「国体思想」カテゴリーアーカイブ

久留米藩難事件と玄洋社

●平岡浩太郎と本城安太郎への古松簡二による感化
 玄洋社に連なる維新・興亜派と久留米藩難事件関係者の関係としては、武田範之の父沢之高、権藤成卿の父直に連なる松村雄之進、本荘一行らの名前を挙げられるが、玄洋社の平岡浩太郎、本城安太郎と古松簡二の関係にも注目すべきである。
 『東亜先覚志士記伝』は平岡について、「西郷隆盛等の征韓論に共鳴し、十年西南の役起るや、之に呼応して起てる越智彦四郎等の挙兵に加はり、事敗るゝに及び逃れて豊後に入り、薩軍に投じて奇兵隊本営附となり、豊日の野に転戦した。可愛嶽突出の後、遂に官軍に捕はれ、懲役一年に処せられしも、十一年一月特典によつて放免せられた。その在獄中、同囚たる古松簡二、大橋一蔵、三浦清風、月田道春等に接して読書修養の忽せにすべからざるを悟り、歴史、論孟、孫呉等を研鑽する所あつた」と書いている。
 一方、同書は本城安太郎について「明治九年十七歳の弱冠にて越智彦四郎の旨を承け、東京に上つて機密の任務に奔走したが、是れは越智等の一党が鹿児島私学校党に策応して事を挙げんとする準備行動であつたので、後ち計画が暴露するに及び捕へられて獄に下つた。この獄中生活は従来学問を軽んじて顧みなかつた彼に一転機を与へることゝなり、獄裡で同獄の古松簡二等の手引きにより真に血となり肉となる学問をしたのである」と書いている。

明治政府による「大和魂」の殺戮─『藻潭餘滴─古松簡二先生逸詩』井上農夫跋

 明治政府が遅くとも明治四年には維新の精神を裏切ったことは、筑後の勤皇志士・古松簡二(一八三五~一八八二年)の行動によっても知られる。
 古松は筑後崎門学の先人・高山畏斎の流れをくむ会輔堂に学び、文久三(一八六三)年に脱藩上京、国事に奔走するようになった。元治元 (一八六四)年三月には水戸尊攘派 (天狗党) の挙兵に参加している。慶応二年には幕兵に捕えられ、三年間獄につながれた。
 そして、維新後の明治四年、小河真文らの同志とともに維新の精神を裏切る明治政府転覆を計画して捕らえられ、終身禁獄の宣告を受け、東京石川島の獄に服役した。明治十五年(一八八二)六月十日、獄中でコレラ感染して死去した。
 大東亜戦争下の昭和十九年二月、古松の逸詩に小伝などを加え『藻潭餘滴─古松簡二先生逸詩』が刊行された。藻潭とは古松の号である。同書編纂には筑後郷土史の大家・鶴久二郎と、井上農夫が協力した。井上は、三上卓先生の『高山彦九郎』(昭和十五年刊)著述に全面的に協力した人物であり、権藤成卿の流れをくむ思想家、郷土史家である。『藻潭餘滴』序には、井上が頭山満翁門下であり、宮崎来城の高弟でもあったと記されている。
 同書跋文において、井上は明治政府が明治四年以来、維新の原動力となった大和魂を殺戮してきたと次のように批判している。
 〈(古松)先生の物に拘泥せず洒々落々たる襟胸と真贄熱烈なる憂国の至誠にひしひしと感慨胸をうたれるものがある。先生入獄以来獄死に至る十一年間は誠に東洋的政道と西欧模倣政治思想との激烈なる闘争の時期であつた。先生がそれによつて命を殞された明治四年事件を皮切りとして十年の西南戦争を筆止めにするの幾多の国事犯事件は幕末初期勤皇家の純誠なる道統を承継いだ無数の「大和魂」の殺戮史である。
頭山翁も云はれる如く明治十年までに日本の大木が皆切り倒されて、其後の日本は宛かも神経衰弱みたいに、左によろめき右に傾むき、ふらふら腰の情無い有様になつたのである。古松先生も亦、頭山翁の所謂大木の一人であること勿論である〉(原文カタカナ)

酒田湖仙編著『継志堂物語』①

 筑後崎門学発展に尽力した高山畏斎の伝記として知られるのが、『継志堂物語』(酒田湖仙編著、八女市上妻青年団文化部発行、昭和31年12月)である。継志堂とは、畏斎の私塾「高山塾」を継承する形で、彼の門人たちが設立した塾である。
同書には、筑後崎門学の系譜も掲載されている。

『稿本八女郡史』「文学列伝」①

 『稿本八女郡史』には、「勤王志士伝」とともに「文学列伝」という括り方で、学問的功績のあった人物の列伝を収めている。
 合原窓南を筆頭に、高山畏斎、高山茂太郎、後藤要助、古賀貞蔵、今村直内、佐野質斎、本荘星川、小川柳など崎門の学統を継いだ人物も含まれている。

以下、楠本碩水編『崎門学脈系譜』(晴心堂、昭和15年8月~16年9月)により、合原窓南と高山畏斎の系譜を示す。

内田周平先生の筑後崎門派論


 内田周平先生は「崎門尊王論の発展」において、筑後崎門派について次のように書いている。
〈此の人(本荘星川)は筑後上妻郡の人である。この郡は昔絅斎先生の門人合原窓南が長く子弟を教授した処であつて、其の流風余韻が幾らか残つて居つたと見える。高山彦九郎や唐崎常陸介が筑後に遊んだ時は、いづれも上妻に逗留し、彦九郎は殊にその士風を褒めた事が星川の伝の中に載つて居ります。……宝暦十二年に闇斎先生墓所修繕の事があつて、其の寄付金張が残つて居る。……殊に目立つて見えるは、筑後の人が十八人出て居る。九州では筑後一州の外、日向に一人あるのみにて、其の他は載つて居らぬ。高山彦九郎は筑後に逗留して筑後で終つた。維新前に於ても筑後は勤王志士の潜匿所のやうである。是れには何にか因縁があらふと思ひます〉

四元義隆に影響を与えた権藤成卿の思想

●四元義隆「民衆と天皇との間に何物をも挟んではいかん」
 血盟団事件に連座した四元義隆は、権藤成卿の社稷自治論を信奉していた。彼は次のように述べていた。
 〈『自治民範』などにも出て来ますが、社稷ということであります。何時か先生は社稷というのは、あれは土と穀物ということだから、民衆の此の生活する事実、是が社稷で是が最も大事なことである。いろいろ大義名分などということがあるが、人間が食うということ、此の衣食住という大事なことを忘れて仕舞う為に何時も国家を誤るのだということを言われました。実際の人間が食って行くことを忘れて神様の様に思うことはいかんことで、民衆の生活事実ということは最も大事なことだと思います。歴史を見ても我々はいろんな歴史を教わりましたが、民衆の生活事実が、何うであったかということは一つも教わりませぬ。是れではいかんことです。夫れが日本の神武天皇から伝わった処の本当の伝統で、民衆と天皇、皇室との間に何物をも挟んではいかんのであります。其の中間に何か挟まるから何時も誤るのであります。夫れでずっと歴史をみて行くと民衆と天皇の間に有るものが出来て来ます。夫れは権力の手段である為、夫れを胡魔化す為にはいろいろな道徳も説かなければなりませぬ。是は謂わば間違った生き方であります。日本の本当の生き方というものではありませぬ。民衆が各々其の処に健全な生活をして行くことが、本当の天皇の御意志でなければならぬとそういう風に考えました。是れは先生の学問というよりも、私がそう考えたのでありますが、夫れで私は先生の学問は本当に日本の歴史というものから、此の具体的事実から見て日本の本当の制度と組織、そういうものの正しい学問だと思います」

権藤成卿と久留米藩難事件関係者

●松村雄之進と本荘一行
 社稷自治思想を掲げて昭和維新のイデオローグとして活躍した権藤成卿の思想には、父直を取り巻く久留米藩難事件の関係者が影響している。
 松村雄之進もその一人である。松村こそ、大楽源太郎を止むを得ない状況下で暗殺した一人であり、政治犯として明治十一年まで入獄していた。明治十三年には福島県に移住し、水用を開拓した。
 松村の傘下に集まっていた青年の一人が興亜の先覚・武田範之である。武田は、久留米藩難に連座した沢之高の実子で、小河真文の従弟。武田の養父武田貞祐は大楽源太郎と親交があった。
 また、権藤は、明治十三年に山川村の尋常小学校を卒業すると、父直と親交のあった大阪の本荘一行のもとへ実業見習いに出された。本荘一行について『東亜先覚志士記伝』には、「旧筑後久留米藩士。少壮にして藩の重職に挙げられ、維新の初め久留米藩の志士が長州の大楽源太郎を暗殺した際などは自宅を同志の集合所として共に事を謀り、以て一藩の運命を救つた」と書かれている。本荘は、松村同様に久留米藩難事件において尋常ならざる体験をした人物である。

久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘

 幕末の久留米藩士として先駆けて水戸に遊学したのは、木村三郎だった。天保12(1841)年、彼は水戸に遊んで「南街塾」で学び、久留米に戻ると私塾「日新社」を開いて子弟の教育に当った。この木村と刎頸の交りがあったのが、真木和泉である。
 真木は木村から『新論』を示され、正志斎の真価を聞くにおよび、水戸遊学への思いを募らせ、弘化元(1844)年7月に水戸に赴いた。 実は、真木に先立つ天保13(1842)年に水戸に学んだ久留米藩士がいた。それが、村上量弘(守太郎)である。木村、村上、真木の三人は天保学の三尊とも称せられていた。ところが、村上と真木は対立するに至り、嘉永5(1852)年には久留米の水戸学派は弾圧されるにいたる。いったいに何が起こったのか。
 『久留米人物誌』の「村上量弘」の項を引く。 続きを読む 久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘

大楽源太郎の私塾「西山書屋」規則、授業内容

 大楽源太郎は慶応二年に私塾「西山書屋」(敬神堂)を開設した。塾規則、授業の日割は以下の通り。
●西山塾規則
一、第一君公の御主意を相守り、寮中親睦致し、練武学文懈怠なく勉強肝要之事
一、喧嘩口論高声堅く禁止之事付而俗曲同断之事
一、猥に外出堅く禁止の事但し難容用事之れ有候節は頭役座元へ相届外出致すべく侯
一、朔日十の日休日の事
一、朝六ツ時より五ツ時まで撃剣稽古の事
一、六ツ時より七ツ時まで読書稽古の事
一、暮六ツ時より四ツ時まで同断の事
一、二四六九日銃陣稽古のこと、但し四九日は九ツ時より七ツ時迄の事 其の余は諸稽古勝手次第の事
   正月    敬神堂
 右の条々堅相守侯事
●授業の日割
 朔 日 休業
 ニノ日 会読(論語、弘道館記述義)
 三ノ日 同(外史)
 四ノ日 同(靖献遺言、新論)
 五ノ日 同(論語、弘道館記述義)
 六ノ日 同(弘道館記述義)
 七ノ日 同(外史)
 八ノ日 同(靖献遺言)
 九ノ日 同(弘道館記述義、新論)
 十ノ日 休業
 十一日/二十一日 詩文国詩随意 

真木和泉の死と大楽源太郎

 
 大楽源太郎は、明治四年二月に小河真文、寺崎三矢吉らとともに「西洋心酔の政府を倒壊せん」とする計画を立てたものの、結局久留米藩士の手で殺害された。彼は、崎門学、水戸学を修め、王政復古に挺身した。彼には真木和泉の精神が継承されていたかに見える。元治元年7月21日、真木が天王山の露と消えた直後、大楽は真木ら十七士の自刃をしのび次の一詩を作っている(元治元年8月13日)。
   良夜無心一杯をとる
   諸公は屠腹して余哀あり
   凄涼たり看つくす屋梁の月
   遙に照す天王山上より来るを
「石田英吉関係文書」の中に、大楽自筆の墨書が残されている。