令和2年10月18日、崎門学研究会主催の「第一回天皇親政について考える勉強会」が開催されました。
動画前篇です。
「活動報告」カテゴリーアーカイブ
『宗教問題』32号に連載第2回「なぜ垂加神道なのか」掲載(令和2年11月)
『宗教問題』で連載「現代日本人のための垂加神道入門」開始
安倍首相に種子法に関する要望書を提出(平成30年7月26日)
平成三十年七月二十六日、内閣府に赴き、安倍首相宛に種子法に関する要望書を提出した。
以下に要望書の全文を掲載する(賛同者の連名は五十音順とした)。
「種子法(主要農作物種子法)廃止に抗議し、同法復活と併せて必要な施策を求める要望書」
今年(平成三十年)四月、安倍内閣によって種子法(主要農作物種子法)が廃止された。この種子法は、米麦大豆などの主要農作物の種子の生産と普及を国と県が主体になって行うことを義務付けた法律である。この法律のもとで、これまで国が地方交付税等の予算措置を講じ、県が種子生産ほ場の指定、生産物審査、原種及び原原種の生産、優良品種の指定などを行うことによって、良質な農作物の安価で安定的な供給に寄与してきた。
しかし、安倍首相は、この種子法が、民間企業の公正な競争を妨げているとの理由で、突如廃止を言い出し、国会での十分な審議も経ぬまま、昨年三月可決成立させてしまった。
今後種子法廃止によって、外資を含む種子企業の参入が加速し、種子価格の高騰、品質の低下、遺伝子組み換え種子の流入による食物の安全性への不安、長年我が国が税金による研究開発で蓄積してきた種子技術の海外流出、県を主体にすることで維持されてきた種子の多様性や生態系、生物多様性への影響など、数多くの弊害が危惧されている。
こうした懸念を受けて、「種子法廃止法案」では、付帯決議として「種苗法に基づき、主要農作物の種子の生産等について適切な基準を定め、運用する」「主要農作物種子法の廃止に伴って都道府県の取組が後退することのないよう、・・・引き続き地方交付税措置を確保し、」「主要農作物種子が国外に流出することなく適正な価格で国内で生産されるよう努める」「消費者の多様な嗜好性、生産地の生産環境に対応した多様な種子の生産を確保すること。・・・特定の事業者による種子の独占によって弊害が生じることがないように努める」ことなどが記されているが、どれも努力義務で法的強制力はないばかりか、早くも政府は、この付帯決議の主旨に逆行する政策を推し進めている。
特に、政府が種子法廃止の翌月に成立させた、「農業競争力強化支援法」には、「種子その他の種苗について、民間事業者が行う技術開発及び新品種の育成その他の種苗の生産及び供給を促進するとともに、独立行政法人の試験研究機関及び都道府県が有する種苗の生産に関する知見の民間事業者への提供を促進する」とあり、我が国が長年、税金による研究開発で蓄積してきた「種苗の生産に関する知見」を民間企業に提供することが記されている上に、この「民間事業者」には国籍要件がないため、海外のグローバル種子企業に種子技術が流出し、生物特許による種の支配を通じて我が国の農業がコントロールされかねない。なかでも、世界最大のグローバル種子企業であるモンサントが販売する遺伝子組み換え(GM)種子は、発がん性など、安全性が疑問視されており、国民の健康に及ぼす被害は計り知れない。
上述の通り、安倍首相は、種子法が民間企業の公正な競争を妨げているとの理由で廃止したが、すでに政府は、平成十九年(二〇〇七年)に行われた規制改革会議・地域活性化ワーキング・グループの民間議員から、同様の指摘がなされたのに対して、「本制度が(民間による)新品種の種子開発の阻害要因になっているとは考えていない。」と答弁している。ところがその後、認識を変えたのは、規制改革推進会議の強い政治的圧力が負荷されたためである。すなわち、平成二十八年(二〇一六年)九月に行われた規制改革推進会議の農業ワーキング・グループで「民間企業も優れた品種を開発してきており、国や都道府県と民間企業が平等に競争できる環境を整備する必要がある」という提言がなされ、さらに翌十月には、「関連産業の合理化を進め、資材価格の引き下げと国際競争力の強化を図るため」、「戦略物資である種子・種苗については、国は国家戦略・知財戦略として、民間活力を最大限に活用した開発・供給体制を構築する。そうした体制整備に資するため、地方公共団体中心のシステムで、民間の品種開発意欲を阻害している主要農作物種子法は廃止する」として突如廃止の決定がなされたのである。
問題なのは、この種子法廃止を決定した規制改革推進会議は、単なる首相の一諮問機関に過ぎないにも関わらず、公共政策の決定に関して不当に過大な影響力を及ぼしている事である。特に同会議を構成するメンバーは、一部の大企業やグローバル資本の利益を代弁した民間議員であり、農業問題に関しては「素人」を自称しており、食糧安保や国土保全といった農業の持つ多面的機能への視点が欠落している。従来、農業問題に関しては、農水省が設置し、農業問題の専門家からなる「農政審議会」が審議したが、安倍内閣が創始した内閣人事局制度のもとで、各省が官邸に従属しているとも言われている。
さらに問題なのは、この規制改革会議による種子法廃止は、農協の解体を始めとする、安倍内閣による一連の新自由主義的な農業改革の一環であり、その背景には、アメリカ政府やグローバル企業による外圧の存在があることである。我が国における農業分野での規制改革は、アメリカがクリントン政権以降の「年次改革要望書」のなかで繰り返し要求して来たが、平成二十四年(二〇一二年)に第二次安倍内閣が発足すると、この動きは加速した。平成二十六年(二〇一四年)一月に安倍首相がスイスのダボス会議で規制改革を国際公約した同年五月、在日米国商工会議所(ACCJ)は、「JAグループは、日本の農業を強化し、かつ日本の経済成長に資する形で組織改革を行うべき」との意見書を提出すると、それに歩調を合わせたかのように、政府は「規制改革実施計画」を閣議決定して農協改革を強行した。ACCJはアメリカ政府と企業の代弁機関であり、彼らの狙いは、農業での規制緩和による米国企業の商機拡大と、農協が有する360兆円もの金融資産の収奪に他ならない。このような米国政府やACCJによる外圧は、我が国に対する内政干渉であり主権侵害である。
前述したように、安倍首相は、種子法の存在が、民間企業による公正な競争を妨げ、我が国農業の国際競争力を損なっているとしたが、現状の政府による農家への過少保護政策(例えば、農業所得に占める政府の直接支払割合(財政負担)は、我が国が15・6%に過ぎないのに対して、アメリカは26・4%であるものの、小麦は62・4%、コメは58・2%にも上る。さらにフランスは90・2%、イギリスは95・2%、スイスは94・5%にも及び、欧米に比して極端に低い)を差し置いてそのような主張をするのは全くの筋違いである。
古来、我が国は、「葦原の瑞穂の国」と称され、農業、とりわけ自国民の主食を生み出す稲作を立国の根幹に据えてきた。そのことは、天照大神が天孫瓊瓊杵尊の降臨に際して、皇位の御徴である三種の神器と共に、「斎庭の稲穂」を授けられ、いまも今上陛下は、毎年の新嘗祭において、新米を天照大神に捧げられ、五穀豊穣を感謝されていることにも象徴的に示されている。特に安倍首相は、平成二十四年(二〇一二年)の政権奪還時に、「ウォール街の強欲資本主義」に対して「瑞穂の国の資本主義」を掲げながら、いまでは新自由主義的な農業改革を推進し、その一環である種子法廃止は、「瑞穂の国」を破壊する売国的所業である。
以上の趣旨に基づき、安倍首相に対して以下の通り要望する。
一、安倍首相は、速やかに種子法を復活し、優良で安価な農作物の安定供給を確保すること。また、先般野党が共同提出した種子法復活法案を成立させること。
一、安倍首相は、アメリカやグローバル企業の利益を代弁した規制改革推進会議を即刻廃止すること。
一、安倍首相は、二〇一三年に生物特許を禁止したドイツの例に倣い、遺伝子組換え種子に対する生物特許を禁止すること
一、安倍首相は、家畜飼料を含む全ての遺伝子組み換え食品への表示を義務化し、意図しない混入率をEU並の0・9%(我が国は5%)未満へと厳格化すること。
残念ながら我が国では「消費者基本法」において、消費者に必要な情報が提供される権利が保障されているにもかかわらず、調味料など、組み換え遺伝子とそれによって生成したタンパク質が含まれない食品への表示義務はなく、主な原材料(重量の多い順で上位三位以内、かつ全重量の5%以上)にしか表示義務がない。また遺伝子組み換え作物の最大の用途である家畜飼料にも表示義務がない。
右、強く要望する。
平成三十年七月二十六日
安倍首相に種子法復活と併せて必要な施策を求める有志一同
(千葉県浦安市当代島一―三―二九アイエムビル5F)
(代表)折本龍則 坪内隆彦 小野耕資
(賛同者)稲村公望 加藤倫之 四宮正貴 高橋清隆 田母神俊雄 西村眞悟 原嘉陽 福永武 前澤行輝 三浦夏南 三浦颯 南出喜久治 村上利夫
内閣総理大臣 安倍晋三殿
山崎闇斎先生生誕四百年祭に参列(令和元年11月30日)
令和元年11月30日に京都下御霊神社で挙行された山崎闇斎先生生誕四百年祭に、崎門学研究会代表の折本龍則らが参列しました。
まず午後1時過ぎから垂加霊社で出雲路宮司による神事が営まれ、その後国学院大学の西岡和彦教授が「闇斎先生と中臣祓」と題して講演されました。西岡氏によると、中臣祓は、闇斎先生が帰幽された際に門人たちが唱えたとされ、君臣合体守中の道を表しております。天孫瓊瓊杵尊が雲の上である高天原から地上に降臨したとするのは本居宣長以来の国学的影響であり、垂加神道では、高天原とは皇居のことであり、天孫降臨とは日向への西遷を意味します。このことは藝林特別号における氏の論文で詳述されています。
講演の後、皇學館大学の松本丘先生が、自ら作成された垂加神道系譜について解説されました。最後に、社務所横の建物で記念展示を拝観致しました。
京津史蹟を歴訪(令和2年2月23日)
谷中霊園を訪問(令和2年6月27日)
多磨霊園墓参(令和2年7月26日)
令和2年7月26日 崎門学研究会、大アジア研究会合同で多摩霊園を訪問。元朝日新聞記者の山下靖典さんにもご参加いただいた。
本件はもともと内田良平翁の命日に墓参することを企画したもので、それに合わせて同じく多磨霊園に眠る先人を訪ねることとしたものである。上杉愼吉、高畠素之、内田良平、葛生能久、中野正剛、徳富蘇峰、五百木良三、三島由紀夫(平岡公威)、倉田百三、岡本太郎、山下奉文、ラス・ビハリ・ボースを墓参(訪問順)。先人に思いを致した。
墓参者を紹介しつつ戦前日本の歴史を振り返りたい。
戦前日本の心ある国体派の信念は「一君万民」と「アジア解放」であった。一君万民の信念は反藩閥、軍閥で幕府的権力を認めないことと、経済弱者の救済にあった。こうした一君万民、アジア解放の流れは、玄洋社系、東亜同文書院系などさまざまな流れが渾然一体となって取り組んだものであった。
内田良平は頭山満の盟友で玄洋社三傑の一人平岡浩太郎の甥。明治三十四年には黒龍会を結成、アジア解放運動に取り組んだ。この黒龍界の結成メンバーの一人が葛生能久であった。この黒龍会のアジア解放運動の一環として支援したのが、ラス・ビハリ・ボースのインド独立運動である。
ボースはイギリスからのインド独立運動に挺身し、指名手配されて日本に亡命していた。ボースと共に黒龍会が支援したのが、フィリピンのリカルテ将軍であった。
玄洋社、黒龍会と並んで戦前日本のアジア解放運動の震源となったのが東亜同文書院である。東亜同文書院は東亜同文会が上海に設立した日本人の教育機関である。東亜同文会は明治三十一年、近衛篤麿が会長となり設立した団体で、初代幹事長は新聞『日本』を作った陸羯南であった。この『日本』社員であり、篤麿の手足となって活動した人物が五百木良三(飄亭)であった。飄亭は俳号で、この俳号を付けたのは俳句の師正岡子規である。日露戦争に際しては対露同志会等で篤麿の活動をサポートした。また、『日本』社長陸羯南の盟友三宅雪嶺の娘婿が、中野正剛である。中野正剛は早稲田大学出身の政治家で、東方会を主催した。戦前の東條内閣を激しく批判し、追い詰められ割腹した。
大東亜戦争の際に東亜開放を旗印にマレー作戦を行ったのが山下奉文大将である。山下はマレーを制圧した後フィリピン侵攻作戦も行い、マッカーサーを一時撤退させるにまで至った。フィリピンで日本軍と共に戦ったのは、リカルテ将軍率いる独立軍であった。大東亜戦争終結後、山下大将はBC級戦犯裁判として処刑された。山下弁護ためあえて証言台に立ったのは、リカルテ将軍の孫ビスであった。
山下大将の墓参については、山下靖典さんの思いを語っていただくことができた。大将には実子がいなかったので、兄の奉表の子で甥にあたる山下九三夫を養子に迎えた。靖典さんは、九三夫氏と交流があった。靖典さんは、マニラ軍事裁判後にニュービリビット刑務所で処刑された、山下大将らが葬られたモンティンルパにもお参りしたことがあったそうで、今回改めて多磨霊園の山下大将、九三夫氏の墓参ができたことの意味を感慨深く語っておられた。
弱者救済論に移ろう。上杉愼吉は戦前の憲法学者で天皇主権説を唱えた人物で、晩年は経済弱者救済にも関心を持ち、「貧乏でなければ本当の愛国はできない」と主張した。この上杉とともに尊皇社会主義ともいうべき主張を行った人物が、高畠素之であった。高畠は堺利彦、山川均らとともに運動を行う社会主義者であったが、国家が積極的に経済弱者を救済するべきという考えを持っていた高畠はしだいに堺、山川らと路線を異にし、社会主義陣営から抜けむしろ国家主義陣営に与した。ともに運動を行った人物が、上杉愼吉であった。経綸学盟を結成した。
高畠の弟子に津久井龍雄がいる。この津久井が赤松克麿らとともに作ったのが国民協会である。ここに参加したのが倉田百三であった。倉田は一高を卒業後人生の煩悶に苦しみ、キリスト教や浄土真宗など数ある信仰を渡り歩いた。最晩年には日本主義に目覚め津久井らと運動を行っていたのである。
話は戦後に移る。戦後、GHQは戦犯指名を行い、日本をアメリカの衛星国として作り替えようとしていた。それを忌々しい所業だと考えていたのは自身もA級戦犯に指名された徳富蘇峰であった。蘇峰は自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」と戒名を付け、敗戦を受け止めつつも、敗戦後アメリカに媚びる日本人に継承を鳴らし続けた。その墓には「五百年の後を待つ」と日本が敗戦から必ず復興するという蘇峰のメッセージが刻まれている。
同じく戦後日本の対米従属の姿勢に憤りを感じたのが文学者の三島由紀夫である。三島は「日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」といい、昭和四十五年、自身が結成した盾の会の面々と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地にて決起。檄を飛ばした後割腹自決した。
三島が決起した昭和四十五年はちょうど大阪万博の年でもあった。高度経済成長を背景に「人類の進歩と調和」を掲げた未来的幾何学デザインを前面に出した万博であった。この軽薄な万博の方針に決然と異を唱えたのが岡本太郎であった。岡本は万博にあってあえて「人類の進歩と調和」に真っ向から対立する縄文土器をモチーフとした「太陽の塔」を設計。独自の芸術論を謳った。
小野耕資『筆一本で権力と闘いつづけた男 陸羯南』出版記念講演(令和2年11月8日)
第一回「天皇親政について考える勉強会」(令和2年10月8日)
令和2年10月18日、崎門学研究会主催により上野貸会議室で第一回「天皇親政について考える勉強会」を開催しました。
代表の折本龍則が、議院内閣制に基づく政党政治が行き詰まる今日、我が国古来の統治形態である天皇親政の今日的可能性について問題提起しました。以下に当日配布されたレジュメを紹介いたします。
今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?
続きを読む 第一回「天皇親政について考える勉強会」(令和2年10月8日)