡中初めて咿晤(いご)の声を挙げたるは実に先生の力なりといへり。
 先生没歿後一百八十三年、即ち大正九年の秋十月、安武村の有志者相謀り、福岡県教育会三瀦郡教育支会及び筑後史談会の後援を得て先生の遠忌祭を行ひ、且其遺著古語仮字講義一篇を印刷して之を公にし、一は永く先生の学徳を景仰せしめ、一は以て世道人心を振作せしめんとせり、先生在天の霊亦自ら慰むる所あるべきなり。
 塾址 八女郡上妻村大字馬場字北屋敷八百八番地に在り、今は田二反余歩となれり、先生歿後所有者転々して、目下は同所安達貞雄氏の所有となり、昭和十一年七月八女郡上妻村教育会に於て標木を建設して不朽に伝へんとせり。」
[続く]

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南②─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●「廉潔実に感ずべきなり」
〈先生易簀(えきさく)の後門人等力を戮(あわ)せ金を醵して塚壙(ちょうこう)を営み、且永く追遠の誠を致さんが為祭祀田九畝同畠八畝を附して歳次の弔祭怠らざりしが、再来物換り星移りて百数十年、住吉村光白に於ける田一反一畝二十歩及び同村字石迥なる畑七畝十八歩の祭田は何時しか福山氏の管する所となり、明治十八年二月転じて田畑共に船津仙吉兄弟の私有に帰し、畑地は同四十五年二月更に宅地百二十二坪と同百五十坪とに分裂して地目変換せらるゝに至り、されど其土地今尚合原どん(合原殿の義)の屋敷と称せ
られ、墓守福山氏は毎年八月二十一日隣保の人を招きて先生の追弔供養を為せりといふ。
 先生初め立石氏を娶る早く歿す一女あり又夭す、継室長岡氏一男を生む名は藤太郎景修と称し父の任を以て月俸を受け中士に列せしが先ちて歿せり。先生著す所四書資講、太極図説資講、初学筮要(ぜいよう)、読書録類纂、易本義頭書、鬼神魂塊二弁、古語仮字講義、久留米城之記其他詩文遺稿等あり。
 先生資性恭謙よく人と感化す、其致仕して馬場村に退隠せしより以後俸米は之を庭内に積みて一も消費せざりきといふ、盖し公職なくして禄を受け之を私するに忍びず、蓄へて以て窮民を恤み或は善行者を賞し、若くは村邑公共事業の資に供せしならん、其廉潔実に感ずべきなり。〉
[続く]

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南①─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 
 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●法衣を脱し浅見絅斎門に入る
〈合原藤蔵名は餘修初め権八と称す、三潴郡住古村の人なり、本姓は草野氏山本郡(今三井郡)発心の城主草野右衛門督鎮永の後裔にして、父を道秋と云ひ医を業とす、母は牛原氏寛文三年三瀦郡往吉村に生る、先生幼にして穎悟大に読書を好む、年十一出家して僧と為り十七歳にして説法明弁なり、後京都及び江戸に遊び傍ら儒教を学び、壮年に及んで自ら其非を悟り、翻然として法衣を脱し髪を蓄へ浅見安正(浅見絅斎)の門に入り道を信ずること愈篤く、行を砺くこと盆々精く、特に性理易学に長じ其名京師に震ふ、宝永六年久留米藩主有馬則維公召して儒官とし一藩士太夫の子弟を教授せしむ、生徒の従学する者頗る多し、米藩宋学の盛なる蓋し先生を以て先唱とすべし。
 正徳三年御条目御事目の制定せらるゝや先生其議に参与し同法令発布の際には湯川丙次(号東軒)と共に之が説明の任に当れり、斯くて在官十余年、享保八年の秋病を以て上妻郡(今八女郡)馬場村(今の上妻村大字馬場)に隠遁して窓南と号す、時に年六十一、是に於て国老以下諸士相追随して往いて道を問ふ者日夜絶えず。
 先生上妻の僻村に在りて士民と教育すること十一年門人数百人に及ぶ、享保十八年八月藩侯有馬頼徸(よりゆき)復公再び先生を登用して侍講とし稟米二十九地を給し秩竹間格に班す、又其老を優待し轎(きょう)に乗りて出勤し且庁に在りて帽を冠り寒を禦ぐことを許さる、時に年七十二、元文二月八月二十日病んで歿す享年七十又五、住吉村東南原山先塋の次に葬る、碑面題して「合原窓南之墓」と曰ふ遺命に従ふなり。〉(一~二頁)
*なお、同書において、「合原」は「あいはら」ではなく「ごうばる」のルビが振られている。
[続く]

藤井右門公園(富山県射水市)

 平成29年6月末に富山県射水市にある藤井右門公園を訪れた。
 右門は、朝権回復を目指して桃園天皇側近に講義をした竹内式部が京都から追放された宝暦事件(一七五八年)に連座し、さらに明和事件(一七六七年)で、山県大弐とともに処刑された。まさに、維新の先覚者である。 明治二十四(一八九一)年十二月十七日、右門に正四位が追贈された。ジャーナリストの福地桜痴は、その翌年、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
 藤井満氏の記録に基づき、右門処刑から、同公園ができるまでの経緯をここに記録しておく。
 明治四十二(一九〇九)年、東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓に際し、小杉青年団において記念事業として碑が建立が決まり、旧小杉小学校校庭に「贈正四位藤井右門先生里閭碑」が建立された。
 その八年後の大正六年(一九一七)には、藤井右門百五十年祭が執行されている。その後、毎年命日の八月二十一日に右門廟前で右門祭が行われている。
 その後、富山県議会議長であり右門遺烈顕彰会会長の片口安太郎が中心となり史料を集めて調査研究をした結果、昭和十一(一九三六)年に、東京世田谷の妙高寺に右門の墓があることが判明した。そして、百七十年祭に当たり、遺骨を分骨して墓碑を藤井家の菩提寺の日澄寺横(社会福祉会館の裏)右門の生誕地にも近い一角に建立することが決まった。その間、片口は東京、京都の関係者に依頼、説得、町民への協力要請などに奔走し、ついに念願の墓碑(廟)建立に漕ぎつけたのである。
 筆者の手許には、墓碑建立のための工事が進められていた昭和十一年八月二十六日に富山放送局において、片口が放送した原稿がある。 続きを読む 藤井右門公園(富山県射水市)

射水市・日澄寺に安置される藤井右門像(宮原白水作)

 平泉澄は、「闇斎先生と日本精神」において崎門の学統を称揚し、次のように山県大弐と並んで藤井右門の名前を挙げている。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり…」
 一方、明治25年にジャーナリストの福地桜痴は、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
 右門が崎門の流れをくみ、維新運動の先覚者の一人であったことは間違いない。ところが、右門についてはその肖像画も像も、一般的には知られていない。
 平成29年6月、富山県射水市にある藤井右門公園を訪れ、右門の木造が、同公園に隣接する日澄寺に安置されていることがわかった。日澄寺のご住職にお願いし、木造を拝見することができた。
 射水市の彫刻家・宮原白水が昭和12年に制作したもので、高さ38.1センチ、幅43.6センチ、奥行き24.9センチの木造の像である。
 実は、2015年9月から11月にかけて、射水市の「太閤山ランドふるさとギャラリー」で開催された企画展「射水市ゆかりの作家たち」で、宮原の藤井右門像は展示されたので、地元では知られていたことになる。

藤井右門の思想形成─佐藤種治『勤王家藤井右門』の見解

 平成29年6月、富山県射水市を訪問し、維新運動の先覚・藤井右門関係資料を入手した。彼の思想形成に関して、新たに発見した事実を記録しておく。
 右門の父・藤井又左衛門宗茂は、もともと赤穂浅野家に仕えていたが、元禄の赤穂事件を契機に富山に移り、津幡江村(現射水市津幡江)の若林源吾宅助のもとに寄寓することになった。この宅助との出会いが、宗茂の日蓮信仰をさらに強めるきっかけとなったのである。
 宗茂が日蓮宗の信仰家であることを知った宅助は、宗茂を射水市小杉・日澄寺の日珠上人のもとへ案内した。当時、日珠上人は気概に溢れる青年僧侶であり、日蓮聖人遺文録を講義して人々に感化を与えていた。福島瑞岳は「日珠上人と藤井右門先生」において、次のように書いている。
 「又左衛門は日珠上人に接するや其熱心と國體観念に造詣の深かりしに敬信し、講義のある毎に欠かした事はなかった。…其後又左衛門は、日珠上人と別懇の間柄となり、遺文録を自ら求め宅助方にて拝読し、研究したのである」
 こうした宗茂の日蓮信仰が右門にも影響を与えることになったのである。『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘する。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 伊藤東涯(1670~1736年)は、伊藤仁斎の長男であり、孔子、孟子の原点に帰ることを主張した古学派の思想を継承していた。つまり、右門の思想には、崎門学とともに古学派と日蓮思想が影響を与えていた可能性がある。さらに、佐藤は右門に対する山鹿素行の影響を次のように指摘している。
 「日本主義の儒学者たる山鹿素行は浅野長矩・長広等の師である。従つて藤井又左衛門の如き、此の学問は徹底とまでは進まずとも香はかいでいゐるわけであり、彼の子右門にも家庭に於て間接の影響は無いとは断言できぬ」「素行精神と日蓮精神と合一し融和し調和し消化せられた家庭の感化が影響したのであらう」

権藤家と朝権回復運動─権藤宕山と田中宜卿(『久留米人物誌』より)

 権藤家のうち、朝権回復運動に関わる人物に関して、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
権藤宕山(とうざん)
 寛文四年(一六六四)、権藤種良の長男として出生。名は栄政(よしまさ)、医名は寿堅、宕山と号する。祖父種茂の親友であった柳川の安東省庵(京都堀川講習堂の開祖松永尺五の門下で、柳川藩の碩学)に師事した。省庵は明の鄭一元が長崎に亡命して来た時、宕山を長崎にやって、薬学を鄭一元に学ばせた。その後、江戸に行き、権藤種賢(祖父の兄八右衛門種公の第二子)について診察術を学んだ。業成って帰郷したが、その医名は四方に聞え、諸侯から招かれたがすべて辞退した。
 元禄年中(一六八八─一七〇三)京より逃げきて高良山五十世座主寂源をたずねて、高良山に隠棲し、帰雲翁と称した大中臣友安に就いて典制の学を学んだ。秘書「南淵書」を授けられた。この南淵書こそ、昭和初期の社会運動に大きな思想的影響をあたえた、宕山の裔「権藤成卿」の思想の原拠である。
 宕山は医業を子の寿侃(じゅがん)にゆずり、帰雲翁に啓発された制度律令を専心に研究し始め、愛宕山の南に居を新築し、「宕山隠士」と号した。来り学ぶ者が多かった。宕山は実学を重んじ、高良山座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を植えさせ、また二子の種英を三潴郡一丁原に移住させ、農聖北村正典の遺法を継ぎ、原野の開墾をさせた。宕山の学はかく実用を主として「我が道は飲食・男女・衣服・住居にあり」と言い、安民八綱・五刑の論を立て、礼刑の別を正した。享保十五年(一七三〇)四月六日没。享年六七。墓は御井町隈山墓地。宕山没すると、愛宕山の宕山の塾は、その高弟田中宜卿(ぎけい)が塾師として、宕山の学統を継いだ。
田中宜卿
 田中勘兵衛道経(玄樹と称し、医師、宝永三年三月二十一日没、享年七八)の長男、浩蔵と称し、名は宜卿。医名は玄伯、初め医業を大坂に開いたが、のち府中に来って権藤宕山に儒医を学び、高弟第一となる。宕山没後は遺塾の塾師となり、宕山の学続を伝えた。
 宜卿はかって尊王首唱者の竹内式部と交った。宝暦八年、幕府が公卿十七人の官爵を削り、式部等二十余人を都の外に追放した事件は、遠く府中に在る宜卿の身にもその嫌疑が及んだ。宜卿は師宕山の没後、二十有余年間の熟師としての身を、それ以来、客にも接せず、十七年間謹慎した。しかし、この間、宕山の嫡孫寿達に、宕山よりわが学び得たところを伝えた。安永四年(一七七五)二月二十六日没。墓は御井町隈山の権藤家墓域。
 宕山が高良山の隠士帰雲翁から授与された秘書「南淵書」は、宕山没後、宜卿が秘蔵していたが、宜卿の没後。転々とした(「府中「権藤氏」について」8頁参照)末、大正の初年になって、宕山五世の孫の権藤成卿の手に帰し、成卿の思想の淵源となった。

篠原正一『久留米人物誌』掲載の権藤家略系図

 拙著『GHQが恐れた崎門学』第二章『柳子新論』(山県大弐)において、昭和維新運動のイデオローグ権藤成卿の家系に言及した。例えば、権藤の曾祖父・権藤壽達(凉月子)は高山彦九郎とも交流があった。さらに、壽達の祖父宕山は、大中臣氏の制度律令に関する家説を受けて、「漢唐三韓」歴代の礼制、刑律に関する書を集めて研究し、独自の学問を確立した人物であり、竹内式部と交流のあった田中宣卿の師でもあった。
 竹内式部以来の権藤家と崎門学の関わりを究明するために、同家のさらなる分析が必要とされる。今回、筆者が新たに入手した篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)には、権藤家の人物誌とともに同家略系図が掲載されており、今後の研究の参考となる。

『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉